ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

一般的には人気もしくは普通のことなのに苦手なこと。あるいはゲームは忙しいという話。

f:id:flightsloth:20190206151426j:plain

 

  単純な生活の細かい好きずきや差異などを告白するのは、けっこう伝わらない、というか変な語弊を招くような気がする。あんまり主張しない方が、事は穏便に運ぶことが多いような気もする。

 たとえば嫌いなもの。カレーが嫌いだとか、猫が嫌いだとか、きのこの山は認めないだとか。・・いやいや、もちろんどれも嫌いじゃないです、むしろ大好物ですよわたくしは。

 あくまでも例えば、なのだけれど、みんながみんな一般的には「大好き!」とされているものを、否定、なんて気持ちはさらさらなくとも、あまり好みではないと表明するだけで、なんとなくその場の雰囲気が沈んだり、さもなければそうなってしまうだろう現場を恐れて口にできない、というような経験はないだろうか。

 

 そういう類いの話なので、けなしているだとかアンチだとかディスっているだとか、どうかそういうふうには取らないでほしいのだけれど、「わたしは海外旅行に行きたくない。」という、ちょっとした告白をこの場でさせてもらうことを、大目にみていただきたい。というか、行ったこともないのだけれども。

 

 くどいようだけれど、行きたいとおもわないからといって、旅行好きなひとに対して否定したい気持ちも、反対に、行ったことがないからといってわたしが自分自身を卑下する気持ちなんてものも、これっぽっちもない。むしろひとの旅の話を聞くのはとっても興味深いし、楽しいとおもっているし、率先して聞いていたいとさえおもっている。おもってはいる。されど行きたくはない。わたしは、ただ、行きたくないのだ。

 

 なぜこんな話をしたかというと、このほど聞いた話によれば、

 「日本人のパスポートの保有率が約30パーセントしかない。」

 ということを知ったからだ。

 都道府県によって多少の差はあれど、ざっくり考えると3、4人に1人くらいしかパスポートを保有していないということになる。

 これにはけっこう驚愕した。わたしの経験からくる人脈では、海外旅行に行ったことがない人間なんて皆無であるから、完全にわたしのほうがマイノリティだと思い込んでいたのだ。

 

 それでも確かに、「行ったことはない」と報告すると、びっくりされた経験が数え切れないほどにわたしにはある。確かにあるので、10割とはいかずとも、7、8割くらいは、パスポートくらいはゆうに所得しているものだと思い込んでいたのだ。

 そして、そういった無数の友人たちは決まってこう言ったものだ。「パスポートだけは取っておいたほうがいいよ、」こう言われるとわたしは素直に頷いたものだ。さらに友人たちは言う、「なにかあった時に困るよ。」わたしはひたすらに同意するのだった。「そうに違いないだろうね。」

 

 だが実は、現在日本人の約30パーセントしか取得していないのだった。約70パーセントの人間は、友人たちの想定する、“なにかあった時“、すなわち有事の際に、パスポートが無くて困窮したことはないということになるようだ。これは良いことなのだろうかどうなのだろう。 

 さりとて人気でないというわけではないのだろう。これほどに世界中の人々が往来している世の中だ。数値的には思いのほか低くとも、やはりみんな行けるものなら行きたいと考えているに違いない。 でなければ、これほどに世界も発展してはいまい。

 

 ということで海外旅行。とにかくわたしは行きたくない。自分なりには行きたくない理由も信念みたいなものもそれなりにあるのだけれど、そこはあまり表では言わないようにしている。なぜなら、それを言ったところで、楽しみにしていたり、それを目標にしているひとにとっては、どう言っても水を差す意見でしかないからだ。誰だって近しい人々を失望させたくはないしね。

 

 それでも、これまでの人生のなかで何度も誘われたりして、みんなでワクワクしているところで自分だけが断ってしまうことが何度かある。

 このケースだけでもなく、誘いを断ってばかりで心苦しくなったりしてしまう場面を重ねていくうちに、そういったシチュエーションに遭遇した場合のイメージトレーニングや訓練を脳内で展開させることは、誰にでもあるとおもう。

 わたしもそういう経験を何度か積み重ね、場をしらけさせないための言い回しなんてものも頭の中でいくつかストックしているので、いまはあまり困ったりしないのだけれど、若い頃はけっこう悩んだりもした。

 

 それでもたまに飲み会の席なんかで、「行こう行こう」みたいに盛り上がったりする。極力オーラを消しているにもかかわらず、やはり自分に振られてきたりする。それでわたしは、誘ってくれるのはありがたいけど参加はしませんよ、という意思みたいなものをやんわり伝えたりして、少しでも場のテンションを下げてしまったような時は、いつまでも反省したり自戒したりして、再び脳内シミュレーションを繰り広げたりする。いまでもする。

