ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

文章についての悩み/ジレンマ(酔拳)

  文章についての迷いやジレンマを、酒に酔った精度で書く。すごい文章が打ちたかったのでおもうままタイプする。手直しするかもしれないけれど、しないかもしれない(結局したケド)

 

文字の特殊記号には名前がある。

「 」これは【カギ括弧】

( )これは【パーレン】

… これは【三点リーダー】

 といったりする。たぶん一般的には。

 ほかには、

“” 【ダブルコーテーション】

ー 【長音】

— 【ダーシ】

この差がとてもわかりにくい。

/ 【スラッシュ】

 \ 【バックスラッシュ】

で、さっきから多用しているのが

【】←これ【すみ付きパーレン】

・ ←【中黒】

きりがないのでもう止す  。←【句点】

  といったりする。たぶん一般的にも。

 

 ウェブ界隈のひとには馴染み深い記号もいくつかあるかとおもう。仕事で組み版をしているわたしも、こういった記号を細かく気にしなくてはならない。

 校正のかたからいただく赤字は様々で、必ずしも記号の名前を書いてくれるかたばかりでもない。わかりにくい記号を手書きの名称無しで指示されると、そのつど確認が必要となる場合もある。たとえば読点(、)とカンマ(,)と中黒(・)だとか。

 まあ、それが手間だとはたいして思わない。そもそもひとと直接コミュニケーションを取る機会など、わたしにはそれくらいしかないので、逆に重宝しなくてはいけないのかもしれない。

 それに、ものすごく沢山ある文字記号に細かく気を配るのも、実はけっこう楽しかったりもする。仕事としては。

 

 ところがわたしは自分でテキストを打つときには、出来るだけプレーンなままで表現したいと思っていて、こういった記号を極力使いたくない。

 もっといえば、改行もあまりしたくはない。改行の後に一行余白をつくることもあまり好まない。好みでいえば文字がぎっちり詰められている文章がすきだ。なんていうか、気合いを入れて読みたくなる。

 だがそうすると、こういうウェブでの横書き文章ではあまりにも読み難い気がするので、そういうことはしない。

 

 なぜそういった表現を好まないのかというと、おもえば小学生のころに出された作文の課題がしょっちゅう原稿用紙に納まり切れなかったことがあったからかもしれず、いまでも「、」や「。」でひとマス使うのがモッタイナイと無意識に感じているのかもしれない。

 

 とはいえもっと簡単な理由を述べれば、そもそもわたしはこういった文字記号や段落等々の、正しい使い方をあまり理解していないし、正しい文章の書き方を知らないというのが、最も正直なところだ。

  だから、こうして段落を設けているのも、一行分余白を空けるのも、なんとなく、このあたりか?ここか?ここもか?これか?ここなんだろ?うへへと感覚だけで設けているし、句点や読点の位置だって、いつも不安に感じている。

 

 まあそれはともかく、句点、読点の位置は、文脈においての呼吸なのだろうから、たぶん正解はないのだろう。作家の野坂さんや保坂さんや金井さんあたりは句点が極めて少ないけれど、文体はまるでトツトツと自分のペースで語っているようで、とても心地よく響くし、人となりと合致しているようにも感じる。

 だからといって単純にマネをすれば済むことでもなく、ひとにはそれぞれそのひととなりを現す文脈があるものだろうし、考えれば考えるほど、わたしは自分が納得する文体をつくづく獲得できていないなぁと、いつもおもう。

 

 カギ括弧やパーレンもすごく邪魔に感じてしまうことがある。たとえば会話文でも、

 「ごめんください」

 なんて書くのに抵抗がある、「 ←この【カギ括弧】がなんだか黙読の、なんていうか“流れ”みたいなものを中断させてしまう感じがするし、おまけに改行もされる。これがとても気になる。気になると気になって仕方がなくなる。

 むかしの文学作品などでよくみる。───ごめんください。みたいな、─ ←この表記、これは調べてみると【罫線素片】という名称らしいのだけれど、この表現のほうが、なんとなくだがスムーズに読める気がする。いまの文章ではあまり見かけないようだが。

 

 逆に、使いたい表現も二つほどあって、それはルビと圏点なのだけれど、このふたつは、文脈にそこまで邪魔にはならない気がする。

 ところがこの表現はブログでは使えないらしい。webでは使えないのかな?いや、きっとできるのだろうな。わたしができないだけで。

 

 それから、そもそもこの「わたし」という人称。これも厄介。

 わたしはわたしが、この、「わたし」というナラティブで、果たして正解なのだろうかと、常々疑問におもっている。とはいえ「ぼく」というにはいささか老けてしまったし、なんだかセンチメンタルな響きもあるし、だとしても、「俺」なんていうのは、少々乱暴な気がするうえ、いささかハードボイルドよりの文体に盛ってしまいそうで恐ろしい。『俺は今日も古い仲間達と中華街でのんだくれた。』なんていうと、本当のことだとしても少し可笑しい。

 

  口語体にも憧れている。くだけた口語体で文章を書けるひとは、すごく頭の切れるひとだとおもうし、余裕のあるひとだともおもう。わたしは根っこの部分がばかなので、どうしても(出来不出来に関わらず)なるべく正しい言葉をつかわなければという焦燥感につねに追い立てられているのでそういう余裕もない。

 

 そういうわけで、わたしはいつもこんな調子なものだから、改行ひとつとっても、段落を空けるにしても、毎度毎度、すごく苦労しているのだ。いちいち考え込んでしまうのだ。ヘタをすれば文章をタイプする時間よりも手間がかかっているかもしれない。

 ほかのひとの書いた文章をみていると、巧みに改行したり、余白を取ったりして、非常に読みやすくしたり、文字を強調したりして、実に言いたいことを効果的に伝えて、ネットの海を実にスムーズに泳いでいるなぁとおもう。

