ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

もっとちょうだいよ。

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(おしゃれげな色使いのうえになんだか意味深なものを意味深な位置で配置してみると、なんとなくそれなりにみえたり、みえなかったり・・・)

 

 土曜の昼間、ようやく暖かくなり外へ出歩く活力がでたので、国立新美術館に出かけた。お互いに体調がそこまでよくなかったので、ひさしぶりに昼酒を呑まずにシラフのまま、ゲイジュツというもの触れることになる。卒業シーズンということで、各フロアでは美大生の卒業制作が展示していた。入場無料だったので、タダにめがないわたしたちは、まずはそこから見学する運びとなった。

 

 若いひとの作品を観るのはとても刺激になった。学生とはいえ美大で学んでいるひとたちなので、なかには驚くほど完成度の高い作品も散見できた。そのなかでどれくらいのひとたちが制作活動を続けていけるのかはわかりようがないが、できればみんなが続けていけたら、世の中はすごく潤いのあるものになるのかもしれないとおもった。いつだってひとの世は、必要のないことにこそ心の豊かさは宿るものだ。

 

 ただ、こういう展示にいくと年々感じるのだけれど、マンガやアニメっぽい絵を描いているひとがずいぶん多いのだなと感じた。どうやら美術大学にまでそういう潮流は流れているようだ。わたしは少しもそういうゲイジュツみたいなことを学んでいないのでわからないけれど、いまのマンガのようなイラストを描くのに大学に通ってまで学ぶ必要があるのだろうか、と、シロウトながらに単純におもった。いや、あるのだろうな、きっと。なんにおいても学ぶことに無駄になることはあるまい。

 

 数年前に久しぶりにビッグサイトで開催されているデザインフェスタにいってきたときも、ひたすらにそういう感想ばかりだったことを思い出す。そこではそういったアニメのコスプレをしているひともずいぶんいて、いまのカルチャーの主流がそういう風潮なのだろうし、お金の流れもそれに則しているようだから、仕方ないとはいえど、アートの多様性というものがどこかしらごっそりとこそげ落ちてしまっているのではないかと、少しだけ心配になったものだ。あのイベントもそのうちコミケと変わりなくなってしまうのかもしれない。まあ今回の展示はそこまでではなかったけれど。

 

 その反面で、学生さんたちの服装がずいぶん地味なことにも気がついた。その昔よくみた「the美大生」みたいな少々奇抜な格好をしているひとがほとんどみられなかった。みなさん街で見かけるような普通の服装をしていた(メイド服みたいな感じの女の子はいたが)。

 やはり作品もなんとなく控えめというべきなのか、わかりやすいものが多く、まったく理解できない奇抜で観念的だがひたすらな迫力だけは感じとれるような、若さ溢れるものが少ない気がした。

 

 「ヨガってる」。という言葉を使う。たまに。どうやらこれはわたしの造語らしいのだけれど、インドのヨーガでもセクシャルな感じの「よがる」ではなくて、“独りよがり”という意味の「ヨガる」だ。わたしはこの言葉を、良い意味としても悪い意味としても使用している。

 良い意味でヨガってるひとが少なくなった気がする。うまく伝えられないが、なんとなく、どこをどう見ても理解不能なものをつくっているひとが減ったようにも感じる。そうおもうと、学生さんたちの地味な服装もなんらかの関連性があるような気もしてくる。

 

 こんなことばかりいっていると、ゲイジュツというものをシロウトが偉そうに批判しているだけのように聞こえてしまいそうだが、そういうわけでは決してない。

 

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 むしろわからないなりに楽しんでいるし、憧れてもいるので、これくらい発言する権利くらいは許してもらいたいという気もする。つまりは憧れているなりに思うことは、もっとヨガってほしい、ということ。そこにつきるのだ。もっとわけのわからないものや、理解に苦しむものをわたしにみせてほしいというおもいもあるのだ。

 もっとちょうだいよそのパッション。というわけだ。

 

 その後、今度はちゃんとお金を払って、当初の目当てだった現代アート(イベント名は忘れたが)のひとたちの展示を見学した。

 はじめに学生さんたちの展示をさんざん見学し、現代アートというものを予習できて、脳みそが柔らかくなっていたからなのかもしれないけれど、とても楽しめたし、勉強にもなった。

 というよりも、プロのかたの展示は、学生さんたちは悪いが、はっきりいって圧倒的だった。

 

