ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

ただそこに在る。

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 お盆休みはかのじょの実家でお世話になった。

 年に数回帰省しているかのじょとしては、お盆の過ごし方としてごく平凡な時間なのだろうけれど、やはりわたしとしては少々戸惑う、というか持て余してしまうところがある。

 

 とはいえ、通常生活のルーティンから外れれば、どこにいても誰だって大なり小なり時間を持て余すことなんてあるだろうし、部屋だろうと寝床だろうと勝手が違えばそれなりの不便ないし利便性に関心することもあるだろうから、それに対して言及することは全く無い。

 

 それでもわたしたちが暮らしている都市と、いわゆる田舎の営みというものが、違ってみえることは、少なからず感じ得た。

  それは、郊外の暮らしでは車移動が欠かせないだとか、都市では店舗が密接しているとか交通インフラが整っているだとか、虫が沢山いるだとかいないだとか星がきれいだとか、もちろん沢山あるのだろうけれど、そういうことは互いを比べてみても、はじめにいったように、広く見ればただ単に、普段の暮らしのルーティンから外れた戸惑いというだけのことで、そこまで感慨深くなることもない。

 

 そういうことではなくて、なんていうか、生活に密着した細かいディテールみたいなものが、完全に両端の暮らしの差異をはっきりと輪郭づけているような気がした。

 そして、そういうことがその場で過ごしている時間の端々に見つけられると、わたしの感受性みたいなものを、それとなくくすぐるのだった。

 

 たとえば、タバコを吸いにベランダに出る。眼前に広がる山並みや空の広さ、なるほど確かに美しいし心に沁みるものでもある。けれど、それはそれとしてわたしの興味をそれほどそそるものでもなく、まして、だから田舎暮らしは素晴らしい、なんてことをあまりおもったりはしない。わたしとしては。

  第一、そのような景色は、なんなら都会にいても、少し郊外に出れば似たような景色を堪能できたりもする。もっといえば、山の緑や空の蒼さや海の広さなんてものを、よそと比べたとするなら、ハワイやカンクンやペルーやアルプス山脈などに出向けばさらなる感動をもたらしてくれるだろうし、そういった類いの感動と最先端の都市の暮らしを、いくら比べてみたとしても、そこは詮無きことだともおもう。

 

 だからわたしは紫煙をくゆらせならがも、そんなことをなんとなく考えはすれど、それほど魅力を感じたりしなかったりもした。

 そうしてわたしは下方を見やり、玄関に茂る草花や巨大な納屋、そこに格納されている泥にまみれたトラクターなぞを眼で追っていく。

 あかい土のみえる砂利の曳かれた玄関前、数え切れないほどに沢山並べられたプランターがみえる。それぞれが花を咲かせたり、濃い緑色を繁茂させたりしている。

 わたしはそれらを眺めて、すぐそこに畑の膨大な豊穣なる土壌が広がっているのに、果たして鉢植えにする意味があるのだろうかとおもったり、また、毎朝かのじょのお母さんが青いホースで大ざっぱに水やりをする風景を、なんとなく想像したりする。

 

 納屋の脇には、空のプランターや巨大な青い桶のようなものが無数にうち捨てられている。皆一様に土埃をかぶっていて、なぜか半分地中に埋まっているものや、フチや底が欠けてしまっているものもある。どれもなにかしらの理由で、現在は使用していない物だということがわかる。

  さらに細かく観察すれば、割れた瓦や木片や、まるで用途の想像が付かない農機具のようなものが、無造作に母屋の玄関先に放られている。

 

 それらはうち捨てられているようで、捨てられてはいない。ただ、そこにあるというだけなのだ。そこから動かす必要もなければ、捨てる必要もない。ただそこにあるだけの“物”たちなのだ。

 だが、わたしはそういうものを見ていると、不思議と、なんだかこみ上げてくるものがあった。これはとんでもないことなのではないかとさえおもった。

 

