ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

見分ける能力。

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 最近気づいた、というよりもはじめからそうだったのだろうけれど、わたしはどうやらスピリチュアル寄りの人間らしい。

 

 なんだか説明付かない出来事があると、なにかあずかり知れない力が働いていると思い込む節があるし、石や木なんかにも不思議な意思みたいなものは必ずあるとおもってもいる。前世だとか輪廻だとかいう概念も頭ごなしに否定はしないし、そもそもあらゆる物のカタチでさえ、みんなが同じカタチとして認識しているという事実すら、どこかしら疑っていたりもする。

 

 ところがそういう感覚を“スピリチュアル”みたいな言葉でひとまとめにされると、ものすごい抵抗感がでてきてしまう。うまく説明できないけれど、ただ語感が嫌なのだろうか。

 何だかわからない力や意思だとかは、何だかワカラナイから名前すらも与えられないものであって、それをひとまとめに“スピリチュアル”なんて言われると、なんていうか、すごくライトなものにされたように感じてしまう。

 まるでインドの苦行としてのヨーガと、白人が取り入れたエクササイズのヨガみたいなものも、一緒くたにしてうまいこと生活に取り入れよう、みたいな、なんだかそんな軽い響きみたいに感じてしまう。まあ別にそれでも構わないし、ヨギーになった鶴ちゃんまでいけば、たいしたものなのだろうけれど。

 

 かといえ、“霊感”なんていわれても・・・ねぇ。

 さらに低く唸ってしまう。たとえば誰かしらに、霊感があるなんて話をされると、へぇ、なんていいながら、心のどこかでは片方の口角を引き上げて鼻白んでしまうところがある。

 

 そうかとおもえば、そうして語られた心霊体験かなんかが、ちょろっとでもリアリティのあるものだったとすれば、すぐに信じてしまったり、簡単に背筋を冷やしたりもする。少なくとも鼻で嗤って疑ってかかるようなことは、ほとんどない。

 

 「自分の姉は霊感を持っている。」

 すこし前に、わたしのかのじょが、知人女性にそう打ち明けられたらしい。

 その話を聞いたときも、わたしは同じように、へぇ、と乾いた返事をしながらも、心の口角を引き上げていた。

 だが、かのじょはそんなわたしの口元を敏感に感じ取り、違うの違うのと話を続けた。

 

 もっとも、その女性も姉が幼少の頃からそういう不思議な発言をすることは知れど、本心で信じるというわけでもなかったそうだ。

 ある時期、その女性はとある男性に告白されたらしい。タイプの顔だったし、性格も良さそうにみえたので、彼女は快諾し、付き合うことになったそうだ。

 けれどそれは彼女の勘違いだったようで、やがて彼氏のすべてが気にくわなくなり、ひどく一方的に別れを告げてしまった。

 その後、彼女が実家に帰った際、そのモトカレの愚痴を姉に打ち明けていると、

 姉は不意に、「ちょっと!あんた大丈夫?」と語気を強めて話を遮った。

 「なに、何?」彼女が戸惑いの反応をしていると、姉は静かに、

 「あんたの後ろにお坊さんが見えるんだけど、」という。

 彼女は鳥肌を立てたそうだ。モトカレの実家は寺であり、彼は後を継ぐことになっていたからだ。

 もちろん彼女は、姉にモトカレの職業的な素性は一切伝えていなかった。

 そればかりか、姉にいわれるまでは当の本人でさえも、モトカレが寺の息子だという事実をすっかり忘れていたのだった。

 

 ぎ、

 ぎゃーーー!!・・とはならなかったけれど、その話を聞いたわたしが大興奮したことは事実だった。「すごい!絶対霊能力者じゃん!」そうそうそうでしょ、わたしとかのじょはお互いにうなずき合った。こういう話をするときは大抵呑んでいるので、非常に盛り上がるのだ。

 

 わたしのかのじょもスピリチュアル的なものに同じような印象をもっていて、両手放しに信じ込むというわけでもないけれど、頭ごなしに疑ってかかるような性格でもない。

 かのじょの友だちにタイ人のおばあさんがいて、おばあさんもちょっとした能力を持っているらしい。

  かのじょには、首筋と背中には小さなアザのようなものがあるのだけれど、ある時、おばあさんはそのアザをみて、うんうん頷きながら、「ダイジョブ、ダイジョブ、これはね、前の命のときがね、二回ね、ちょっと悪かったからね、そのシルシだよ」というらしい。

 ダイジョウブというのは、“今生は大丈夫”という意味らしく、何の根拠もなし、理由を深く訊ねることもせず、かのじょはおばあさんのいうことを無条件に信じていて、この話も、お酒が入ればかのじょは何度か繰り返したりする。

 

 わたしもその話は結構気に入っていて、本来コンプレックスになりがちのアザみたいなものが、実は意味のあるものだとすれば、それはそれで愛着の湧くものになり得るのだろうし、だとしたら、とても素敵な考え方だとはおもう。

 

 そのおばあさんは他にもいくつかスピリチュアル的なエピソードを持っている。日本語がそれほど得意でないこともあるのだろうけれど、片言でポツポツいわれた意味合いがその時は理解できなかったとしても、後々になって奇妙な繋がりみたいな出来事をもって、浮き出てくることも少なくはないらしい。

  

 また、おばあさんは良いことは神秘的な物言いでとことん褒めちぎる一方で、良くないことや場所があると、ダメ!の一点張りらしく、たとえば仕事で絡んだひとなども第一印象から、「あのひとダメ!絶対ダメ」といって、理由を訊いてもダメとしかいわず、すぐに心を閉ざしてしまうらしい。

