ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

Twitterがわからない。

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 タイトルの通りなのですけどもね。

 アカウントを取ったはいいけれどやっぱりまだよくわからない。なにがって問われれば、まあだいたい全部。

 全部ということは、わからないことが何なのかすらわからないということになるので、如何ともし難い。

 スライドしていると謎のマークやら話題やらが飛び交って目が回ってしまう。まず見かたがわからない。半分くらいは何の話題を話しているのかわからない。クリックしてみてもよくわからなかったりする。専門用語的な略語もわからない。まあ、あんまり触っていないということが主な原因なのだろうけれど。

 フォローされたのでフォロー仕返したら、たまに薄着のお姉ちゃんの自撮り写真みたいなのばかりになって、開くたびにギョッとする。

 

 それでも、一日に1、2回覗いてみて、ここで知り合ったひとの呟きにハートをぽちぽち付けているだけで、なんとなく満足できるのでそれで良しとしている。それからダイレクトメールだけはとても便利だなとはおもう。いまのところ、それくらいしかわからない。それで、誰か新規なひとに繫がったりしているなんてことは、とてもじゃないがイメージできない。

 

 未だまともに呟いた(まともに呟く←)こともリアクションもしたことのないわたしが、浅はか覚悟でいってみるけれど、どうやらTwitterというのは、相互に会話をしてコミュニケーションで繫がっていくものではなくて、あれは本当にそれぞれがただ“呟く”だけのコンテンツのようにも感じる。SNSというものにすごい“繋がり”みたいなものがあるのかとおもっていたが、もしかしたらそもそもそこが勘違いだったのだろうか。

 

 

 わたしはゲームがすきなので新しいゲームをプレイするときには、無意識にもコントローラーのボタンを全て押す。これがジャンプでこれがしゃがむでこれが攻撃でこっちが防御ね。そんなふうに。説明書なんて読まなくてもだいたい感覚で覚えたりする。

 ところがゲームをしないひとにとってはこの、「ボタンを押してみる」という行為すら、けっこう勇気がいるようで、かのじょとたまにゲームをすると、教えたボタン操作しか使用せず、未知のボタンにはまったく触らなかったりする。このボタンを押したらどうなるのかという疑問すら抱かないそうだ。

 

 わたしにしてみればたぶんTwitterというかSNSというものがそれに当て嵌まっていて、コントローラーを握ったとしても、なにか違うボタンを試そうとは、なかなか思わないようだ。

 これは自己分析するまでもなく、充分にわかっていることで、つまりわたしは超がつくほどに内弁慶な人間だということに由来している。たぶん。いや、ちょっと違うかな。なんていうか、変則的な引っ込み思案、というほうが正しいのかな。

 

 このブログだってはじめはそうだった。もうすぐ一年くらい経つのである程度は勝手知ったる感じだけれど、はじめの三ヶ月くらいはネットワークで繫がっているという感覚すらなくて、右上にある吹き出しみたいなアイコンもなんだか数字がカウントされているなと思えど、押してみようとはせず、自分の日記を読み返すこともなくただ書き綴るばかりで、ここに訪れてくれたひとがたまに付けてくれている星の存在すらも、なんなら気付かずにいた。

 

 だから、はじめてコメントをもらったときには本当にたまげた。本当に繫がってたんだと、あたりまえだけどそう感じた。とはいえ、そういう感覚はオンラインゲームをはじめたときも同じような体験をしていたので、顔も知らないひととのコミュニケーション自体に、抵抗を感じるというわけでもなかった。

 

 引っ込み思案といっておいて、舌の根も乾かぬうちに自分で公言するのもなんだが、わたしはけっこうオープンマインドな性格でもあるので、一度扉をノックしてくれたのなら、喜んで外へ出て行くという性分ではある。ところがどういうわけか、ノックされるまでは外に人がいることなんてまるで気にしないし、ましてノックされるという可能性すらも想定しない。

 ただ、ぼんやりしているのだ。わたしは。興味あることは多大にあるくせに、ひとたび新しいコントローラーを握ると、未知のボタンを押してみようとは、おもってもみない。

 