 

 それは確かに、

 

 こうして意図的に改行して余白を計り、

 

 時にこうして、

 

 文字を大きくしたり、

 

 太くしたり、

 

 なんなら色を変えたり、

 

 すれば、言いたいことを時間や手間を省いて、ダイレクトに伝えることができる手助けにはなると思う。

 

 これは広告の世界では「ジャンプ率」といったりもするのだけれど、読ませたい箇所で使えばとても効果的な表現になる。タイポグラフィの仕事に携わるわたしが、使いこなせないと表明している時点で恥ずかしいし、情けないことだとおもう。

 

 けれど、あえて言い分けをさせてもらえば、文章というのは、書き手の伝えたいことがたとえひとつだけだとしても、読み手が受け取る印象は、きっとそれぞれ多種多様に違い、どの文章がどこかで誰かの感受性にどう訴えるのかは、書き手が無碍に誘導するものではないのではないか。それこそが“読”むという行為の醍醐味ではないか。とも感じているし、強がってもみる。

 

 それに、わたしがわたしの言いたいことを、伝えたいがために、ジャンプ率や文字フチをいくらでも多用してもいいという自分ルールを自ら付加させてしまうと、きっと、

 

こんなふうに、

 

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  節操もない表現を多用してしまうことさもあらず、

 

 なんなら、読んで欲しいがために、貪欲にも、

 

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 なんかを描いてみたりして、

 

 文脈とはなんの関係もなく、あざとく目立つ色でとにかくアイキャッチになるようなものをペタペタ貼り付けたりするのも目に見えているし、

 

 あるいは調子に乗って、こういう感じの、

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 ボツになった今だ自分でもわけのわからないキャラクターを、意味もなく登場させたりしかねない。

 でなければ、絶望的に写真のセンスのないわたしが、腐るほどある素材フォルダのなかから、なんの思い入れもない時節だけを現した画像を引っ張りだしかねないし、春にはスミレ夏にはヒマワリ秋にはカエデ冬にはシラカバみたいなものを安直に貼り付けてしまいかねない。

 

 そんなふうにして無理矢理空白を埋めるようなことをしてしまえば、わたしが当初みずから課せた、ぼやけた頭のリハビリとしての日記にはならないし、ただの作業のような、義務的なブログになりかねないし、第一自分がつまらない。

 

 となるともはや、なるべくシンプルな文脈を目指し、句点だと読点だと悩んでいる自分はもはや何処吹く風とばかりに、どんどん自分の理想とは違う方向に流されていくだろう。わたしの意志なんてそんなものだし、げしし。

 

 だからこそ、わたしはじぶんの文体を見失わないよう、なるべく堅い文章を心がけ、「わたし」というナラティブで語り、つい回りくどく長ったらしい文章を書いてしまうのだけれど、結局イメージする文脈の呼吸とは、どんどんかけ離れた感じになってしまう。

 

 そういうわけで、わたしが自分で過去の文章を読むとたまに、え、誰コレ?となり、なにをまどろっこしい文章をたらたら綴っているんだコイツ?となり、というかわたしはそもそもこんなことを言いたかったんだっけ?となって、いつも恥ずかしいおもいをする。まさにいまがそうだ。みんなそういうことってあるのだろか。わたしは絵にしても文章にしても、過去のものをみるのが恥ずかしい。

 

 要するにわたしは文章を書くということになんとなく行き詰まっている。いや、行き詰まっているというか迷っている。迷っているというか劣等感に苛まれている。そして酔っている。だいたい酔っているからいけないのだ。これを書いたのも街の桜をみながら昼酒を吞みつづけたら夜酒になった土曜日の深夜だし、結局手直ししても推敲しても恥ずかしいおもいは拭えないのだけれど、どうもタイプする指が止まらないのでしかたがないし、こんな愚痴みたいなこといっても急にヴァージニアウルフのような個性的な文体が突如獲得できるわけでもないので、どうしようというわけでもないのだけれども。

 

 ようするに、上記した理由からわたしはなにもわからず、不確かなまま文章をこうして打っていて、そもそも大概が呑んでいる。わからないのなら、止めてしまえとばかりに、出来るだけプレーンなテキストを心がけようと思っているわけだが、わからないからもういいやという気持ちでこうして乱暴にリターンも押さずにつらつら打っていると、心地よくもあるがただ文字配列は四角くて左右揃いで左頭だけ字下げしていて、ギュッとしているのが理想なのに、どうやら文字組は左揃えになってはいるが均等配置にはならないようで、右詰めがきっちり揃わないのが気にくわない。それでも禁則処理は“ある程度”されているようなのでまだ良しとしているが、”ある程度”に圏点のゴマを打ちたいところだがそれもかなわないし、もし禁則処理されずに句点や読点がしょっちゅう文字の左頭に来てしまう使用であったら、キモチワルイのできっとこうして日記を書いてネットの世界にリリースすることなんて絶対しない。たぶんwebを勉強すればいろいろ解消できるのだろうけれど、だったら勉強しよう、なんてことも露ほども思わない。なぜなら、ものぐさだから。ナマケモノだから。だったらせめて酒を呑まずに真剣にじぶんの文章に向き合おうではないか、なんてこともおもわない。なぜならのんべえだから。だからこうして結局もろくに推敲もせずにこのまま勢いで「公開する」ボタンを押すんだろなともいままさに感じている。大体このゴシック体もやめたい、行間はいいとしても字間がちょっと狭い、狭いなら狭いで行末約物半角字間空きを無しにして、ギュウギュウにしたい、それをいうならそもそも、

 

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 なんとなくラムちゃんでごまかしておきます。

・・だっちゃ。