ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

寿命はすでに終わっているらしいので、もっと感謝をしなくては。

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 わたしはもうおじさんなので、昨今カンカンガクガク議論されているハラスメント問題には敏感にならなくてはいけない。少なくとも、やれやれまったく生きにくい世の中になったものだ、・・なんて、思考停止でぼやいてばかりではいられず、その生きにくい世の中にもちゃんと順応しなくてはならないとはおもっている。

 もっとも、権力とか権威とはほど遠いわたしにとっては、パワハラのほうは気をつけようにも自己体験が少なすぎるが。

 

 とはいえ、気をつけなければいけないことは他にも山積みにある。おじさんというジャンルには特に。

 社会的な事柄に目を向けるのは社会人としての最低限の義務だとはおもうけれども、けっきょくは個人の内的な部分が正しく機能してさえいれば、社会というものは何の滞りもなく回るものだ。だからこそ、それぞれの生活において、それぞれがしっかり自己管理していくことが世の中には大切なのかもしれない。

 

 たとえば健康面。わたしはじぶんの健康状態にまったく関心がない。これは改めなくてはいけないとおもう。わたしはあきらかに虚弱体質なうえ喘息持ちだ。そもそも交友関係の極めて少ないわたしにとっては、ハラスメントに気を揉んでいるよりも、むしろ重要視しなくてはならないのかもしれない。なにごとも命あっての物種だ。多少なりともナイーブにならくてはとおもう。

 

 大体にしろ、わたしは若い頃から自分の身体的なことにあまり関心がなかった。つねに好奇心を優先し、興味や関心の赴くまま、自分に正直でいさえすれば、いつ朽ち果てても構わないとおもっていた。前のめりでさえいればいつどこで死んでしまっても構わないとおもっていた。

 保健だの保証だのと、聞くだけでゲンナリするし、将来だとか備えだとか今後の予定だとかいうことを、考えるだけでも気持ちがストップしてしまう。

 いつでも終わりが来るその時まで、なんとか生きてさえいればいいやというぼんやりとした信念以外はなにも持たずに、実際、鞄も持たず雨の日でさえあまり傘も持たずに、いつも手ぶらで過ごすような気楽さが、わたしの唯一の持ち味だとおもっていた。


 いまでもそういうマインドは大して変わってはいないけれど、歳を重ねた分、それ相応に慎重になってはいるはずだ。おもえば二十歳すぎてもお金を払えずに保険証さえろくに持っていなかった時分を鑑みれば、何度か失敗はすれど最低限の蓄えと仕事と雨風しのげる部屋を持っていることじたい、自分では良くやっているほうだと褒めたくもなる。うん。程度は低いが良くやってるほうだ。

 

 それでも自身の身体を気遣っているとは、まだまだいえたものではない。大人になり自分勝手に朽ち果てることの迷惑さを知り、おじさんになり、自己管理すらままならないひとの見苦しさを知ったいま、せめてそのくらいの配慮もない人間がやれ世界情勢だやれハラスメントだコンプライアンスだとと憂慮するまえに、他にやることがあるだろうと。

 

 そうはおもえど、健康的な生活というのはとても漠然としていて、まるで実態が掴めない。テレビで繁く放送している健康法みたいな情報は、流行と危機管理の乱気流でまるめこんみよけいに混乱させ、お金をふんだくろうとするような魂胆がプンプンにおうし、数ある眉唾物の情報を総合すればかなりの矛盾を含むことが、シロウト目でもわかるときがある。なんでも、ガンでさえ治療せずに放置したほうがいいと主張するお医者さんもいるらしいじゃないか。

 

 結局は個人個人の特性に依るものなのだろう。健康は。切除不能なところに脳腫瘍ができた子どもが自然回復した話を聞いたことがある。その子は、なんでもスターウォーズの世界観で、悪い腫瘍をやっつけるイメージを思い描いたらしい。すると自然と腫瘍が小さくなり消えてしまったという。

 こういう話を訊くと、ガンを放置するという方法もあながち間違ってはいないのかともおもう。ともすればテレビのあらゆる健康療法なども無碍にはできないのかもしれない。スティーブ・ジョブズは亡くなってしまったけれど。

 

 イメージというのは健康にとって重要なような気はする。たとえば食事という行為。これをただ栄養を摂り込むとだけおもってしまったのなら、やはり味気ないものだ。

 若い男がひとりで暮らし、誰にもなにも指図されないとなると、好きなものだけを口にするものだ。食べたいものを考えるのさえ面倒におもい、より素早くより食べやすいものを選んでしまう。

 かつてそういう暮らしをしていたわたしは栄養失調になったことがある。カップ麺や駄菓子ばかりを食していたからだ。

 