 わたしは、ふたたびそれらを注視する。たとえば茶色いプランターの大きさを目で測る。薄汚れた空色の桶を観察する。どれもゆうに1メートルはあるだろうか。そんなものが無数に転がっている。こんなことはわたしたちの住む地域ではほとんどありえない。

 わたしは自分の部屋にある観葉植物たちを思い浮かべる。本棚の一郭、Bluetoothスピーカーの間に据えられた五つの鉢植え。一番大きなものでも15センチ程度だろう。その気になれば大きめのプランターを購入することも可能だろうが、そんなものをベランダにでも設えれば、足の踏み場に窮してしまう。となれば、使用しなくなった際には非常に邪魔くさいものとなり、おそらくすぐに捨ててしまうだろう。

 

 瓦や木片や使用されない農機具や鉢や桶、使用する予定も、おそらく捨てる予定も必要もない“物”たち。それらは土埃をかぶりながらも、ただそこにある。たぶんずっとあり続けている。もしかしたら彼女のおじいさんのおじいさんの世代からそこにあるのかもしれない。

 それはとんでもないことなのではないだろうか。わたしはふたたびそう思う。

 

 都市の暮らしでは、そんなことはまずあり得ない。街はピカピカでどんどん更新されていく。たとえば道ばたに物を置くなんてことは許されない。自転車さえ下手をしたら数時間で回収されてしまう。使える物、使わなくなった物、使えなくなった物、要らない物、どんな理由であっても、街は物をただそこに置いておくことを許容しない。物は、埃をかぶり、ただ“在り”続けることを許されない。

 

 わたしはベランダを去り、玄関から外にでる。俯瞰で観察していた物達が目の前にある。玄関のひさしへと蔦を絡めた巨大な鉢植えをどかせば、湿った黒い土があり、なにかしらの虫たちが慌てて飛び出してくることだろう。あるいは、地中に埋もれた大きな桶を掘り起こしてみるのはどうだ。プランターを動かしてみるだけでもいい。きっとそれぞれに小さな世界があり小さな生命があり、広がった宇宙に慌てふためく様が見られるだろう。

 だがわたしはそれをしない。わたしは何も触らない。わたしはそこに在り続けるということに敬意を払う。

 

 西側の低い崖の下には、葉むらに隠れた墓石がみえる。はじめてここを訪れた時に誰の墓かを訊くと、親戚には違いないのだろうけれど、“よく知らん”とかのじょがいっていたことを思い出す。

 苔むして長年の風雨に晒され、角が削れ、丸みをおびている。そこに在り続けるだけが当然のように佇んでいる。よく知らん墓が数基、ただそこに、佇んでいる。

 

 東側、母屋のとなりには旧家がある。現在皆の住処となっている家は、主にかのじょの父親の代からで、祖父母の代に住んでいた家は、未だに隣に残っている。

 つまり、通常ならば同じ場所に立て替えなりリフォームなりするところ、この一家は新築の住処を、隣にそっくりそのまま建てたのだ。いわずもがなこんなことは都市の暮らしでは滅多にあり得ることではない。

 

 わたしは立て替えた新築の家と旧家を交互に見比べる。現在の住処も四半世紀はゆうに越えていて、もはや古い造りの建物ではあるが、あらゆる端々から生活の息吹みたいなものを感じ取れる。いっぽう旧家にはもはや誰も住んではいず、枯れ木のようにひっそりと存在感を失っている。つまり完全な廃屋だ。

 

 わたしは廃屋に近づき、慎重に覗き込む。ガラス窓は埃で曇っていて、中の様子はまるでわからない。手で埃を拭えば中の様子を窺えるだろうが、わたしはそれをしない。その拭った形跡は、おそらくこれからずっと残ってしまうからだ。わたしは廃墟に敬意を表する。ただそこに佇むということにリスペクトを送る。

 

 剥がれたタイル。錆びた配管。止まったままの電気メーター。浸食して枯れ果てた植物。枯れ葉。散らばったままの紙くず。曇った窓。かろうじて見える湿った土間の様子。花柄の電気ポット。うち捨てられた食器。これらは家主の裁量でそこに在り続けていることを、容認されている。

