ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

オウトウセヨ 2 0 1 7

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 今回こそは手短いきたいものだが、きっとそうはならないだろう。わたしのことだ。冗長でくどいのはもはや長所と受け止めよう。

 

 クリスマスに思い入れはない。ついでにいうと年末にも。たいした想い出もない。若い頃に仲間と馬鹿騒ぎしただとか、当時の彼女と過ごしただとか。そんなところ。だからたいしたことはいえないだろう。

 

 最近のクリスマスはどうやら下火のようだ。ひと昔まえのそれよりも。ブームが去ったといってもいいし、本来のあるべき姿に戻ったといってもいい。ハロウィンに押されて影が薄れてしまったようにも思える。これはバブル期に広告屋が“恋人たちのクリスマス”を全面に押し出したせいなのかもしれない。とはいえ、その責任を山下達郎さんの歌声とプレゼントを抱えた牧瀬里穂さんに押しつけるのは、筋違いというものだ。当たり前だが。とにかくいまはそれぞれがゆっくりと、楽しむひとは楽しんで祝っているようだ。

 

 または、この国の特性に見合わなかったとも考えられる。時節的に。

 わたしの年末のイメージは厳粛、厄払い、大掃除。

 いっぽうクリスマスは祝祭、ケーキ、プレゼント、コカ・コーラ(?)

 この国では、祝うのもお年玉も年が明けてから。まあコカ・コーラをクリスマスに飲むのも悪くはないが。とにかくあくまで年末は厳かに粛々と。それがニッポンのお正月。わたしも年末には決まって熱がでる。去年は免れたが。かれこれ10年連続で。それもこれもすべて厄払い、そういわれてしまえば、文句のひとつもいえやしない。

 

 それに年越し準備で忙しいこの師走。よその国の神さまに気を配っているひまも、それほどないのだろう。欧米ではクリスマスシーズンから祝祭がはじまり、そのまま流れるように年末からニューイヤー。実にスムーズに続く祝福。ベリーメリークリスマス  アンドアハッピーニューイヤー。常にトップダウン。それから静かに平和を願う。ウォー イズ オーバー。それで争いが終わるのならば大賛成だ。

 

  だがこの国では、なんとなく形骸的にクリスマスを祝い、それから厳粛な師走の空気に変わる。年末つましく蕎麦をすすり、静かに響く鐘の音とともに108つの厄を落とし、来たるべき新年に備える。やがて年が明け、親戚が集まり賑やかしい賀正となる。トップダウンからのボトムアップとみせかけてふたたびトップダウン。年末の空気にはクリスマスは明らかに浮いている。

 

 ずいぶん皮肉的な言い回しになってしまったが、それでもこのクリスマスシーズンにどうしてもこれをアップしようと考えたのは、この絵を誰かにみて欲しかったからに他ならない。

 どうしても年内中に、誰かしらに、いまのわたしを送信したかったからに他ならない。オウトウセヨ、オウトウセヨ。たとえアナログ短波に満たない微弱な電波だとしても。

 

  わたしは仕事で出版物の組み版やらデザインやら広告やらを作っている。いわゆるDTP。だが貧乏な会社なのでなんでも受ける。印刷物の発送からなんでも。依頼があればもちろんイラストも描く。
 いまもわたしは仕事で絵を描いている。「○○をしよう!」だとか「○○に入ろう!」だとか、そういうものを促す数ページの広告マンガだ。以前描いていたイラストレーターさんが売れっ子になり、単価が高くなってしまったのでうちの会社に流れてきた案件だ。カワイイキャラクター六人ほどが掛け合いながら、それぞれ売り文句をいうわけだ。

 クライアントの依頼条件は、なるべく安価で。ただそれだけ。キャラクターは任せる。なんでもいい。とにかくカワイイキャラクターをばそういう御達し。

 なんでもいいですか。そうですか。わかりました。オーケーリョーカイ大統領というわけだ、断る理由もない。ポンコツ会社にいる限り、わたしはそれに従うまでだ。

 

 けれど本当のことをいえば、わたしは絵を描くということがたいして好きではない。それほど意欲もない。だからわたしはほとんど描かない。仕事以外では。

 それでもなんとなく描けると、頼んでくれるひとはいる。仕事で求められるイラストの大半は“カワイイ”もの“当たり障りのない”もの、それを、なるべく早く安価に、だ。それならできないこともない。何年も続ければ馴れてくるものだ。今では、より素早く、よりわかりやすく。それがわたしがイラストを描く際のモットーだ。