 第一印象から直感で嫌ってしまうのは困ったものだともおもうが、そういわれたひとは、後々になって、ほかの従業員にイジワルをしたり、無断欠席をしたり、もっとひどいことをするような人格を持っていることが、大概は後々になって発覚するのだった。

 

 そんな話を訊いていたので、わたしがおばあさんと初めて会ったときには、とても緊張した。対面するやいなや、ダメの超連打を浴びせられるのではないかと、ヒヤヒヤした。幸運なことにそうはならなかったのだけれど。

 

 結局は信じる信じないの話なのだろう。

 わたしの周囲では、霊的なものをまったく信じない、というか、どちらかといえば信じない、というひとが大半を占めていて、その主なる理由といえば、自分自身が見たことも聞いたことも感じたこともないからだという。

 見たこともないものを信じないというのは、もっともな話だろう。かくいうわたしだって、上述したような話を話されたとしても、まるっと全てを信じ込むわけでもなく、考えられる要素を加味してみて、結局は自分がそうであればちょっと素敵だな、という程度。要は“信じたい話題であるから信じる側に回っている”に過ぎないのだとおもう。

 

 わたしだって、なんだかわからない超常現象に人生を左右されたり、よからぬ方向に持ってかれようものならたまったものでもないし、そうなればむしろ逆に、意地でも信じなくなるかもしれない。

 ただ、そういうことがない限りは、人類が理解できない“彼岸”みたいなものがあり、また、そういう心の余地みたいなものがあったほうが、人生は豊かに過ごせるのではないかなぁ、と、ほんのり考えている過ぎない。

 

 つまり、基本的には(信じる)姿勢みたいなものはあるのだけれど、そういう超常的なことが向こうからやってくるのを望んでいるわけでも、自分から飛び込みたいともおもってはいない。

 だから、このての話題なんかを、ものすごく近しい人間同士で酒でも呑みながらきゃんきゃん騒ぎ合うぶんには楽しいとおもう反面、なんていうか、そういうことに重く比重を置いているひと、というか、見えます感じます聞こえます、みたいなことを主張してくるようなひとはとても苦手だったりする。

 

 それから、占いなども、理にかなったこともあるようなので、都合の良い部分は勝手な解釈で信じたいところもあるし、なんなら根拠もなくコロリと信じたりする部分もある。

 それでも自分の意思以外のものに、自身を委ねたり揺さぶられたりすることは信条的にあまり無いので、率先して占ってもらおうとは、わたしはあんまりおもわないけれども。

 

 一度だけ、若い頃、友人のたっての希望で、街でちょっとした有名占い師のもとへ付き合ったことがある。たしかにその時分のわたしは人生でずいぶん窮屈している部分(とにかくお金がなかった)もあったので、試しにという気持ちも、あることはあった。

 

 手相占いとのことだったのだが、そのひとはなにやら霊的なものも見えるらしく、わたしのことを数秒じっと凝視して、それから開口一番、

「あんた、親を大事にしなさいよ、」とこういった。

 心の口角がキュキュッとひき上がるのを感じた。親父はすでに自ら家を飛び出し、母親は何年も前に他界していた。大事にするも何ももう手遅れだった。

 それからこうもいった。

 「遊んでばっかりいないでちゃんと家に帰りさいなよ」。

 その時のわたしは先輩のアパートに居候させてもらっていて、実質的にはホームレスだった。自分の家もなければ実家すらなかった。

 

 わたしはただ黙って訊いていた。それからその占い師のひとは、どういうわけかわたしを高校生だか大学生と勘違いしたようで、勉強がどうとか単位がどうとかちゃんと学校にいきなさいだとか、けだし数年前に訪れていたならば大変ありがたくもおもえるかもしれないような、説教をしてくれた。

 

 わたしの口角は上がりっぱなしであった。予想以上にあまりにも外すので、面白くもなってきた。お金の話は一切してくれなかった。わたし的にはもっとビジネスの助言が欲しかった。わたしはただ、へぇ、だとか、ほぅ、だとか生気の無い返事ばかりになっていた。今おもえば、こちらからわざわざ訪ねてきておいて、少々いじわるな態度でもあったのかともおもう。

 

 なぜだか手相はほとんど見てもらえなかった。少々腹もたった。占いは太古の統計学としてみれば、現代の天気予報ほどの精度とまではいかずとも、しっかり占えばきっと中る箇所もあるだろうに、なにも霊視的な方法をチョイスすることもなかろう、これはたいへんな職務怠慢だともおもった。

 

 それに、あの頃の年代の若者ならば、おしなべて似たような悩みはあるだろうし、多少世話を焼いてやるようなセリフを繰り出せば、感謝せずにはいられまい。わたしが少々奇異な家庭環境になければ、煙に巻かれたようにハハアとひれ伏して、感謝のひとつもするだろうが、的外れの説教をし続けるだけでは、あまりにぼったくりなうえ、感謝の押し売りだとさえ感じた。だいたいなんだその遠くを見るような眼差しは。ちゃんと顔を見て話をしてくれぃ、少なくとも手のひらをみてくれぃ、とも、多少おもった。

 

 そんなことなら、スピリチュアル信じる側の人間として、おなじ神秘の能力ならば、霊能力よりも、“霊的な能力を持っていると自称しているひとたちを見分ける能力”のほうが、よっぽど役に立つのではないか。わたしはぜひそういう能力が欲しいものだ。

 と、そのときの若いわたしが、おもったりしたかといえば、それは覚えてはいないが。