ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

いのちの重さ

*文章には不快におもえる表現が含まれているかもしれません。そう感じたら直ちにブラウザを閉じていただけると幸いです。

 

 

 先日、看護師の友人とおしゃべりしていたときの話題。

 当たり前だけれど入院患者にはお年寄りが多く、そのぶん予期しない様々な事態が起きるらしい。

 そして、その予期せぬ事態すらもあらかじめ想定し、毅然と働く医療従事者。理性道徳人情感情さまざまな事情。生と死のボーダーラインに常に立つとてもセンシティブな現場。はたまた、そんな、りせいどうとくにんじょうかんじょうさまざまな事柄を決して綺麗事だけに収めずあえて排除し、極めてドライかつ淡泊に仕事を進める医療従事者の生の声を訊く。そんな話題に、わたしは時に感服し時に戦慄したりもする。

 

 たとえば高齢のガン患者。彼らはたいがい他の症状も併発しているらしい。痴呆症状のうえ鬱症状も現れている患者も珍しくもないらしい。

 そんな患者さんは、自分が何をしているのかがわからずに、術後の傷口を掻きむしったり、点滴を外そうとしてしまうらしく、そうしないために拘束具のようなもの(実名は失念)を嵌め、身動きを取れなくしているらしい。日常的に、殺せ、殺してくれ、とわめく患者さんも少なくもないらしい。

 壮絶。そんな話題を訊けば絶句するのが正当な態度なのかもしれないが、わたしはわたしの性分から率直な意見を述べる。

 「おれだって殺して欲しいとおもうよ、そうなったら。」

 ですね。かもしれません。友人もそういう。もちろん看護師の立場からの意見ではない。

 「でもどうしてそうまでして生かしておきたいとおもうのだろうね、人類は」いつものわたしの中のペシミストが顔をみせる。

 友人は少し考えてこう答える。

 「家族が生きていて欲しいっておもうんですよ。」

 ここでしばしの絶句。友人は続ける。ここからは彼の医療従事者としての愚痴もチラホラと覗かせる。

 「そのわりに、やれ家での看護はできない。やれ施設には預けたくない。そんなふうにごねたりもするんですよね。」

 家族には看護できる余裕はない。施設は遠いところにあるので通えない。術後快復したとしても、受け入れられるかどうかわからない。そうぼやくご家族も少なくないらしい。

 

 言っていることはわかる。生活面、経済面、あらゆる事柄から、痴呆を抱えたガン患者の面倒を100%見られるような家庭は、この国でさえそう多くはないのだろう。どうしようもない。けれど生きていてほしい。それもわかる。肉親ともなれば当然の感情なのだろう。

 如何ともし難い。

 ホントに、どうしたもんかねぇ。

 

 人類の悩みは尽きないよね。

 

 と、そんな話がひとつ。

 そんな話をしている最中、わたしは頭の片隅に留められていた、すこし前に見たネットの記事を思い出す。

 その記事は、「さくらねこ」についてだ。

 

 「さくらねこ」というのは、人の手によって耳が桜の花びらのようにカットされた猫のことをいうらしい。なぜそんなことをするかというと、不妊手術をした証明として、猫の耳を少しだけカットしておくという話だ。

 なんでもこの国は、年に8万匹もの野良猫たちを殺処分してしまっているという。そしてそんな命を全うできずに処分される“不幸”で“かわいそう”な猫たちを、少しでも多く救うために、あらかじめ不妊手術をし、地域でコントロールしていこうというプランらしい。また、不妊手術は“かわいそう”だとか虐待だとかという意見もあるらしいのだが、不妊手術には多くの“メリット”もあるという。猫エイズやウィルス感染のリスクも減り、寿命もずいぶん延びる確率が上がるらしい。

 

 なるほどね。へぇ。

 

 と、そんな話がひとつ。

 

 それからわたしは最後にもうひとつあるニュースを思い出す。

 

 それはしばし世間で議論されている、辺野古への米軍基地移設の問題だ。

 この国が直面している問題、外交や周辺住民との衝突。それらについてのわたしには明確な意見はあまりない。さしてその地域の側に立った意見も言えやしない。国防、日米安保、安全基準、治安維持。そんな言葉もまるで異世界の呪文のように聞こえて、真実の意味を見出せずにいる。申し訳ない話だが。