 でも、正気か?奥の奥からそう聞こえる。
 過去のわたしから、混線した電波が時々入る。オウトウセヨと声がする。あの頃のわたしは、描きたくて描いていたわたしは、満たされない感情こそをそこに描き、暗く貧しい感受性に呼びかけていたはずだろと。

 暗闇に光る目玉を何度も描きなぐり、腹のぱっくりと開いた兎を描き、猛禽類の黄色い爪を、シュールな夢でみた歪んだ世界を、いやらしい裸を、濁った水面を、太陽を素手で掴む絵を、描いていたはずだろう。誰に見せるつもりもなく、何を望むこともなく、何度も何度も叩きつけるように。ニルヴァーナダイナソーjrをトム・ウェイツダニエル・ジョンストンを、イースタンユース三上寛を聴き、濁った目つきで街をさまよっていたはずだろう。心はいつも痩せていて尖っていて、それでいて輝いていたはずだろう。それがなんだって?“カワイイ”だって?正気か、ほんとうにそれを描くつもりか?このわたしが?自分自身を形成させた、その黒くていびつで恥ずかしくも美しいその残滓を、おくびにも出さずにか?馬鹿いうなと。

 

 仕事がもらえるというのはありがたいことだ。どんな仕事でも。わたしにできることは何でもしたい。なんなりと。

 けれど時々こうして若き自分が顔をだすこともある。大概は、そんものは火にくべて虫に食わせて野にさらしておくのだが、それでもすこし時間がたつと、ひょっこりと何食わぬ顔で現れる。そうして呟くのだ、「そんなのつまんねぇな」と。

 

 本当のことをいえば、わたしは年末が嫌いだった。大っ嫌いだった。メリークリスマス。あけましておめでとう。なにがおめでとうだ。そうおもっていた。誰もいない店も開いていない車も走っていない。夜になると家々に灯るオレンジの明かりだけがやたらに温かい。そんな正月が嫌いだった。

 なぜなら気持ちが途切れてしまうから。ぽっきりと折れてしまいそうだから。窓辺に立つわたしの、力強く踏みしめてきたこれまでの孤独な日々の、すべての気持ちが途切れてしまうような、そんな気がするからだった。

 

 けれど、今は違う。断言できる。そっくりそのまま言葉を返そう。過去の自分に、馬鹿言うなと。だってそうだろう、落ち着ける部屋があり、清潔なシーツがあり、温かい夕食も、夕げを共にしてくれるひともいる。充分ではないか。

 

 それは確かにこうして時々、過去のわたしは顔をだすかもしれない。けれど、出たいならならそれもいい。だからどうしたこんにちは。あえてこっちから信号で送ろうオウトウセヨ。しっかりと握手をしよう、笑顔で祝いの言葉も述べよう、お互いに。わたしはもう争わない。あれからもうずいぶん時間もたっただろう。

 

 そうして、ナマケモノはある日、日記を書いた。文章を書くのは、ことのほか楽しいものだった。頭の中がすっきりするし、世の中がクリアに感じた。それから絵も描いてみた。何の気なしに、自分のために、ほんのリハビリ感覚で。するとなんとなく可愛らしいイラストが描けたものだ。それは頭の中の友だちだ。

 そうこうしているうちに、ここを覗いてくれるひとが現れた。かまってくれるひとも現れた。褒めてくれるひともいた。なんだわたしの感受性は少しはズレてなんかいないじゃないか。それはいまでも信じられない。本当に信じられない!ひとに自分をみせることがこんなに愉快なことだったとは!
 

 この時期、きっとみんなそれぞれ様々な都合があり、忙しく、あるいはのんびりと年を越すのだろう。家族で過ごしたり。親戚で集まったり、恋人と過ごすのだろう。なかには孤独とともにあるひともいるかもしれない。絶望に身動きすら取れないひともいるかもしれない。

 

  なんにしても、どういう理由があっても、ここに来てくれたひとにみんなに送ろう、モニターに向かって、ただひたむきにこの電波を送信しよう。オウトウセヨオウトウセヨ。

 

 そうしてわたしは祝福を贈ります。ふたたび無神経に贈ります。

 これは本当にひさしぶりに誰かのために描いたイラストです。

 少し早いですが、今年のナマケモノの飛行訓練はたぶんこれでおしまいなので。
 

 みなさん、良いクリスマスを。それから良いお年を。

 ついでに、うぉーいずおーばー。