 幼少の頃、こういうことがあった。

 遊園地に連れて行ってもらった際、ミニサーキット場みたいなところに、大きなラジコンカーがあり、わたしたち家族はサーキットを滑るそのラジコンカーをしばらく眺めていた。

 少し遠くに車のハンドル型の操作パネルがあり、兄貴がそれを指さして、「コレやりたい」とねだったので、わたしも兄貴に習って何の気なしにとなりのパネルに取り付いた。 

 親父が小銭を入れると、パネルのスピーカーから大きなエンジン音が聞こえた。わたしは兄貴の仕草を見よう見まねで足もとのアクセルを踏んで、ハンドルを動かした。動かす度にヴヴヴーンとかギョギョギョだとか凄まじい音がした。何だか分からずにわたしはハンドルを必死に回した。

 

 兄貴は夢見心地な顔をしていた。なにが楽しいのかとおもった。けれど徐々になんとなく楽しくなっていった。わたしも得意になってハンドルをめちゃくちゃに回した。親父と母親も、ほらそっちじゃない、右右、左左、などと、わたしに調子をあわせてくれているので、とても気分が良かった。

 

 だが突然、母親が「ほらもう終わっちゃうよ、ゴールできないよ」といって、どこかを指をさした。母親の指先を辿ると、赤いラジコンカーがぐるぐると回っていた。

 わたしは衝撃を受けた。なんとそのラジコンカーがわたしの操作と同じ方向に動いているのだ。わたしはそこでようやく気がついた。目の前のミニサーキットとわたしのハンドルが連動していたのだと。

 それまでのわたしは、ヴヴヴーンだのギョギョギョだをただ楽しむだけのものだと思い込んでいたのだ。その音のバリエーションのみで、架空のレーシングカーを頭の中で思い描き、嬉々としていたのだった。

 ところがどうだ、その架空のレーシングカーが、わたしの目の前に突如として現れたのだ。わたしの衝撃は半端ではなかった。

 

 わたしはぼんやりしているのだ。いまでこそすまし顔で大人をやっているように見せているけれど、内面は子どもの頃と大して変わっちゃいない。

  目の前にサーキットがあって、ハンドルがあっても、いつもそれが連動しているとは気付かずに、頭の中の想像で埋めてしまう。そうして、ようやく気がついた頃には、本当のゲームはもう半ばを過ぎていたりする。

 

 わたしはその頃からある種、発育不全のような意識のトロさがあり、頭では世界が繫がっていることを知りながらも、心では理解していないということを自覚していた。

 だからなのか、それとも内弁慶な性分が先かは判然としないが、ひとよりも遅れて知った繫がる世界をひとたび知り得たとするならば、それを少しでも取りこぼさないようにしたいという意識だけは、余計に強いほうだとおもう。

 逆にいえば、そういう性分を知っているからこそ、握ったコントローラーの理解できる性能だけを、使いこなせるまでマイペースに押し続けることができ、世間の雑音をそれほど気にせずに好奇心の赴く方向へ進めているのかもしれないが。

 

 そういうわけで、わたしにしてみれば、TwitterをはじめあらゆるSNSは流れが速すぎるのだとおもう。というかインターネットの流れすべてがとても速い。速すぎる。ようやく覚えたボタン操作をしているうちに、どんどん次が流れていってしまう。これは到底、わたしなんぞが参加できるものでもないぞともいつも感じる。

 

 ここまで書いて、いま気がついたけれど、わたしはスマホを持っていないのだった。そもそもTwitterというものはスマホ所有を前提として、頻繁にチェックしたりして、時間軸に沿って楽しむものなのではないか。そういうライブ感みたいなもの、まさにタイムラインを肌で感じてこそ、楽しんで使いこなせるコンテンツなのではないだろうか。

 

 ほら、そういう初歩的なことを頭でわかっているつもりでも、こうして書かなければいつまでも気がつかない始末。

 やっぱり、慢性的に時代遅れのわたしなんかが気軽にツイートできるようになるまでは、まだしばらく時間がかかりそうだ。