ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

いらなくなっていくものへ

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 いよいよ、というかついにというか、ともかくほとんどのコンビニエンスストア成人雑誌の取り扱いを止めるとのこと。当面の名目でいうのなら2020年トーキョーオリンピックに向けてグローバルスタンダードに合わせたという。

 名目はともかくとして、あんまり売れなくなったから取り扱う必要もない、というのが企業側の本音ではないかとわたしは踏んでいる。今時その気になればネットでいくらでも無料で閲覧できるものを、わざわざ購入してまで成人雑誌、要するにエロ本なんてものを読みたがるひとの需要がどれくらいあるのだろうか、とも感じている。

 

 これについて世間様もそれぞれ意見があるようで、相変わらず極端なものも電子連絡網では飛び交っていた。 

 性表現への規制を危ぶむ声もあれば、大賛成の声も聞こえてくる。コンビニでいかがわしい雑誌を売り続けていることで女性の権利が蹂躙され続けていた、なんていう意見もどこかで聞いた。そんなにも傷ついていたひとがいるのなら、けしからんことなのだろう。無くなるという事実は必然でもあろう。

 

 個人的な意見をいわせてもらえば、いつだか前にも書いたけれど、わたしは児童ポルノや差別的な表現などは、社会全体が大いに取り締まるべきだとはおもう。

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 それでも毎度この手のニュースが飛び込んでくるとそこはかとなくモヤつくのは、結局こういう議題は、差別だとか表現の自由だとかフェミニズムみたいな、ずいぶん重くてセンシティブな問題に終始されていくことになるのだなぁ、なんてを向こう岸からなんとなく眺めているような気持ちになることだ。

 

 いやいやエロはエロでしょ。単純に考えようよ。そりゃ怒られたら控えようよ。そもそもエロ本というものは後ろめたい気持ちでごく個人的にいそしむもので、なんならそれが文化でしょ。大手を振って権利を振りかざすのはどうなのだろうでしょう。そもそも権利ってなに?ムラムラする権利?まあそれも自由だけれど、怒られたらシュンとして引き下がるのが自然な反応ではないの。表現の自由が脅かされる、みたいな隠れ蓑は止めにしましょうよ。なんておもったりする。

 

 いっぽうで、されどエロはエロだぜ。という気持ちもある。

 不快に思っている側だとしても、同じく権利なんて言葉を持ち出したらキリがないのではないか。たしかにその気持ちはわかる。ネットをみていてもすぐに卑猥なイラストのバナーが目に飛び込んでくる。気分によってはうんざりすることもある。

 けれど、そこに権利だとかを持ち出すのはどうなのだろう。“不快に感じないため”という項目に権利を行使しだしたらキリがない気もする。いち、一般男性としては世界中から性的なコンテンツを排除できたとしても、人類からエロい気持ちが消えることはないよ。とは言いたい。それとこれとは別の話だよと。

 

 それを容認したら、あれもこれも容認しなくては道理が通らなくなってしまう。そうならないためにはすべてを容認してはならない。何かを主張したければ極論を突き通さなければならない。それもわかる。それもわかるがわたしは強く辛辣な言葉でしか“声”にならないネットワークというものを信用できないし、未発達だとも感じている。

 

 ともあれ、この話題、結局は企業側の儲けが少ないからという理由が強いのではなかろうか。コンビニの一画に「18才未満お断り」の暖簾なりを設置してアダルトブースを設けるよりも、いっそのこと撤去したほうが利益としても世間体としてもトレンドとしてもモラルとしても有益だという判断なのだろう。少なくともイカガワシイものを排除したい、という理念を100パーセント鑑みての判断ではないだろう。お金儲けはそこまで潔癖である必要もあるまい。

 

 つまりは「エロ本」というコンテンツが文化として淘汰されていくというだけの話。それだけ。それだけにかなり寄り道をする相変わらずのわたしですが話を続けます。

 どんなにエロ反対派が弾劾しようと、たとえそれが教育上(なのか?)よろしいことであろうと、ひとからスケベ心が消え去るということはなかろう。コンテンツは変われど、ひとのスケベ心は生き続ける、いや、燃え続ける、か?いやいや萌え続けるか。フツフツと、いや、悶々とかね。