 それでもわたしには、ただひとつだけ、深く心の片隅に澱のようにわだかまり、いまでも気にし続けていたニュースが飛び込んできた。

 それは、「辺野古の海で生息確認されているジュゴンの1頭の死亡が確認された」

 というニュースだった。

 

 なんでも沖縄のジュゴンは絶滅したとおもわれていたのだけれど、3頭のジュゴン辺野古の海の周辺にて確認されていたという。そして、このほどの辺野古湾岸埋め立て工事後に、その中の1頭の死亡が確認されたというのだ。なお、沖縄の防衛局は工事の“影響”はない、と関連性を否定してもいるらしい。

 

 へぇ。

 なんだかなぁ。

 ホントに、

 どうしたもんかねぇ。

 

 ホントに。本当にわたしはこの先の友人の話、さくらねこ、ジュゴン。そんな話題が近い間隔で頭のなかにノーガードのままに急に飛び込んできて渦巻き。なんていうか、そのハレーションというかコントラストみたいなものにとても目がくらんでしまったのだ。悪酔いしてしまったのだった。

 なんだかなぁ。と。

 

 

 正直に話そうかな。慮ってまあるい意見を連ねても仕方が無いとおもう。尤も、答えもないし、むしろ正解もないのだけれどもね。

 

 

 

 

 「・・・おれはね、

 正直な話、人類って必要か?って感じることがたまにあるのよ。必要無くね?むしろ害じゃね?ってね。で、その前提、その前提で話をさせてもらうよ。ここでは。

 

 ・・たとえばおれのじいさん。すごい立派なひとだったよ。それから兄貴。これもおれと違って立派だよ。クズなおれや親父と違ってさ。現在進行形でね。だからさ、ボケて病気になって身動き取れなくなって糞尿垂れ流しで拘束具に縛られててもさ、そりゃ、なんとかしてあげたいなぁ、って感じるよ。どうにかして生きていてほしいと願うだろうね、当然。

 でもおれがそういう立場だったらさ、うん、きみでもいいよ、誰でもいい。要は当の本人だったらどう思うかってこと。

 嫌だよねぇ。普通に嫌だよね。殺してほしいっておもうよね。おれだったらおもうんだ。もちろんそんなこと、おれは口では言わないよ。だってそれを口にしたら周りが悲しむでしょ。

 で、逆にさ、そんなことも気にならなくなるほどにもうろくして、真実の声で殺してくれって叫んでもさ、もうボケちゃってるから周りはそんな言葉はおれの本心ではないかもしれないって、感じるでしょ。

 これ、地獄だとおもうんだ。誰にも理解されずに、自分でも何をいってるのかさえわからない。頭の中にそびえ立つ壁に向かってさ、何を言っているのかわかんない主張をくりかえす。絶対に外には響かない。これって地獄なんじゃないのかって、おれはおもうのね。

 

 人類はさ、理性の持ったひと、まあ、“理性”ってのがどういう区切りで定義されてるのかもわかっちゃいないけどさ、ともかく理性の持ったひとだけで回っているという事実にさ、おれはたまにクラクラしてくるんだよ。

 正味な話、この国では特にさぁ、正気じゃ無くなったらそれでアウトでしょ。いやむしろ正気であっても、周囲にそう見なされなかったらそれでアウトでしょ。そうなんだよ。実際。薬物にハマっちゃっただけで、ミスを犯してしまっただけで、初めから居なかったことにされる国でしょ。

 ボケたらアウト。法を破ったらアウト。薬物にハマったらアウト。精神を病んだらアウト。ぜんぶ狂人。居なかったことにされる。クラクラするよ、ホントに。

 要するにさ、“まとも”に意見を通わせられるひとでしか、ひととは扱われないんだよね。ま、おれには“まとも”ってことさえも、よくわかっちゃいないんだけれどね。

 

 でもさぁ、ある意味、それも正解なんじゃないの、って感じるときがあるんだよね。頭の壁の中で叫んだって、それが如何に真実の言葉だったとしてもさ、誰にも届かないんじゃ意味ないじゃんね。誰にも届かないってことは、そのひとの意思が誰にも伝わらないってことだからね。

