ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

リミッター

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 「怒り」は心の器がいっぱいになると爆発するもので、そのタイミングは自ら選んで爆発させているらしい。ラジオでえらい学者さんがそういっていた。

  つまり、怒りは蓄積されていくが、発散のタイミングはある程度、自分でコントロールでき、ひとはそれを無意識にも、自ら選んで爆発させているらしい。

 

 それはそうだろう。感情的になるとしたらヤクザのような風体のひとよりも、より立場の弱そうなひとを選んで怒るほうが得策だ。 

 この理論、平たくいえば、弱者だけに強がる卑怯者のロジックに当て嵌まり、DVやいじめやパワハラの構図の説明ともなるのだけれど、完全に否定できない部分もあるはずだ。誰にだって、思い起こせばひとつやふたつ、負けそうもない相手を無意識にも選び、怒りの引き金を引いていたような経験があったことは否定できまい。若い頃には特に。わたしだってそうだ。

 

 それは同世代に侮られないための処世術だったのかもしれないし、本当にあふれだした怒りだったのかもしれない。いずれにしても、当時のわたしは強面の諸先輩がたなどには、間違っても、そのトリガーを引こうとはしなかった。かなり理不尽なことを謂われたとしても反駁などせず、ヘラヘラと取り繕い、その場を凌ぐことにだけに集中していたものだ。確実にフラストレーションをためつつも。

 

 だがそれはたぶん遺伝子的には、理にかなった行動ではあるのだろう。きっと誰かれ構わず怒りを爆発させていては、そう長生きもできまい。たとえそれが正しい感情だとしてもだ。怒りのタイミングをコントロールすることは卑怯だが、生きるためには欠かせないリミッターでもあるのだろう。

 

 強い者に逆らうことはどうみても不利益だ。遺伝子的にも不利益。つねにキツネに立ち向っていくウサギなどいやしない。それこそ無謀というものだ。

  だが、立ち向かわなければいけない時は必ずある。不利益でも決して無意味ではない時がある。生き物にはそれぞれ、大きな力に抗わなければ、進めない時が必ずあるのだ。

 

 誰にでもなにかをぶち壊さなければ進めないときがある。不利益覚悟でそんなリミッターを振り払うには、遺伝子とは違う領域が必要となる。つまり勇気の領域だ。

  わたしは勇気とは先天的なものではないと思っている。そいつは後天的に、それぞれが生きていくうえで身につけるものだとおもっている。そして、勇気こそが唯一、理不尽に立ち向かい、卑怯者の怒りを制御する鍵だともおもっている。

 

 幸運なことにわたしたちの過去の英知は、たくさんの勇気にまつわる物語を残してくれている。たくさんの勇気にまつわる歌を歌ってくれている。だからわたしたちは物語を読み、あるいは歌う。時にそれらがわたしたちを卑怯者に成り下がることから救ってくれる手助けともなる。

 

 そもそも怒りは押さえつけるほうがいいのだろうか。それとも発散させるほうがいいのだろうか。

 近頃はアンガーマネジメントなんて言葉も耳にする。詳しくは知らないがこれはどうやら欧米のホワイトカラーあたりで流行りだした、怒りを制御する様々な方法らしい。

 なるほど確かに沸点の低い白人(偏見)のあいだでは、怒りは極力制御したほうが得策かともおもうが、この国のひとびとにおいては、制御するよりも、むしろ発散させる方向に重点を置いて考えたほうが良いようにもおもえる。

 

 また、怒りは、ひとの話を受け入れられないとこみ上げてくるものらしい。脳のトレーニングを怠ったりすると、ひとの話が分からなくなるし、聞こうとしなくなる。ひとは、ひとの話が理解ができなかったり、気持ちがわからなくなると、怒りに転換するらしい。

 脳のトレーニングというのはコミュニケーションに依ることが多いそうだから、孤立しがちなお年寄りはおろか、現代の若者も気をつけなければならないそうだ。

 それから、中年を過ぎると話を聞かないひとが多くなるのも、怒りっぽくなるという通説も、そういうことらしい。

  

 世の中を俯瞰的にみていると、みんな常に怒りを抱えているように感じるときがある。政治にしろ、仕事にしろ。どこもかしこも器はパンパンになっていて、今にも溢れ出しそうだ。いつもその矛先を探し、出し抜く相手をきょろきょろ探し、発散のタイミングを手ぐすねを引いて待っているように感じるときがある。みんなものごとの上澄みだけをすくい取り、わざわざそれを自らの器に注ぎ足しているようにさえおもえる。

  

 だが、そうおもういっぽうで、それはそれ、これはこれ。なにかしらが発散できているのなら、器の中身を少しずつでもこぼせているのなら、そう悪いことではないのではないかともおもったりする。少なくともため込むよりはマシなのでは。ラジエターに負荷を掛け過ぎず、うまく冷却できていればなんてこともないというわけだ。

 

 あるいは発散の受け皿になっているのならば、この際、なんでもいいのかも知れないとさえおもう。じっと耐えて、ため込むよりもずっと健全なのかも。

 それに、正しい怒りというものも、確かにあるのだとおもう。その活力を正しい方向へ向けられるのなら、きっと良いことに違いない。ひとは時としてクラッシュしながらでしか、前へ踏み込めないことだってあるものだ。

 

  わたしは性善説を信じているので、もっと深く潜ればきっとそこは案外優しい世界だとおもってはいる。少なくとも現実の世間と同じ程度には。ネットワーク全体がもうすこし深いところで繫がる未来を信じていたい。

 

 わたしたちは大人になるにつれ、怒りを自制する術を身につける。社会全体はそれを美徳とし、当たり前のように振る舞う。この国のひとびとはいつも怒りをひた隠し、ため込んでいる。器はもう一杯に溜まっているのに、どこにも溢そうとはせず、ひたすらにため込んでいる。ため込んだまま、飲み込んでしまう。

 

  怒りを飲み込むということは、そいつが自分自身に牙を向けるということになる。ひとはいつまでも自分自身に怒りを感じてはいられない。いつまでも耐え続けることはできない。ため込んだままでいれば、最悪の場合、自分自身を消してしまうことになりかねない。それは止めなければならない。そうならないためにはどうすればいいのだろう。答えも方法もそれぞれにあるはずだ。

 

 わたしだったらどうするかな。もし、近しいひとが激しい怒りを抱え込んでいたとしたら、どうすればいいのだろう。

 

  たとえばそういうときはこうしてみよう。

 とりあえず、ただ話そう。ただ話を聞こう。あるいは、静かに寄り添ってみよう。

 愚痴だってなんだって、いくらでも、言ってくれても構わない。場合によってはわたしをその矛先に向けてもかまわない。理不尽でもいい。その怒りをわたしにぶつければいい。わたしは一向にかまわない。

 だからまずは話してほしいと思う。たとえば愛するひと、信頼するひとならば、なんなら、二、三発、殴られたってかまわない。ほんとうにかまわない。そこはなんとか我慢しようかと。

 なぜなら、たぶん、怒りなんてものはそう長くは続かないでしょうからね。そういうものでしょ?