 それというのも、やはり学生さんたちの作品は良し悪しがはっきり分かれていて、少ないとはいえ悪い意味で(主観)ヨガっている作品も散見してあり、そういう雑多というか、雑味のあるバリエーションをみていると、無意識にもなにかしら当てられるようで、すこし胃もたれがするものだ。

 だからなのか、その後に、本職のプロのかたの作品をみてみると、そういう雑味で荒れた胃腸のなかのものを洗浄してもらえた気持ちにもなるのだった。

 

 それに、言い方がめざといかも知れないが、お金になるものとならないものの境目がはっきりとわかった(ようなきもちにもなった)

 たぶん巧く伝えられやしないだろうが、そこはあえて発言する勇気で押し切るが、なんていうかアマチュアの作品というものは、なんとなく分かるものはそれぞれがやはりどこかしらなにかしらに似通っているし、わかりにくものは「うん、なんとなくわかる、けど・・」と、どうしても「けど・・」みたいな余計な感想が付いてしまう。

 ところがプロの作品を観ると、ひたすらに「すごい!」という感想か、もしくは、たとえわからないものだとしても、「うん。わからない!」としっかりと大きな声で意思表示できるのだ。

 

 つまりアマチュアのかたの作品は、観る側になんらかの感想を切実に求めているような気がしてしまい、そういう作品を目の当たりにすると、観る側もわからないなりになんとなく感想をひねり出さなくてはいけない気がしてしまう。

 そうなると、自分的にはあまり好みでなくとも、そういう気持ちでダイレクトに作品に向き合うことがなぜだか憚れるというか、どことなく配慮の気持ちが出てしまい、「けど・・」みたいなもやもやした言葉に現れてしまうのかもしれない。

 

 ところがプロのかたがたの作品にはそういう観る側の負荷みたいなものが極めて少ない。観る側はあくまで受動的なスタンスをとることができ、楽な姿勢で自分なりの着眼点のみで楽しめることができる。

  こういうところが地味だけれど大事なのじゃないだろうかと感じた。もちろん圧倒的な技術の差というものはあるけれど、もっとわかりにくい、ヨガっている(良い意味)部分もしっかりとなんらかの意図で表現できていて、そのわりに胃もたれしない。プロヨガりともいうべきか。それは必ずしもカロリーが低いというわけではなく、ヨガり具合の絶妙な配分によるものなのだろう。

 

 今回アマチュアの作品を巡ってみてから、プロの作品を観てみると、どうして観る側が気遣わなければならなかったのだろうというわだかまりが解消されたような気持ちになった。

 たぶんモノづくりのプロフェッショナルというものは全てがそうなのだとおもうけれど、客(オーディエンス)にそのような余計な負荷は一切かけさせないものなのだろう。きっと一流の料理人も「美味しい!」と強引に言わせしめるために料理をしているわけでもあるまい。美味しいは当たり前。口に合うか合わないかは人それぞれなのだから。

 

 プロフェッショナルとアマチュアの差を、お金を稼ぐ、ないし、それ一本で生活を支えているという境目で判断するのは、あまりにも短絡的なのですきではないのだけれど、もし違う部分で決定的にうがつものがあるとするならば、もしかしたら、わたしが上記でいうようなことも、当たらずとも遠からずなのではないだろうか。 

 

 もう少しだけ語りたいところだが、シロウトがゲイジュツのことを偉そうに語っておきながら、「おもう」だとか「感じる」だとか「だろう」だとか、末尾をボンヤリしたもので結びまくりで、いかにもわたしが卑怯者だということがバレそうなので、これ以上まもう止めにしようとおもう。

 

 それに、やはりシラフのままでいろいろ刺激になるものをみると、単純な感動にまで自分なりに納得いくような感想を付加してしまいがちになってしまうからいけない。もしかしたら、少しばかり酩酊したままのほうが素直な感涙がブーストされるので、頭ででゆらゆら余計なことを考えずに済むのかもしれない。

 

 いづれにしろ、“表現”から逃げずに続けているひとは、すべからく尊敬できるし、それを見学させてもらえることはものすごく勉強になる。

 それになによりもなにかしらを表現することは、きっと楽しいことなので、くれぐれもみなさん、何でもいいので表現を止めないでほしいとはおもいます。

 恐惶謹言。ではまた。