 で、そうするとどうなるか。

 どうなるか?そう、周りが想像するんだよね。このひとはこういう人だった。あんなに立派な人だったのだからいまでもこう思っているに違いない。こう望んでいるに違いない。ってね。

 そうやって、近しい人たちが過去のその人の人となりを思い出したりして、想像するんだよね。

 もちろん、当人が望むかたちがどうなのか、っていう、“おもいやり”を持ってね。まあ、その点はモウロクしようが健康であろうが大した変わりはないだろうけどね。通常のコミュニケーションって意味ではね。

 

 ともかくね、その“おもいやり”ってそもそもなに?

 そんなこと考えたりするわけよ。

 壁の内側の声が訊けないんじゃ、周囲の他人の望みでしかないよね。ってことは自己満足の域を脱せないよね。その想像は。壁の内側の意見は違うかもしれない。まるっきり逆のことを主張しているのかもしれない。殺してくれ。あるいは死にたくない。ってね。

 ところがさ、難しいことに、それこそがおもいやりでもあるんだな、これが。そのひとのことを思う。良くしてあげようと努める。自分に良くしてくれた人だから弱ったときに助けるのが当然の行為だ。ってね。それがたとえ壁の中の声とは正反対の行動だったとしてもね。

 

 意地悪な考え方だよねぇ。わかってるよ。わかってるさ。でもちょっとは真実ではあるとは思わないかな?思わないならそれでいいけど。

 ともかく、人類は『理性あるひとたちの想像のうえでの、その自己満足を充たすために動き続けている世界』っていうことを、おれは少しだけおもったりもするんだ。

 うん、それでいいよ。いいとおもうよ。ベストではないけれど、ベターではあるんじゃないかな。決して答えではないけれどもね。

 

 けどね、頭の中の壁の内側で叫び続けるってことがどういうことかって考えるんだ。壁のさ、外側に響かせる方法は言葉しかないよね。言語。そうなると、やっぱり人類は人類のことしかわからないじゃん。あとは想像するしかない。人類はそれでいいよ。壁の外側に声を響かせられなくなった爺さまだって、正気の時に遺言を遺せばいいし、法律だっていくらでも都合のいいように、生きている人々が納得できるように人道的でも理性的でも詭弁でもなんでも、とりあえず“尊重”できるようなシステムがあるしね。

 でもそれだってしょせん言語でのシステムでしかないでしょ。ならはじめから言語を持たない人類以外の生物。あるいは言語で整理された感情の外側にいる生物の尊厳ってのはどこにあるのだろうか?ってね。

 

 ともかくそれでもなんでも、壁の内側の声は想像するしかないんだ。犬でも猫でも鯨でもジュゴンでもね。想像するしかない。何が彼らのためになるかってこと、彼らのために出来ることをね。想像するしかないんだ。

 

 さくらねこ。わかるよ。気持ちわかるよ。邪魔だから迷惑だからって、すごい身勝手な都合で殺処分するのなんて絶対に正しくないよ。ネットとかの意見みても、やっぱりそういう行動に賛同するひとも沢山いるよ。『“かわいそう”なねこちゃんを少しでも救ってほしい』とか、『少しでも殺処分される“不幸”は減らしたい』とか。

 わかるよ。それはそれでもっともな感情であり、優しさだともおもうよ。

 けどさ、みんなこうも思ってるのかな?ってさ、すこしだけモヤモヤするんだ。

 つまりさ、「でもそれが答えじゃないけどね」ってさ、はたして自分自身にツッコミ入れていたりするのかなって。そう思ったりもするんだ。少しだけ。

 

 8万匹の猫。殺処分を待つ猫たち。そりゃ、いたたまれない。かなしいよ。けどだからといって、あらかじめ繁殖力という選択を狭めて、人類でコントロールしていくという事実。そうして生かされていく生命。そういうふうな営みそのもの。それは答えじゃねぇからな、ってね。

 そうやって、個人個人が自分自身にツッコミをいれられているのだろうか?そんな疑問が浮かぶんだよね。

  野良猫たちの頭の中の壁の内側ではどうおもっているのだろう。自分たちは“かわいそう”、“不幸”。なんだそれ?ほんとうにそうなのか?ほんとうにそれだけか?んなわきゃないんじゃないか?

