ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

社会と世間。

 ちょっと前の話なのだけれど、自分ルールとしての禁忌を破り、「徹夜明けて徹夜」、即ち、徹夜して睡眠、昼過ぎに起床してまた徹夜、という暴挙を行使してしまった。

  家での引きこもり仕事だったので、三日ぶりに太陽を浴びてバイクで通勤して退社して、ぬるい風を受けて帰ってきたら、けっこう心地良かった。

 バイクにシートをかけていたら、めちゃくちゃ犬に吠えられて、犬を連れたおじいさんが申し訳なさそうにへへへと笑い、「こいつ臆病なんですみませんね、・・・」と、ぺこりぺこりと頭を下げられた。いやいや大丈夫ですよ、ぜんぜんかまいませんよ、という気持ちを込めて、わたしはヘルメットの中で、そんなような意思を身振りで伝えた。

  その後、おじいさんの犬は、先の階段に腰掛ける若者二人にもわんわん吠えていて、おじいさんはまたしてもぺこぺこ頭を下げて歩いていた。一見して難しそうな若者も、わたしと同じような態度でニコニコ笑っていた。

 

 家のアパートというかマンションというか、とにかくわたしの住処は三階建てで、三階に大家さん一族が住んでいるのだけれど、休みの日になるとお孫さんか誰かの子どもだかが来るようで、わたしの部屋の真上にドタドタと走り回る音がする。

 今の時期は特に、窓を開け放していたりするので、キャッキャキャッキャと笑い声や、エンエン、エンエンと、もの凄い泣き声が聞こえたりもする。

 

 わたしたちは、子どものそういった声などは気にならないタイプなので、少しも嫌な気持ちはしないし、むしろ微笑ましい気持ちになったりもする。

 ところが、本当にもの凄い音だったり、どういうわけか馬が蹄を鳴らす音みたいなのとか、なんなら、「あれ、地震?」などと勘違いするほどの振動が上からすることがあり、そういう時には、かのじょと「本当に本っ当にクレームとかじゃなくて、純粋に、上で何をやっているのか知りたいよね。」と話したりもしている。

 大家さんはすごくいい人なので、多分、そういうことを言ったら、めちゃくちゃ謝ってくるだろうし、遠慮してお孫さんだかをのびのび遊ばせることをしなくなってしまうだろうから、そういうことを聞いたりはできない。廊下などで会った時に、世間話ついでにスムーズに聞き出せるほどの社交性スキルでもあれば別かもしれないけれども。

 

 ところで、子どもとか犬とかの鳴き声に過敏なひとがいるけれど、わたしにはそういう気持ちがあまり無いので、まあ分からないでもないが少しだけ不思議におもう。

 騒音問題、という話題をすれば、動物や子どもたちよりも、大人の方がずっとうるさいし嫌な気持ちにさせられることのほうが、わたし的にはずっと多い。

 ワンワン吠える犬もエンエン泣く子どもも、大概の場合、それを叱るまわりの大人たちのほうが、よっぽど癪に障る叱り方をしていたりする。

 大人は言語で論破しようとするからいけない。世間のことが自分の耳にも聞こえてくるから逐一その正当性みたいなものを考えてしまう。わたし的にはそういうあまり興味の無い問題を「考えて」しまう、ということのほうが、よっぽど騒音だと感じることがある。泣きたいから泣く理由なき子どもや犬ころのほうが何故だかあまり気にならない。

 

 この間、何かのメディアであるひとが、この国には「世間」と「社会」があると、外国人のかたに説明していて、なるほどと唸ってしまった。

 この国のひとは、誰かが落とした財布や携帯電話を、それを拾った人がなんの見返りなしで返してくれる反面、通勤電車では老人や幼児を抱いたお母さんなどに席を譲らない場面がある。その矛盾みたいなものを、外国人がアンバランスに感じるのだという。

 それは、この国のひとが「世間」と「社会」を意識的、あるいは無意識下で、分けて考えているからおこるのだという。

 つまり、平日の満員電車というのは特に「社会」が強く、この国の人は、「社会」というのはそれぞれがそれぞれの役割を担ってこそ円滑に回っている(と、思い込んでいる)ものなので、そこに自分の役割とは違う出来事があったとしても、平気で見て見ぬふりができるし、なんなら、その自分にとっての「社会」にひとたび異質な出来事が入り込むことを、あべこべに厚かましいだとか無礼だとか感じたりして、逆に、腹を立てたりするのだという。

 

 かくいうわたしも、子どもや犬にワンワンエンエン泣かれ、吠えられても嫌な気持ちがしないのはそういうことかも知れない。それはその空間をわたしは「世間」と認識しているからで、むしろぜんぜん気にしてませんよこちらこそ、なんていう気持ちや、場合よっては過剰なほどの親切心が無意識に働いてくるのも、そういった理由があるのかもしれない。

 わたしもたぶん、休日という「世間」の時間帯に、財布や携帯電話を拾ったとしたら、無条件で警察などに届けるだろうし、お年寄りや子連れのお母さんたちがいても、気持ちよく席を譲ることができる。