 

 最近でもそういうことがあって、けっこう強く勧められたので、酔いも後押しして、「じゃあ・・一回だけなら行ってみようかな、」みたいな含みのある言葉を発してしまい、図らずも盛り上がってしまったので、「やっぱり行きたくないなぁ、」とぼやいていると、

 「デザインの仕事しているのだから海外に行ったほうがいいよ、」みたいな説得なぞされ、「クリエイティブな発想生まれるかもよ、」なんて言われたので、

 「それ言うのだったら、本読まなかったり音楽聴かなかったり映画とか美術館行かないひととかゲームとかやらないひとってどうなの?おれからしてみたら、そういうひとのほうがよっぽどクリエイティブではないとおもってるよ」

 なんて反論してしまった。やはり後ですごい後悔した。

 

 ところがその旅行計画には、結局わたしも参加することになっていて、皆が都合の良い日程を調整しだしていたので、わたしはものすごく悩んだ。結構ひさしぶりにものすごく悩んで、なんなら数日のあいだ、お腹も痛くなった。

  最終的にはかのじょづてに断ってもらい、あっさり断れたようなのだが、わたしを海外旅行に連れて行く、という趣旨で盛り上がった企画だったのでその旅行自体がご破綻になってしまった。わたし抜きで楽しんできてよ!と、強く主張したかったが後の祭りだった。数日間かなり落ち込んで、事あるごとに二度とこういうことが起こらないよう脳内シュミレーションをした。

 

 オンラインゲームの友だちに同じく海外旅行が好きではないヤツがいて、一度だけ外国に行ったことがあるというので、様子を訊くと、「いや、最悪でしたよ」とさらりといい、「行かない方がいいですよ」とキッパリいわれたのですこし慰められた。そうだよねそういう人種もいるよね。

 とはいえ、おそらく仕事でなら行くのだろうな、ともおもった。仕事はどうせプライベートよりも楽しくないし、楽しいことを期待せずにいられるし、何処へ行っても仕事は仕事だし。と、改めておもった。

 

 ところで、こういうことがあると少し考えるのは、世の中にはどうして歓迎される行動とあまり歓迎されない行動があるのだろうということだ。趣味でも実益を伴う行動だったとしても、いづれにしてもだ。

 

 例えば子どもの頃にドッジボールが上手だというだけでモテモテだった単純な時代に育ったわたしとしては、スポーツなんて結構素晴らしいとされる一方、ゲームなんてものはあまり歓迎されることでもないような気がする。いまでは違うのかな。 

 

 思い返せばわたしだって、思春期にはゲームがすきだとは公言しなかったし、なんなら絵を描いているなんてことは絶対に他言しなかった。代わりにスケボーをしたりクラブで遊んだりして、いかにもそういうカルチャーの人間ですよこういう自分が自然体ですよ、ということをモテたいがため姑息にも必要以上にアピールしていたし、そしてその多少偽物の自分を演じたわたしの態度は、少なくともゲームがすきで絵を描くことが趣味だという青年時代を選択したパラレルワールドにいる自分よりも、はるかにモテていたことだけは、ものすごい確信があったりもする。

 

 くだんのゲーム友だちは拘束時間が長い代わりにけっこう収入が良い仕事をしていて、その反動からかどうかは知らぬが連休なんてできると同僚も先輩方もこぞって旅行なんかに出向いたりするらしく、休日明けには決まって「どこ行ってきたの?」なんて訊かれたりして、その友だちは毎回言葉に窮するらしい。

 

 「ゲームとは答えにくいよね」「ですね」なんとなくね。なんとなく。趣味が合わないだとか嫌われるとか充実していないとか、そういうイメージを持たれることを恐れるというわけでもないけれど、なんとなく丸一日ゲームやってたとは言い難いよね。

 「だって絶対理解されないものね」充実した休日を過ごせてないとおもわれてもね。そんなこと言われると反発したくなっちゃうもんね。ところがどうして日がな一日ゲームに興じていられることが、如何に充実してた休日かってことなんて、「伝わらないもんねー」ですよねー。

 そんなことを言い合ったりしている。

 

 これが旅行だとかフットサルだとかボルダリングだとか、あるいは読書だとか映画鑑賞だとかなんならショッピングだとか、そういった行動は端から聞いていても、なんとなく充実しているように感じるのは何故だろうか。アニメだって現在は散々歓迎されているような世の中だとしても、他人の羨望を集めるような趣味ではないだろう。

 