  必要のないものを許容するということ。ただそこに“在る”ことを、許されるということ。これはとんでもないことなのだ。

  

 文明は開発を続ける。新しいものを想像し、創り出し、更新し続ける。人類の文明社会はおおむね、物も情報もたいがいのものは更新されて、古くなった物は破棄され廃棄され続ける。ただそこに在り続けられるということは、意外にも稀少な現象なのかもしれない。

 

 だが、世界の本当は、ただそこに在るのみなのだ。それが自然なことなのだ。石のように空のように。必要、不必要に関わらず。誰が許すでもなく。ただそこに在り続けるだけなのだ。

 

  廃墟、あるいは朽ち果てたものたちに、我々が郷愁の念を感じるということは、そういうことなのではないか。必要のないもの、いらなくなったもの。朽ちてなお、ただそこにある物体。文明の残響。記憶の残像。忘れ去られ、誰も気にも留めない存在。それらすべてがごく自然に容認され続けられる世界。それこそが廃墟の魅力の、中核を成すものなのかもしれない、と、わたしは感じざるを得ない。

 

 

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hiyapa.hatenablog.com

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 ということで、そんな廃墟の魅力をふんだんに堪能できるブログがあります。

 ここで唐突にねじ込ませていただきます。廃墟ガールことヒヤパさん。鳴り物入りでご紹介いたします。

 ヒヤパさんは様々な場所で廃墟の記録しています。とはいえ廃墟というものはいつまで残っているとは限りません。いつかなくなってしまうかもしれないもの。人々の営みの記録。こういうものをログとして残しておくことは、とても大切なことではないでしょうか。わたしはそういうことで東奔西走できるひとを非常に尊敬いたします。

 ブログの構成としても、とても丁寧に練られていて、楽しい企みや遊び心も満載です。時々かわいらしいイラストも描いてくれます。

 まだご存じないというかたは、ぜひ、リンク先に飛んでいって戻ってこないでいいので、少しでも「♯廃ログ」をご堪能くださいませ。

 

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 それからわたしは少しだけ散歩に出る。あぜ道を歩き、通りを横切り森に入る。濃い影をおとす木漏れ日がわたしの四肢をまだらに染める。風が柔らかく吹き、蝉時雨はデュエルに降り注ぐ。大きなコナラの幹にはクマゼミのコロニーがある。根方に踏み入れても彼らは鳴き止む様子はない。

 わたしは自然を間借りし、少しだけ堪能した後で、元の道を戻っていく。夕焼けは背中に燃えてくる。

 

 わたしはお気に入りのベランダに戻り、もう一度タバコに火を付ける。眼下では野良仕事を終えた家主が玄関先に腰をかけている。その周りでは、かのじょの甥っ子たちが走り回っている。夕飯のめどをつけた母親も出てきて、子どもを抱きかかえる。ほのかにカレーのにおいが香る。花火を買ってくればよかったね、わたしは隣で肩を並べるかのじょに言い、次に来るときは買ってこようね、と、かのじょは言う。

 

 蝉が鳴き、鳥が鳴き、トンボが飛び交い、瓦礫が転がり、廃屋は主張なく佇み、角の欠けた丸いお墓が押し黙っている。家主の長靴は泥と土にまみれ、犬が遠吠えをはじめる。

 子どもが指さした方向を皆が一斉に見上げる。あかく染まった空から、まだ青い部分へと、銀色の飛行機が横切っていく。

 

 わたしはそれらすべての風景を交互に見渡し、そこはかとない幸福を感じる。

 朽ち果てた物も新しき者たちも、異分子たるこのわたしすらも許容する家主たち。変わらずにいること、変わり行き過ぎ去る時間。すべてを飲み込み、朽ち果てることすらも黙りこみ、静かに許してゆく、田舎の風景。

 

 

 

 

  ヒヤパさん、勝手にリンクを貼ってしまいました。ごめんください。