 ともかくそういうこと。だっていくら想像したくないと拒絶したって、たいがいの人類はお父ちゃんとお母ちゃんのスケベ心があったからこそ、今まで進んでいるんだぜ。それは男も女も一緒だぜ。敵同士じゃないんだぜ、寄り添ってかなくっちゃね。なんてことをおもう。

 

 ということで連綿と続く人のリビドーから置き去りにされ、文化としては衰退の一途を辿っているエロ本。まだまだネットなんてそう普及していない時代に青春謳歌したおじさんからしてみたら、寂しいといえばさみしい気もする。・・が、どうでもいいといえばどうでもいい。正直エッチな動画はみたとしても雑誌をみたいとは一ミリも思わない。

 ただ、懐古的な感慨みたいなものはある。今の若い子は、・・あぁ、“イマノワカイコハ”・・みたいな話にどうしてもなってしまうのだけれど、おそらく空き地や裏山なんかでエロ本を大量に見つけるという想い出は、幼少期の記憶の手帖のどこにも記入する欄すらないのだろう。

 あのえもしれぬ、降って湧いたかのような期待と背徳感。遊びを中断して仲間を集める高揚感。野ざらしでガシガシに固まったページをパリパリと剥がしていく慎重な作業。はじめて見る金髪の白人女性の裸体。それから決まって誰かしらのいう「うへぇキモチワルイ」というセリフ。そんな昭和の男の子ならば大半がもっている記憶の共有を、いまの若者は持っていないということなのだろう。まあ、持ってなくてもいいのだけれど。

 

 なくなってしまう物、事。自然に、あるいは必然的に淘汰されていく文化。そういった出来事に直面すると、普段は考えもしなかったことにしても案外さみしいものだ。これからもわれわれは何かを無くして、何かを更新して進み続けるのだろう。

・・・と、あぶないあぶない、ついもっともらしい言葉をならべて強引に〆に入るところだった。もう少しだけ話を続けさせてくださいな。いやまあ、まるっと話は変わるのだけれども、関連していないこともない話題として。

 

 ところで我が家ではHuluに加入していて、けっこう頻繁に利用しているのだけれど、そのせいか、近頃めっきりDVDやブルーレイを借りなくなった。

 もちろんHuluは店舗型のレンタル店よりも品揃いも少ないし、新作もそれほどカバーされているわけでもない。それでも旧作や懐かしい名作などをついつい観て満足してしまう。それはそれでいいのだろうけれど、新しい物を取り入れようとする欲求が利便性という魔物にやられてしまっている感覚がなんとなくある。

 さらにはこのほど、見逃していたアニメの“どろろ”がとっても観たくて、アマゾンプライムにも加入してしまった。最近はあまり時間も取れないというのもあるが、時間が少しでも空けばその両コンテンツを行ったり来たりして、動画のラインナップをチェックするのが当面の心のオアシスともなっている。

 

 気がついてみると動画を扱うコンテンツというものは、もはや把握しきれないほどにものすごい数があり、それぞれ差別化をはかったりオリジナル番組を扱ったりして、しのぎを削っている模様。それでも一般的な家庭で契約されるのは、二、三、多くて四つくらいのコンテンツなのではないか。そして、そういうひとたちはわたしと同じくして、店舗型のレンタル店に足を運ぶことはかなり少なくなっているに違いない。そう考えるとレンタルビデオ店、なんていうものが街から姿を消すという事態は、そう遠い未来でもないように感じる。

 

 ネットの動画コンテンツというものは、どれも綺麗に整理されていて、とても見やすい。ジャンル別に探すことも簡単だし、検索も容易にできる。ひとつの作品を楽しむと関連作品として次々に別の作品を紹介してくれる。

 ご存知のように店舗型のレンタル店ではそうはいかない。コーナーごとに棚に並べてられている作品群のなかで、自分好みの作品をいつでも自力で探さなくてはならない。棚を何度も往復したり、パッケージの表裏をなんども確認したり制作陣にチェックを入れたりする。めぼしい作品が見つからない場合なぞには、けっこうへとへとになるまで長い時間店舗に留まり、ウロウロと吟味を続けてしまうような経験は誰にでもあるのではないか。

