ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

嘘みたいで、嘘じゃない風景。

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 年末年始にかけてどこかへ出かけた記憶はない。そればかりか誰かと一緒に過ごすことさえも、ずいぶん久しぶりのことだった。

 

 古事記によると、天と地が開けたときにまず三名のひとり神が産まれ、国が形をなさずに水にうかぶ油のようなものだったころに、ぽこぽこと数名現れ、それから最後にイザナミイザナギの、対の神が産まれたそうだ。なんのこっちゃわからない。

 

 新幹線に乗るのもじつに久しぶりのことだった。それからやがて車窓からみえる朝明けの美しさも。右手には富士の山もくっきりとみえた。けれどわたしは左手にみえるその朝日に染まる町並みに釘付けだった。田園風景、鉄塔、電線、まばらな民家。すべてが真っ黒になり、樹木の葉のいちまい一枚がくっきりとみえるほどに、その稜線を現していた。

 

 イザナミイザナギの対の神はいかにも原初的な儀式めいた方法でまぐわい、次々に国産みをはじめる。すべてが決められたことのように、なんの疑いもなく。なんのこっちゃだがそれがきっと当たり前。

 もちろんその時のわたしは、そんなことは露ほども思わず、ただシンプルなその単純さ、その広い世界の稜線に感動する。高速で移動する電気仕掛けの細長い箱に乗り込み、コンクリート製の狭い都会を抜けだしたことに。

 

 原初の、対の神がぽこぽことなんの疑いもなく産んだ、はじまりの島。わたしはしばらくの間、そこに滞在することになる。その町で暮らす家族のもと、いや一族というべきひとたちのもとというべきか。

 

 島へ着き、車で数分のところへ“連れてこられ”、挨拶も早々に餅つきの準備がはじまる。 一応お互い紹介はされど、関係性は曖昧のまま、さらにぞくぞくと人が集まる。テーブルには山盛りの太巻きと蜜柑。まるでそれらは太古の昔からいつでも置かれているかのようにそこにある。茶がぬるくなれば誰かしらが注いでくれる。

 

 三人の老兄妹が寄り合って話す会話は、方言が強くとても聞き取り難い。最年長の祖母の腰はくの字に曲がり、つねに拝むように言葉を紡ぐ。百年の孤独でもないがほんとうに戸棚に納まりそうなほどに小さく、それでいてあと千年は生きそうでもある。

 つけっぱなしなっているテレビには誰ひとり目もくれない。わたしだけ眺めているのもボンクラ加減が増すのでそれも出来ず、しかたがないので、ときどき太巻きをほおばり、茶をすする。少しだけ居心地がわるい。

 女性たちは忙しなく動き回り、ニコニコと笑っている。男性の姿はみえず、手持ち無沙汰のわたしは、否が応でも子どもらの相手をすることになる。

 

 わたしはなんとなく仏壇を眺め、いわれるがままに線香をあげる。神仏一体。八百万の神々と弘法大師。居間の天井には不思議な飾りが垂れ下がっている。みんなが集まる場所の真上の天井。年寄りに訊けば、“かみさん”に小分けにした十二の米を備えるためのものらしい。なぜ?と問えばそれ以上は「知らん」とひとこと。なんのこっちゃわからんが、まあたしかにそれでいい。

 

 彼女の実家に戻る。女性たちはそこでも正月に向けた準備に忙しい。やはりテレビは流れているが誰ひとりとして見ようともしない。タバコを吸いに外に出ると、寒空のなか家主がひとり忙しなく働いている。軽トラックに積まれているのは、たいそうな正月飾り。

 いっけんして木訥で無口なようにみえる家主だが、ひとたび口を開けば話は止まらない。しめ縄、ウラジロ、榊、ダイダイ。ひとつひとつ丁寧におしえてくれる。なんやしらんが、そうするのが習わし。会話が途切れれば、家主はたいがいそうつけ加える。

 

 家には年老いた猫がいる。白と黒のブチ猫。家主の腰掛ける椅子のとなり、ヒーターのそばのいちばんの特等席で眠っていて、時々起き出しては誰の目もくれず足下を横切る。

  犬は八匹もいる。八匹!どれも雑種で。広い裏庭につながれている。彼らは家主にだけ従順で、ひとをあまり近づけない。番犬としての役割をしっかりはたしていて、おそらく彼らもそれを誇りに思っている。都会の愛玩動物とは違い、盆暮れ正月関係なく寒空の薄汚れた犬小屋で過ごす。それでも、それがいかに正当に扱われているかが遠巻きにもわかる。なんというか、ケモノとしての正当な扱い。

 

 それから、大晦日の夜を紅白歌合戦とともに過ごし、年明けに、神棚にお供え物を捧げ手を合わせ、皆でおせちを囲み、あけましておめでとうという。これは、わたしにとっては生まれてはじめての経験。

 いや、そのほとんどがわたしにとっては、はじめての経験だった。あけましておめでとう。ほんとうにいうものなのだ。みんなそろって。わかってはいたけれど、その場に直面したのは新鮮な体験でもあり、なんだかぼんやりする体験でもあった。

 

 平凡。普通。この体験は通常なんて形容するのだろう。すべてが当たり前のように過ごし、当たり前のように皆で集まる。実家。帰省。退屈。すべての言葉がわたしには目新しく、それは驚愕の体験だった。

 そう、まさに驚愕。それがいちばんわたしにはしっくりくる。まず、大晦日には蕎麦をすすり年明けにはおせちをつまむという驚愕。すべてが当たり前という驚愕。それに子どもらの笑い声と泣き声。

 

 何もなく。するべきこともなにもない。廊下も戸棚も壁に立てかけられて絵はがきも、すべて古くさく。目を引く物はなにひとつだってない。

 タバコを吸いにベランダに出れば、真っ黒の夜だけがそこにあり、星と月だけが輝いていて、風の音が聞こえ、遠くでカラスがガアガア鳴いている。

 

 地元で育った男たちの疑いようのない単純さとやさしさは、見事に共存し、働きもの女たちの話題はどんなときもいかなる場面でも、子どもらを中心として流れる。

 廊下は恐ろしく寒く、まるで結界が張られたかのように居間だけが温かい。誰のものだかわからないパジャマを渡され、いっそのことズボンを腹まで引き上げて布団に入れば、掛け布団はやたらと重たく、温かい。

 

 まるで驚愕の風景。空は遠く。道はずっと遠くまで続いている。帰りがけになると今まで無関心だった猫がすり寄ってくることも、夕暮れ時に聞こえる『新世界より(遠き山に日は落ちて)』の鐘の音とともに、犬たちはいっせいに吠えだし、その遠吠えが実は、犬たちが歌っているということも、家主たちは当たり前のように知っている。

 

 本当に驚愕の風景。嘘みたいで嘘じゃない風景。退屈が突き抜けることを“安らぎ”と呼ぶことも、わたしはそのなかで知る。

 これをなんと形容すればいい。なんだっけな。

 個性は、ただそこにいるだけの人々のなか胡乱となる。嫌なことも面倒なこともすべて呑みこんで曖昧にしていく。母親はちぎれるほど腕を振り別れを惜しみ、父親はすでに野に出ている。

 それはまさに神話から続いているであろう風景。なんのこっちゃわからない。もはや古すぎて意味すら成さない、ただの優しさだけの行為。なんだたっけな。

 そうだった。忘れていた。

 それをみんなは、家族と呼ぶのだった。