 さらにいえば、おじいさんがぺこぺこ頭を下げながらも犬を連れて歩くのは、頭を下げるほどにはそう悪い事だとは考えてはいないかもしれず、むしろそこに発生する人との触れ合いを楽しんでいる可能性は高い。

 おそらく「世間」というのはそういう奇妙な魔力みたいなものが働いていて、けっこうみんながそうして親切になれたり、「社会」においては一見すると迷惑だと感じる行為さえも、中和したり反転させたりするのだとおもう。「お互い様」という奇妙な呪文もあるしね。

 

 逆にいえば、わたしが二連続で徹夜仕事という、非常に乱暴で殺人的な業務がこなせるのは、それがわたしにとっての「社会」だからなのだろう。

 つまりは自分自身の「社会」には、どんなに大変な仕事だろうが責任を持って対処出来るし、しなければならないという謎の使命感が湧き出すものだ。

 一方で、その「社会」を妨害されることのほうが、よっぽど腹が立ったりもするのだから、ホント不思議なものだ。

 わたしだって、大家さんがどんなに良い人だろうがなんだろうが、「世間」としての認識で、わたしの従事する専門的な仕事を無償で頼んできたとしたら、ふざけんなとおもうだろうし、犬を連れたおじいさんがぺこぺこしながら仕事を頼んできたら、こっちはプロだぜなめんなよ、とおもうだろう。そりゃ、当たり前か。

 

 それはともかくとして、たぶんこの理論によって、ひとは簡単に弱い人を見過ごせる反面、極端な話、仕事となれば死ぬと分かっていても危険な場所に飛び込める人がいたりもするのかもしれない。

 

 若いひとが昨今、飲み会を断る理由もそういうことかも知れない。彼らは「社会」を毛嫌いしているので、プライベートタイムにまで「社会」を持ち込もうとする大人達に憤りを感じるのだ。

 いや、少し違うか。彼らの多くは「社会」とも「世間」ともうまく折り合いがつけられていないのではないか。だからこそ、「自分の時間(プライベート)」というものを過剰に大切だと感じていて、社会も世間も自分の時間を害する不穏因子でしかないのかもしれない。わたしにも身に覚えがあるからたぶんそういうことだとおもう。

 

 徹夜二日目の時のぼんやりとした頭に流れ込んできた痛ましい事件も、そのような「世間」と「社会」のバランスを深く考えさせられるような出来事でもあった。バスを待つ学童が狙われるというのは、「世間」にとっては非常にショックだし、「社会」としても是正していかなければならない重要な問題だ。

 それから、その後に議論された、「死ぬならひとりで死ね」という犯人に向けられた声も、賛否あるだろうけれど、わたしはただひたすらに愚かだと感じた。

 ようするにそういうことは「世間」で噂しあえば良いし、おもう存分に罵ればいいし、いくらでも批難すればいいが、決して「社会」に大声で発して良い言葉ではない。

 

 それからメディアやネットは、「社会づら」の隠れ蓑をまとった「世間感覚」で簡単に発言するひとが多いのでいけない。そんなこと言うからしっかりした「社会」からの猛反発が起きるのではないか。

 そんなことはわかりきっているのに、いつでもメディアはそういう話をしたがる。テレビのコメンテーターみたいな芸能人も、この事件とはいわないけれど、いつでも顔だけはものすごい悲痛な顔をしてはいるが、どこまでいっても面白おかしく笑いあっているようにしかみえない。

 

 泣く子どもよりも大きな声で叱る親の方がうるさいのに、親でもないひとが叱ってさらにうるさく感じるのは、叱る側が「社会性」を振りかざしているからかもしれない。

 

 あとは、犯人の人となりなんて別に知りたくもないけれど、彼は彼で「社会」からも「世間」からも隔絶されて、さらには自分すらもうまく使いこなせずに、次第にすり減っていく「自分の時間」に、焦りを感じていたのかもしれない。

 

 別に犯人のこととか犯罪のこととか、なんなら世間や社会とかとやかと押しつけがましく言いたかったわけでもないが、こうしてぼやいてしまったのだから仕方が無い。

結局はわたしも、「社会づら」をして「世間感覚」でものを言う、したり顔のくだらない大人に変わりはない。

 

 しかし、それから、要するに、つまりだね、・・・何が言いたかったのかといえば、やっぱりすべてはバランスなのだよという話。ただそれだけなのでした。

 

 飲み会に行きたがらない新入社員の若いひともそれはそれで結構だけれど、もしその根幹に社会と世間にうまく折り合いがつけられず、自分の時間ばかりを大切にしたいという心情があるのならば、もしかしたらその犯人みたいになっちゃうかもよ、という乱暴で極論的な警笛をあえて鳴らそう。

 だって「自分の時間」は誰だってすり減っていくものなのだからね、とあえて云おう。

 だからよければ、ぼくと飲みに行こうよ、とも云おう。

 社会と世間と自分の時間をうまく乗りこなせれば、人生はより豊かになるかもしれないよと、あえて云おう。

 

 今日はそんだけ。ごめんください。また今度。