ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

物語はじんわりと

f:id:flightsloth:20180605022835j:plain

 

 柳田國男先生の本で「猿と猫と鼠」というのがあって、どうやらネットでもちゃんとしたものを読めるのだけれど、短い話なのでさらに短く記憶にまかせて高速であらすじをタイプしてみる。

 

***

猿と猫と鼠

 

 ある日おじいさんが山へ行くと猿が猟師に撃たれそうになっている。かわいそうに思ったおじいさんは助けようとするが、流れ弾に当たってケガを負ってしまう。

 漁師が慌てて逃げてしまうと、助けられた猿が近づいてきておじいさんの手当をし、さらにお礼として「猿の一文銭」という猿界の至宝をくれる。

 それをもらったおじいさん夫婦の家はとても繁盛する。 

 

 ここまではけっこうお馴染みの昔話。でこの後、ご多分に漏れず意地悪じいさん的なひとが現れ「猿の一文銭」なる存在を知ると、そいつを盗んでいってしまう。こういう流れ。この後からがいささかびっくりな展開となる。

 ↓

困ったおじいさんたちは、三日以内に探してこいと猫に命じる。

 ↓

 命じるだけならまだしもおじいさんは念を押して、「もし探せなかったら“これ”だぞ、」と刃物をちらつかせたりする。

 ↓

 当然、猫慌てる。

 ↓

 慌てて鼠に命じる。猫は鼠に同じことを言い、「もし探せなかったら食べちゃうぞ」と念を押す。

 ↓

 あわてる鼠。

 ↓

 鼠、文字通り必死で探し回りついに「猿の一文銭」を探しだし、意地悪じいさんのもとから奪取することがかなう。

 ↓

 鼠はそれを猫に渡し猫は、それをおじいさんに渡す。

 ↓

 かくして、おじいさんたちも猫も鼠も共々大喜びで、皆が皆、いつまでも繁盛しましたとさ。めでたし、めでたし。

***

 

 うん。めでたしめでたし。

 いや、なにがめでたしなのだろう。

 ややともすれば、おもわず本をぶん投げたくもなるような話だが、わたしはこういう物語が結構すきだったりもする。

 ここまでいくと教訓だとか解釈だとか、いちいち小難しく考えるのもばかばかしくもなる。猫も鼠も結局脅されてそうしただけだとか、不本意だとか、理不尽だとか、いちいち突っ込むヤツのほうが、もはや野暮なような気もしてくる。

 逆に、最後に「めでたし」を強引にねじ込んだような結びが、不気味なくらい清々しくも感じるし、にっこり笑って、すんなり受け入れる他ないようにも感じる。

 

武器よさらば (新潮文庫)

武器よさらば (新潮文庫)

 

 ↑ 読了ぶん投げ小説といえばわたしのなかでは「武器はさらば」。なんならヘミングウェイ全般はわたしの愛読書でもあるが、何年か前になにかの米国映画で、人生をやり直そうとしている主人公が夜通し読みふけり、読み終わったとたんに窓からぶん投げているシーンがあった。

 なんていうタイトルの映画だったのかはおもいだせないけれど、あのシーンはこの小説を読んだひとのある意味率直な反応だともおもった。(これだけでタイトルわかるかたがいたらぜひ教えて欲しいものです)

 

 近々「道徳」が学校の科目に加えられるという話を聞いた。たとえば授業としては「猿と猫と鼠」をどう教えるのだろうか。

 間違いなくこのような話は授業に取り上げられることはないだろうが、あるいは生徒に尋ねられたら先生方はどんな解釈を伝えるのだろうか。

 もしわたしが教員だったら「ただぶん投げろ」と教えようかな。あるいは、「考えるな感じろ」でもいいや。ついでに道徳の教科書もぶん投げろとまでいってしまい、即クビになるのだろうな。

 というか、そもそも道徳って学校教育で教えられるものなのだろうか。授業で教えてこんで、テストや答えでぴったりと揃えでもしたら、それは道徳というよりも洗脳だとかシビリアンコントロールというのではないだろうか。

 

 それはそうと、たとえば、昔話なんかに現代的な解釈を見いだすようなことを、どうやらわたしはあまり好まないようだ。

 物語は物語のまま、なるべく骨格だけを抽出するような読み方をするほうが、楽しめるのではないだろうか。

 

 以前にACだかのコマーシャルで、「桃太郎」のドンブラコッコとおばあさんが桃を拾うくだりを皮肉ったようなのがまさにそうなのだけれど、ほかでもよく聞くのは「カチカチ山」だとか「さるかに合戦」などのいわゆる昔話で、あれは報復の話だから子どもの教育にはよろしくない、みたいな、そんな意見。

 

 もちろんそれら昔話の多くは時代によって改変されているのも知っているし、もはや完全なオリジナルのまま改変されていない話などないのではなかともおもう。寓話が現実社会を示唆したものだということもわかってはいる。それに、読み解くうえで様々な解釈があって然るべきだとはおもう。

 けれど、いまの世の中というか風潮は、何でもかんでもただ揚げ足を取っているとしかおもえないことが多々ある。

 

 拾った桃は警察に届けないといけないだとか、窃盗だとかいうあまりに不毛なものは論外だけれど、もうすこし複雑な物語にでも、そういう指摘に気を取られているような意見が散見しているように感じる。

 

 わたしは「カチカチ山」も「さるかに合戦」も、現在どういうふうに改変されているか知らないし、そらで物語のあらすじを言えるのかと問われれば、それも怪しい。

 けれどなんとなくでも、それら寓話に占めている骨格は、子どもの時分に聞かされたナラティブが充分に染みこんでいるに違いない。じんわりとは。

 

