ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

クジラの問答

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 ひとむかし前まで、自然界や野生動物を扱ったドキュメンタリーなどが苦手だった。子どもの頃はむしろ嫌いだった。嫌いというより怖かった。

 

 たとえば海亀。産卵からはじまり、孵化した子ガメたちの海岸から海までの険しい道のり。カニに食べられたり海鳥についばまれたり。波打ち際までたどり着いてもなお、荒波はいとも簡単に子ガメを押し返し、濡れた砂浜で力尽きる。

 それからナレーション。「海へとたどり着いたわずかな子ガメたちにはこれからも様々なキビシイし自然の試練が待っていることでしょう。」とかなんとか。

 哺乳類の子は産まれてすぐに立ち上がる、プルプル足を震わせて必死に立ち上がる。今すぐに天敵から逃げ出す準備をしなくてなならないのだ。とかなんとか。そこで差し込まれる感動的なBGM。

 

 幼いわたしはそんな自然界にひたすら戦慄するばかり。非情で無慈悲。映像から感じるイメージはひたすら過酷な世界でしかない。

 ヒエラルキーの頂点に立つ肉食動物や猛禽類でさえ、つねに飢えていて、子育てに苦労していた。それこそ命を賭けていた。そんな世界にはとてもじゃないが枯れ木のような細腕のわたしが入り込めるものでもない。そう感じていた。まあそこはいまでも事実、変わりはしないのだけれど。

 

 そういったドキュメンタリーのそら恐ろしいイメージをわたしのなかで明らかに変えたのが「プラネットアース」。はじめて見たときには、やってくれたなNHKBBCとの共同制作)とおもった。

 

 このほどゴールデンウィークの最終日にその海編ともいえる「ブループラネット」が放送されていた。(16日には再放送もあるようなので、興味があるかたはみてほしい。)

www.nhk.or.jp

 

 映像技術はいわずもがなの圧巻。深い海の蒼と遠い空の蒼。お互いを別つみごとな同色の対比。ある時はそのあいだに点在し、ある時はおびただしい数を成す生命の横溢。あまりの美しさと迫力に、「これCG!まるっきりCG!」という情緒ゼロの感想を繰り返すゲーム脳のわたし。

 

 なによりこのシリーズの素晴らしいところは、あるがままの美しい自然を、努めてフラットに撮影している(ようにみえる)ところだ。その撮影技術は、生命の循環を決して偏った目線では語らず、まるで生命と自然が一体となった、ひとつの塊のようにみせてくれる。

 なんだわたしは大自然が苦手なわけではなかったのだ。わたしが苦手だったのは、自然は小さく矮小な生き物にとっては脅威でしかなく、死の嵐をなんとかかいくぐって生きていくことが自然生物の宿命、みたいなアプローチで語る、あくまで人間側に立った感傷的な演出だったのだ。

 

 特に興味深かったのは、クジラの死骸に集まる生き物たちの様子だ。

 臭いを嗅ぎつけたサメや大型魚類が肉や脂肪を食いちぎる。脂肪を食べ尽くされた死骸は浮力を失い海底へ落ちていく。だがそこでも様々な生物が待ち構えている。栄養の少ない海底において巨大な死骸は最大の僥倖といえる。そこでもまずは大型の生物が恩恵にあずかり、その食い散らかした肉片を小魚やカニがきれいに片づける。

 そうして数ヶ月もすればすべてがきれいさっぱり食べ尽くされて骨になる。だが骨すらも食べる小さな小さな生物がいる。結果的にはすべてが分解されて、リンや炭素になるらしい。

 

 後で知ったのだけれどそういう営みを“鯨骨生物群集”といい、海底の生態系の一端はクジラの死骸で成されているらしい。リンや炭素(と、たぶんいっていた)という元素レベルの話はまるでわからないけれど、朽ちた巨大な生き物がさらに小さきものの苗床となる自然界の営みには、恐ろしいというよりもむしろ感動をおぼえる。

 

 人間以外の生き物はたぶんこうした持ちつ持たれつのパーフェクトなサイクルで助け合っている。そうしてキレイさっぱり分解されて海になり砂になり大気になり、つまりは自然と一体化する。

  たぶん命の行く先はみんな同じだ。なのに人間だけは少し違うように感じる。人間だけは人間以外とは助け合わない。喰い散らかすばかり毒を垂れ流すばかりだ。明らかに命のサイクルから外れてしまっているようにおもえる。そもそもが、守るとか保護するだとか管理するだとか、自然に対しておこがましいことなのではないのかと自問自答。

 

 ずいぶん前になにかの映像で外国の仏教徒かなにかの女のひとが、「わたしは魚を食べない」といっていたのだけれど、その理由が、命は平等なので牛や豚などの大きな生き物は食べたとしてもみんなで分け合えるし、ひとりで食べたとしても何日もかかる。そう考えると魚は小さいし日持ちもしないので、幾つもの命を短時間で奪ってしまう。食べるのはしかたないとしても、奪うことは最小限にしたい。とのこと。

 