 想像するしかないのなら、“かわいそう”だとか、“不幸”だとか、そんな人類側の「内側」の主観だけ押し通していいものだろうか?とりあえずでもいい、結果が伴わなくてもいい、ともかくそんな自問自答を考え続けているのだろうか?

 みんな「“考える”に留める」という思考を保っているのだろうか?

 

 と、そんなふうに感じたりもするんだよね。

 

 想像するしかできない。だから想像する。壁の内側で叫ぶ声を想像する。

 『我々けものは産まれて喰って死んでいく。我々は喰うものを殺し、喰われる者に殺される。殺されそうになったら抵抗する。全力で抵抗する。もしそれが我々よりも強者だとしたら、ただちに逃げる。逃げて逃げて逃げまくる。捕まったとしても全力で抵抗する。抵抗して死の直前まで抗って、それでも駄目だったら受け入れる。ただそれだけ。そうしてそうなる時がくるまでは、殺し、喰い、交尾しまくる。ただそれだけだ。』

 

 たとえばそんな想像をする。生きとし生ける者たちの最もシンプルなルール。単純明快。それだけに罪でもなく罰でも無い。シンプルなルール。壁の内側を想像するまでもないかもしれないほどに、いい意味では明確、悪い意味では残酷なルール。 

 

 そのルールに従えば、人類は、人類以外に対する扱いは、かなり間違っているのではないか?

 そんなふうに感じたりもする。

 

 “かわいい”と思わせることは、けっこう根源的な進化なのではないか。かわいいと思わせて、それが虐げられるのを目の当たりにすれば誰だって“かわいそう”だと感じる。そういう気持ちを他人に想起させる。そうして強い者に守らせる。花だって、赤ちゃんだって。りせいどうとくにんじょうかんじょう、に、訴えかける。そうして弱者は命を守る。けどそれは、あくまで生命を守るための特性。まず自分の生命。それから次の世代の生命。種そのもの、丸ごと含めたひとつの生命。それらを守るための特性。

 

 そんな想像をする。

 『我々は死の最後まで生きるんだよ。ただそれだけなんだよ。きみたちがいう延命行為だとか保護とか愛護だとかは、個体が生きのびるという面では確かにありがたいし、結構なことだよ。でも我々は産んで増やすんだよ。増やして増やして。その半分、そのさらに半分、いやいやほとんど大半の命がたとえ殺されようと、そんな死を上回るようにさらに産んで産んで増やしていくんだよ。それが死すら乗り越えた生命の営みなんだよ。エイズになろうがウイルス感染しようが、道ばたでのたれ死のうが、寿命が短かろうが、我々はそれ以上に繁殖してやるんだ。それだけだよ。だからそれを“不幸”だなんて思わないでくれよ、いくら“かわいい”からといって、“保護”してやりたいという使命感が湧くからといって、去勢されて種そのものをコントロールされることなんて、我々は望んじゃいないよ。それこそありがた迷惑ってもんだよ。』

 なんて想像をしたりする。

 

 おっと、勘違いなさんな。さくらねこのことも動物保護のことも否定するつもりなんてないさ。人類は人類という壁の中で想像していくしかないんだ。壁の中でおもいやりを持って想像して、行動していくしかないんだ。みんなそれがベストに違いないという優しさで対応していくしかないんだ。

 それでも否定しているというのなら、そう思うのなら、それでも別に構わない。はじめにいったよね。おれは人類は必要ないかもしれない。そういう前提から話をはじめているんだ。つまり今は人類の側に立っていなんだな。おれは。

 