 病気になるのは愚かだし、二度と繰り返したくはないが、そんな暮らしを通じて奇妙なことに、わたしの身体にはひとつの変化が生じた。

 それ以降、身体が欲している食べ物が急激に、ピンポイントで頭に浮かんでくるようになったのだ。

 ある夜は急激にシリアルのようなものが食べたくなり、コンビニに走り道すがら咀嚼しながら帰ったり、ボールいっぱいの豆腐をプリンのようにスプーンですくいながらノホホンとテレビを見ていたりした。生のレバーにかじりついている夢をみた翌日の昼食には、迷うことなくレバニラ定食を注文した。

 

 このちょっとした能力(?)の獲得はとても重宝した。化学調味料を散々食したせいか、そういうものを口に入れると舌がぴりぴりするようになった。それに、食に対する判断力はデートの際にも役もたったし、なによりもメニューを選ぶことにほとんど躊躇することもなくなった。

 いまではとてもバランスの良い食事を取らせてもらっているので、身体が欲しているものをダイレクトに感じ取ることはほとんどないが、それでも必要のない食べ物はいまでもわかる。なんとなくだが。

 

 こういうことって、けっこう重要なのではないだろうか。たとえばシュールストレミングという世界一臭いという有名な缶詰があるし、もっといえば、イヌイットキビヤックという料理(?)。こいつはなんでもアザラシの腹を裂き、そこに頭を落として切り口を縛った海鳥をぎゅうぎゅうに詰めて地中に埋め、数ヶ月放置した後に取り出し、海鳥の発酵してどろどろになった血や内臓やら脂肪やらの中身を切り口からごくごく飲むらしい。

 そんな正気とはおもえないほどの調理法を考えたこともそもそも驚愕だが、明らかに口に入れるようなものでないような食べ物も、その地域のひとびとにはごく自然に欲することがあるのだろう。

 

 わたしのかのじょはエステティシャンをしているので、肥満に対する目線が非常にキビシイ。わたしは幸運にも太るような体質ではないようなので、食生活を制限して窮屈にかんじることはないのだけれど、どうなのだろう。そういえば肉料理と冠するメニューが出てきたとしても、異常なほどに肉が少ない。出たとしても大概が野菜に巻かれているし、そもそも根菜は毎日のように出る。これはやはりかのじょがコントロールしてくれているのだろうか。

 

 それでもやはり油断してビールばかり呑んでいれば、多少はお腹がぽこりと膨れてしまう。おじさんなので。それに慢性的に運動不足だし。健康のためにヨガでもやりたいところだが、病的なほどの出不精と内弁慶がたたって、そういった健康的な習い事なぞはとてもじゃないがひとりで行けやしない。とてもじゃないが恥ずかしくて。

 

 それと、健康的でバランスの取れた食事を毎日食べていると、不思議なことに、ジャンクフードが猛烈に食べたくなることが時々ある。あの舌先がぴりぴりして口腔によろしくないねっとりとした脂が絡みつくような、どぎついジャンクフードが食べたくなる。どういうことなのだろう。栄養失調のときとは真逆の症状。たまには毒も皿まで喰らえということなのだろうか。

 

 とはいえ、いままでわたしが重い病気もなく、過ごしていられるのは、ひとえに、かのじょのおかげなのかもしれない。

 感謝しなくては。

 こういう話がある。たとえば、なにかの調査でタバコを吸うひとは吸わないひとよりも三年くらい平均寿命が縮まるとのこと。あるいは離婚すると男性は10年寿命が縮まるとのこと。あるいは中高6年間で運動部に所属していたひとと、していないひとをくらべると、基礎体力が10歳は違い、やはり何年だか何十年だかは平均寿命が違うらしい。

 

 一時期、そういう統計みたいな話題で、自分の心当たりとしているものを数えていたら、わたしは三年前にすでに死んでいた事実が判明した。

 つまり、いまわたしが生きていられるのは、徹底したかのじょの管理下のもとにコントロールされているからなのかもしれない。

 いやはや感謝しなくては。

 

 明日からはゴールデンウィーク。ひさしぶりにバイクで遠出する予定だ。体力が心配だ。それに渡米して十年ほど逢っていない友人が帰ってくる。日本では焼肉に行きたいらしい。それと、遅い就職を果たした後輩に飯を奢る予定もある。何が良いかと訊ねると彼は「肉ならばなんでもいいです」といっていた。うーん。“食ハラ”ってあるのだろうか。

 

 食べ過ぎには注意しなくては。せめてビールよりもハイボールを頼もう。タバコはやめられそうもないが、せめてなにかしらの運動を検討しよう。

 

 なにせわたしの寿命はすでに終わっているのだから。

 これから生きて行くには、もっと感謝をしなくては。

 

 なにかと暴飲暴食の多くなる連休かとおもいます。

 あまり不摂生はなさらずに、楽しく過ごしてください。