 たしかに「カチカチ山」での狸はかなりエグい。「さるかに合戦」の猿もやり過ぎだ。だからといって、火あぶりみたいなことで報復したり、仇討ちと称して集団暴行に及ぶことは、あまりにもやり過ぎているともおもう。現代ではもうすこしやわらかく改変されるのも、然るべき処置なのかもしれない。

 

 けれどそういうところに気をもんだり、逐一細部にツッコミをいれることばかりが、物語の楽しむべき方向ではあるまい。悪い事をしたら必ずしっぺ返しが帰ってくる。この程度の解釈でいいのではないか。

 

 いや、そんなことすらも必要ないのかもしれない。むしろ物語に道徳だとか教訓だとか解釈なんてものは、そう気にするべきではないのかもしれない。物語は物語そのものを楽しめれば、そこで与えられた“何か”は、じんわりと心に染みこんで、それぞれの人格の一部になっていくのではないだろうか。このじんわり感が大切なのではないだろうか。

 

 「カチカチ山」の狸はお婆さんを煮てお爺さんに食べさせてしまうれど、そんな所行を人間に当てはめてしまえば、それはそれは極悪という次元を通り越した狂気になる。だから狸なのだろうけれど、当然、狸だってそんなことは絶対にしない。

 つまり狸もただの寓意に過ぎない。創作された時代背景を鑑みれば、当時、狸や狐などはじゅうぶん邪悪な害獣だったのだろうけれど、現代に当て嵌めて読み解くにあたっては、ひとつのアレゴリーとしても問題は無いだろう。

 だからそこはなにも狸でなくていいのだ、恐ろしい獣、ずる賢い何か。あるいは山姥でもドラゴンでもいい。

 狸にこだわれば動物愛護の精神が物語を反発させてしまうし、鬼や山姥に人類の人格を当て込んで考えてしまえば、たしかに桃太郎はただの虐殺者にさえなり得る。

 

 だがそんなことにこだわるのならなんとでもいえよう。「さるかに合戦」でも、仇討ちはよろしくないから公正な裁判で決めるとしよう。臼を警察官、栗を裁判官にしようだとなんとか。

 そこまでいけばそれはそれで別の物語としては愉快かもしれないが、そういうものは改変というか音楽的なサンプリングに近いやり方だし、そういう話がすきなら太宰や芥川の小説を読めば済む。

 

 たとえば桃を持ち帰ったお婆さんを現行の法律で弾劾するひとは、その桃から子どもが産まれるファンタジーをどう解釈するつもりだったのだろうか。

 桃太郎が勝手に鬼ヶ島に押しかけて虐殺したとおもうひとは、道徳に囚われすぎて逆に想像力が足りなくなってしまっている。神話としての読解力をもう少しだけ鍛えたほうがいい。

 

 桃太郎もいまの一部の絵本では鬼を倒すのではなくて、ただ和解して終わると聞いた。動物たちも子分にするのではなく、友だちになるらしい。

 運動会でも順位を決めなかったり、女の子全員がお姫様のおゆうぎ会だったり。みんな仲良く。それはそれでいいのだが、きれい事ばかりいうのが教育というわけでもあるまいし。

 

 鬼はおろか桃太郎も人外の者なのだ。理不尽の象徴であり、正義や道徳のメタファーであり、スーパーマンかもしれないし宇宙人かもしれない。あるいは神かも。そういう人外の者に現在社会の価値観を当て嵌めてどうしたいのだろうか。

 争いに対するそれぞれの振る舞い。厄災に対する心構え。苦悩や葛藤。そういう物語の意味を、ただじんわりと抽出して、想像すればいいのではないだろうか。

 

 物語を小ぎれいにして過激な描写を間引いていく風潮は、ほんのり気にくわない。テレビ放映された際のホラー映画のがっかり感に似ている。

 寓話や神話は理不尽があってこそのものではないだろうか。そもそも神話なんてほとんどが “R指定”物だろう。だがそこを柔らかくしてR指定を取り払ってしまい、単純でやわらかい解釈で埋め合わせることは、実はけっこう危険なことではなかろうかとも、おもったりする。

 

 人をだます狸がいて、ひどく性悪な猿がいて、恐ろしい山姥がいて、人々に迷惑をかける鬼がいる。それでいいではないか。妻を迎えに出向いたら醜く腐り果てていたので慌てて逃げ帰る神がいて、人間の信仰を悪魔と賭けてあえて受難を人に振りかざし仕舞いにはクジラに丸呑みにさせる神がいたり、女神を陵辱しまくる主神がいて愛憎相まったオリュンポスの神々がいる。それでいいではないか。

 

 そういう過激で理不尽の物語を、過激イコール不謹慎、みたいな風潮で柔らかく優しく、あるいは美談としてやり過ごしてしまえば、与えられた神話性までも薄まってしまうに違いない。醜悪さを隠してどうなるのだろう。人生はキビシイのだ。人間は醜いし、美しいのだ。毒も薬も同時に食らえだ。片方を隠しても仕方がない。 

 

 物語に罪はない。創られた時代背景や政治的・思想的企みもあるのかもしれないけれど、いちど放たれたナラティブはそれぞれの読み解き方によるものだ。右へ左へ振られるのは読み手の感受性次第だ。ただ偏らずに楽しめればなによりだとおもう。ただじんわりと染みこませるだけでいいとおもう。

 そしてそれはすべての芸術にいえることだ。本来、時代や思想すら置き去りにして、ただそこに在り続け光り続けることこそが、芸術のなによりの強みではないだろうか。