 そうなのだ、羨望なのだ。結局、趣味でも仕事でも他人の行動というものは、羨望を集められるか否かなのだろう。

 そう考えれば海外旅行というのは、確かにひとのうらやましがられる行動ではありそうだ。たとえゲームのユーザーが世界中に五千万人いようと、どんなにモテモテのイケメンがアニメを推奨しようが、休日にヴェネチアやドバイやラスベガスへと身軽に飛んでいけるひとのほうが、間違いなくうらやましがられるに違いはあるまい。

 個人的には趣味でも仕事でも、己が“楽しい!”と思ってしまった時点で、そんなものは広く考えればただの煩悩に違いないのだから、読書は高尚、旅は経験、ゲームは無駄。なんていう印象なんて幻想に過ぎないとおもってはいるのだが、それでも行動に優劣をつけてしまう人間の性みたいなものも、それはそれで仕方ないのではないかなんてこともおもったりはする。

 

 ともかく友人の話は止まらない。「たとえば面倒なんで嘘ついて、『何にもしてない、』って答えれば答えるで、なんかモヤつきませんか?『よく、休みの日に何してるの?』みたいな話になるけど、こっちのほうが不思議だよって、感じるんですよね。」

 ふむふむ、というと?

 「いや、逆にね、」友人は話を続ける。

 「逆にゲームしてないひとって、休みの日何してるの?って訊きたくなるんです。」

 「まあ、確かにね、ゲーム、忙しいもんね。平気で5時間とか過ぎ去っていくものね。」

 「ですよね、そりゃ、映画とかも観ますよ、本だって読みますよと、いろんなことしてますよ。運動とかもしますし筋トレとかもしてますよ。けど、5時間ぶっ続けってわけにはいかないじゃないですか。」

 友人は言う。「いくらそれに熱中できたとしても、楽しい趣味だったとしても、朝から晩まで同じ行動をしているわけにはいかないじゃないですか。」

 なるほど、ゲームだったらそれができるというわけか。しかもログイン特典やらで毎日起動だけはしておきたい。一日たりとも空けられない。戦いが終われば次の戦いが待っている。スケジュールはパンパンだ。そうそう、忙しいよね、ものすごく。

 「そうです!」友人の物言いが熱を帯びる。

 「忙しいんですよ、ゲームは。こんなに忙しい毎日を過ごしているのに、休みの日にゲームやってる、っていったら、すごい暇人みたいに思われる風潮ありませんかね?」

 「うーん、どうだろうね、イメージ的にはそうかもしれないね。」わたしは相づちを打つ。「だから逆に、ぼくは思うんですよね、いつも。」

 

  ゲームやらない人って、普段よっぽど暇を持て余してるのではないか。

  と、こう言うわけだ。

 確かに、わたしだって映画や読書に興じたり、絵を描いたり音楽を聴いたりするが、トータルで考えても、ゲームをやっている時間のほうが圧倒的に多い。もし仮にゲームを止めたとしたらどうだろう。というか止められたとしても他にやりたいことは山ほどある気もするが、それらの細々とした欲求を矢継ぎ早に満たしていったとしても、ゲームに興じた今までの膨大な時間に追いつくには、ざらっと考えても数十年はかかりそうだ。

 

 「じゃあ、だとしたらゲームをやらないひとって、暇な日には何しているのだろうね?」

 今度はわたしが友人に問いかける。すると友人はすこし考えてからこう答える。

 「・・・やっぱり、旅行とかじゃないですかね。」

 なるほどね。

 「じゃあさ、おれたちも試しにしばらくゲーム止めてみるか。」

 「止めてどうするんですか?」

 「んー。どうすっかな。いや例えばゲーム止めて、旅行・・・とか?」

 二人の間に沈黙が訪れる。

 

 「旅行。」

 「いかないなぁー。」

 「ゲームやめても、旅行は行かないんだろうな。」

 「というかゲーム止めたら仕事とかすごいしそうですね。」

 「おれなんてゲームのエネルギーを仕事に向けたら金持ちだよ。」

 「そりゃぼくのセリフですね。」

 「ゲームもしないで旅行も行かないひとは、何してるんだろうね。」

 「両方興味ない人はものすごい大金持ちなんだろうね。」

 「ですね。」

 「でも金持ちこそ旅行いくよね。」

 「ですね。なんでですかね。」

 「じゃあゲームして旅行いってもお金持ちになれるってことかもね。」

 「ですね、なんか希望が湧いてきました。」

 「でも結局は煩悩だよ。欲望だよ。」

 「ですねー。」

 なんて話しながら、わたしは聞き上手の年下の友人の乾いた頷きなどには気にも留めずに、ぼんやりと話し続け、ひと息つけば次の戦いへ赴くためにコントローラーを握りしめ、今日もマッチング検索をかけるのだった。