 この考えはとても合理的だとおもった。わたしはビーガンみたいな考え方を批判するつもりはないが、命を食べるという行為をまるっと否定することが、なんだか全ての生き物の営みすらも否定しているようで、なんとなくうっすら違和感を感じていて、その反面、無駄に命を奪うことは極力避けたいなとはおもってもいたので、その女の人の、“できる限りのことはする”という考え方にはとても共感できた。

 

 ところが共感できることと実際に出来ることとのかなりの隔たりを、窮屈に感じてしまうことも否定できない。

 なぜならわたしは魚料理が非常にすきで、なんなら魚卵もすきでシラスなんて大好物だったからだ。

  以来、わたしは魚卵はシラスを大量虐殺をする気持ちで厳かに食し、僅かにへばりついて残ってしまった皿や茶碗の食べ残しを尻目に、祈るような気持ちで皿洗いに殉じる生活を続けている。

 

 そんな巡業の苦悩を和らげてくれたのは他でもないクジラだった。ある日、皿洗いをしている時に突然に閃いたのだった。そうだクジラは小魚やプランクトンを何千何万匹といっぺんにひと呑みで食べてしまうではないか、と。

 わたしは大きな口を開けて垂直に浮上し、小魚の群れを丸呑みして、勢いよく海面にしぶきを上げる様を想像する。あるいはゆっくりと巨大な渦のように海水もまるごと吸い込み、真っ直ぐ進む青黒い塊を。

 魂は平等にひとつとはいえ、あの女のひともクジラには文句はいえまい。クジラが大量虐殺者として罪深いのなら、誰がどうしてあのばかでかい存在を創りたもうたと。

 

 かくしてわたしは向こう数年間、以前ほどの背徳を感じることなくシラスを食せる身になったのだったのだが、そんな心の平安も今回の「ブループラネット」をみたことによって、ふたたび明滅しはじめたのだった。

 あの巨体が朽ちる時に与える役割。あらゆる生物たちへの恩恵や栄養や営み。とてもじゃないがわたしとは比べものにならないほどに、自然へと還元しているぞなもしとな。

 

 映画「もののけ姫」で乙事主がモロに向かって、森が減って一族はみんな小さくばかになっていく、みたいなことをいっていたけれど。クジラをみているとその意味がわかるような気がする。クジラの巨体は自然そのものだ。自然も大きければ後に還元するものもまた大きい。

 やはり人間は自然の摂理から大きくズレているのではないか。われわれの生きているだけの業というものは、どこでどう還元できよう。なんてことをふたたび自問自答。

 

 だが思考はめまぐるしく移ろいくるくる変わる。わたしは脳内の書庫を物色する。一冊の本を手に取る。「生物と無生物のあいだ」という書籍だ。そこには生き物はすべてが調和の取れた存在であることが示されていた。その本のことを考えると、なんとなく救われた気持ちにもなる。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 

 

 科学的なことはまるで理解できないけれど、この福岡先生の文章はなんていうかとても文学的で読みやすく、世界の営みのようなものの輪郭がなんとなく理解できた(ようなきがした)
 

 生き物の代謝する細胞はなにかしらの栄養などに役立たれていて、朽ちたものからは必ず新しい何かが生成される。生き物はすべからく元素単位に分解されて果てしないサイクルを経て雲や海となる。

 空にたゆたう雲も千切れたり文字通り雲散霧消したりしているようにみえるが、実は同じ雲が地球全体を回っていて、去年の今頃には形は違うが“同じ”雲が浮かんでいたりする。

 同じように海や川や石ころも、打ち寄せたりすり減ったり干上がったりして、無くなったりしているようにみえるがそうでもない。

 そうしてさらに大局的にみると、地球全体がそういう循環をしていて、星全体の質量というものはほとんど変わらない。らしい。

 

 つまりは生きとし生けるものは、無生物の一部であり、無生物は生物の礎だという話。だがやはり、だとしても、自然の摂理から外れて独自のルールや理念を美徳としている人間は、死に方すらもずいぶん間違った方法をチョイスしているのではないだろうか。

  火葬が常識のこの国は、なんというか他の生物にあまり優しくはないのではないか。たとえ最終的に元素になる結末は変わらないのだとしても、燃やして灰にしてしまうというのは生物のサイクルとしてはいささか一足飛びなように感じる。

  そういう面では土葬のほうがほかの生き物のためになるし、もっといえば鳥葬や風葬のような土着的な習慣のほうがやはりよっぽどこの星と共生できているようにおもえる。

 

 ともすれば荒野かどこかで行き倒れることこそが死に方としては正しいのかもしれないとさえおもえてくる。だからひとは旅をするという考え方はどうだ。遺伝子が行き倒れを推奨しているとしたらずいぶんロマンのあることのようにもおもえる。

 

 生命の循環とか役割とか、考えだしたらキリがない。たぶん生命の神秘に答えはない。自然はあるがままにそこにあるだけで、命はきっと全うするまで生きるのみだ。

 だが答えがなくとも案ずることなかれ。自然は決して問いかけたりはしないものだ。問いがないのだから、答えなんてあるはずもないのだ。

 もし、わたしが道すがら、荒野で行き倒れることがあるのなら、うつ伏せの姿勢で果てていることを願う。少なくともそれは、前のめりに倒れた証明にはなるのだから。

 今日も考えるに留まろう。