 いや、ホントに。人類なんてこの星に必要ないんじゃないのか?マジにそう思う時があるんだ。時々ね。いや、本当のこといえばけっこう頻繁にね。そう思うんだ。

 火山が爆発するとどうなるか知ってるかい。たいがいの場合、生態系が元に戻るんだってさ。長い時間をかけてね。もちろん自然の自浄作用生物の浄化作用みたいな要因があるのだろうけれど、なによりも人間が立ち入らなくなることが自然にとってはとても良いことだっていうじゃないか。そりゃそうだ。人間が入らなければ、木だって切り倒されないし、生き物だって無駄に殺されない。無駄にビルだって建たないし、あらゆる毒が作られることもない。チェルノブイリがどうなっているのか知っているかい。もちろん今でも毒は吐き出され続けているよ。なんでも向こう10万年は消えない毒もあるらしいじゃないか。それは福島だって同じだよ。どうしようってんだよね。まったく。けどね、今ではものすごい数の野生生物たちが生息しているっていうじゃないか。そこに生息している動物たちはみんな、生まれた時から毒に侵されているかもしれないよ。寿命だって少ないかもしれないし、奇形で産まれる確率だって高いかもしれない。けどさ、だったらなんだっていうんだ。だからどうしたと想像したりするんだ。

 命は強いんだ。バランスを保っているうちはね。嵐のように育み、雨のように大地に染み渡り浸食して増え続け、稲妻のように死んでいく。毒を飲み込み、何万年育み続け、進化していくかもしれないし、淘汰されていくかもしれない。それでいいんだ。バランスを保っているうちはね。バランス。そうバランス。それが崩壊する元凶となっているのは言わずもがな人類だ。人間だ。我々なんだ。

 命をコントロールして種そのものをコントロールしようっていう考え方が“おもいやり”っていうのなら、部屋から一歩も出さずに交尾もさせず、とはいえ自然環境や都市の片隅でのたれ死にもせずに、去勢して延命させることが“メリット”っていうのなら、殺処分も去勢して生かすのも、いったい誰のメリットなのかおもいやりなのかとかさ、よく考えて、「考える」を留めて、そこが最終的な「答え」なんかじゃないということを心に留めてほしいんだ。命が平等だって言うんならさ。それが詭弁じゃないって言うんならさ。

 そりゃもちろんこんな考え方が“まとも” だなんておもっちゃいないよ。人類はさ、それでも最善だと思える方向に進んでいくしかないんだから。けどおれはだからこそ、人類の味方に立って話しているわけではないって言ってるの。生命全体の“まとも” を考えれば、むしろ逆に人類の“まとも”なんて間違いではないのか、という疑問があるという話だよ。

  だって3頭だぜ。考えてみろよたった3頭しかいなかったんだ。その1頭が死んじゃったんだぜ。あいつらは世界中にはあとどれくらいいるんだろう?我々が滅ぼした種はどれくらいいるのだろう?そんなものは決して生態系のごく自然な淘汰なんかじゃないんだ。想像しろよ。やつらの気持ちになってさ。どれだけ孤独だったか。どれだけ不安だったか。こくぼうにちべいあんぽあんぜんきじゅんちあんいじ。マジで知らねぇよ。防衛?抑止力?どうでもいいよ。工事の“影響”ではない?影響なんて与えまくりじゃねえのか?人類の存在自体が害悪だったりしないのか?おれにしてみたらジュゴンのほうが大問題だよ。それこそ壁の向こう側で叫び続ける老人よりも、おれの立派なじいさまや兄貴なんかよりも、なんならおれ自身よりもね、大事なことなんじゃないかって、そう思ったりもするんだよ。

 なによりも大切なのが命なんだろ。それが詭弁ではないというのならばなおさらだ。そういうものを道徳で説こうとするならばだ。人類の命が優先だって事実を括弧書きで付け加えたりしてもいいんじゃないか。それ相応に利己的になることと、“さみしい”という利己的な感情で他種を守ろうとする気持ち。そういうアンバランスな感情に揺れているのが人類です。開き直るのではなくて、汚い二枚舌だと罵るでもなくて、ただ諦念に近い感情を持って、壁の外側から内側の声を聞き取ろうとするのが、よっぽど自然なんじゃないのか。増えすぎたから困った。絶滅してしまうのは寂しい。必要。生きていて欲しい。揺らいでいたっていいんだ。綺麗事ばかりで済ませるな。答えではないということを自覚しろ。最善に進んでいく姿勢はいいが、たまには生命のありのままの姿を受け入れたっていいのではないか。そのために人類こそが必要無い、と、考えるひとがいたっていいのではないか。命の重さ?そんなの知らないよ。きっと誰も知らないんだよ。」