 

 そうしてレンタルした映画なぞを部屋で観る。わたしの経験からいわせてもらえば、秀作に出逢える確率は5本に1本あれば上出来。残りの4本は自分の好みに合わないか、でなければ満場一致の駄作だ。それでも大概は最後まで観る。我慢して。それは実際に小銭を払って借りたという貧乏根性がそうさせているのかどうかは知らないが、とにかく我慢してみる。

 

 ところが動画コンテンツではこういうこともない。つまらない作品はボタンひとつで止めることができるし、次の作品を映し出すことも簡単。提供されているものは無制限に観賞できる。何も我慢することもない。コスパも優れている。寒空の中、出掛ける手間もない。

 

  こんなふうに考えると、レンタル店なんてものはすでに社会には必要とされないことこそが必然なのではないかとさえ思えてくる。それがみんなの総意なのかもしれない。それこそコンビニのエロ本なんかのように。

 必要ない。そうかもしれない。手間がかかる。 徒労に終わる。時間を無駄にする。そうなのだろう。そんなことは排除していけばいい。娯楽なんだから苦労してまで探し出したりするものではない。これからはより手軽に素早く、楽しめるだけ楽しめば良い。どんどんそういう時代になっていくのだろう。それはいいことなのかもしれない。

 

 だかこうもおもう。苦労して時間を消費して我慢して観たもの、聞いたもの。たとえそれが退屈な体験だったとしても、果たしてそれは本当に無駄なことなのだろうか。考え方をかえれば、退屈という豊かさもある。月額使用料という便利さに奪われているものはお金だけでもないのかもしれないぞ。胸ときめく冒険は決して用意されるものではない。5本に一本見つけた名作は、まるで裏山でみつけたエロ本だ。

 

 有史以来、人が捨てていったもの、無くしたもの、あるいは更新されていったものははどれくらいあるのだろうか? わたしはわたしの歴史できしか語れやしない。完全に、でもないが次第に減りつつものは沢山ある。街はいつでも様変わりしてアップデートされていく。本当にくだらないものから、なぜ消えていったのか理解しがたいものもある。それらをふるいにかけてより分けることはとても難しい。更新し続ける街はそんなことお構いなしに消していく。効率化の名の下に。

 

 もちろんそれを判断していくのはわたしたちだ。街の住人、一般消費者。意思なき意思。わたしたちは、わたしたちの都合や事情で次第に遠のいていき、忘れ去る。

 おそらく何かしらの文化が消える時は、パチリとスイッチを切るようなことではなく、シュプレヒコールの中ゆっくりと緞帳が降りてくるようなことでもなく、真昼に薄くなっていく影のようなものなのだろう。

 駄菓子屋、八百屋、魚屋、レンタルビデオ店、いやいや商店街そのものがどんどん無くなっていく。それらの全てがモニターのなかに収まっていく。

 

 なぜか?そう、必要ないから。答えは簡単だ。だがわたしは時々振り返る。振り替えて少しだけ思い出す。

 それはなんの意味もないのかもしれない。ただの懐古主義なのかもしれない。あるいは、負け戦に肩入れしたがるわたしの悪いくせのせいなのかもしれない。ダメなものはダメだし、いけないことはいけない。みんながそういうのなら、きっとその通りなのだ。

 

 それでもわたしは振り替える。負けたもの、必要とされないもの、消えていったもの。つまらないもの。少しだけ弁護したくもなる。どう転んでも勝ち目はないし、流れに抗うこともできないのだけれど、それでもなんとなく抵抗したくなる時がある。

 そういうときにこそ思い出したいとおもう。いらなくなったものへ、せめてもの敬意を払いたくもなる。ネットの風紀委員なんて構うものか。

 そうして、これからもそんな気分になった時には、なんならわたしはエロ本でも読みたくなったりするのかもしれない。

 それこそ真夜中のコンビニエンスストアの片隅なんかでね。