ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

不在による現存

  みなさんご存じの〜、という姿勢で当然のように説明を省くのはあまり好みではない。それはまるで、みんなが楽しくフォークダンスを踊っているときに体育館の隅でクスクスと笑い合っている少数派の連中がいて、その様子がなんだかみんなで楽しくしている様を小馬鹿にしているようにみえ、みんなの気持ちを興ざめさせてしまうのだけれど、隅にいる連中は少しもそんな気はなく、むしろ楽しそうにしている皆と同じように楽しむことができない性分だからこそ、そうして目立たないように隅にいるわけだ。

 けれど、なぜみんなと同じように楽しむことができないかと訊かれても、それを説明するにはものすごい膨大な量の価値観を共有するしか方法はなく、たとえそれらをすべて同期したとしても、だからといって、全員で楽しくダンスを踊れるようになるわけではない、ということを連中ははじめからわかっているので、こうして体育館の隅でわかるひととだけヒソヒソと語り合っているのだと、いくら友好的に説明しようとしても、それは悲しいかな堂々巡りとなり、結局膨大な量の価値観を押しつけなくても、すんなりと心の奥でわかり合えるひととしか、わかり合えることはないのかもしれない、───というような。

 あまりにも構造主義的というか、ポストモダンというか、とにかく伝えるにはより無数に枝分かれしたナラティブが下敷きになって、ようやくたどり着くことなのかもしれず、わたしにはそれを簡潔に伝える技量もなく、やはりこうして沢山のリンクを貼ることになってしまう。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man [DVD]

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 神山健治さん版の『攻殻機動隊S.A.C The laughing man』。すごく入り組んだ物語なので、これはもう本編を観てくださいとしかいえない。

  この物語の縦軸で繋がる「笑い男事件」で登場する「笑い男」。彼は一度だけ生放送中のテレビで製薬会社の社長に拳銃を突きつけて、それから何もせずに逃走を図る。

 劇中、全てがネットワークで繫がっている社会で(脳ですら電脳化され繫がっている)、彼は撮影された防犯カメラ等の映像を、逃走中にハッキングし、自分の顔の部分を書き換え、コミカルなスマイルをモチーフにしたロゴマークにする。

 世間は、犯行動機はおろか、その素性もわからないまま、忽然と姿を消した前代未聞の天才ハッカーをそのコミカルなロゴマークにかけて「笑い男」とする。

 メディアには軒並み取り沙汰され、専門家にも散々分析され、若者カルチャーの流行にもなるが、以前、笑い男の足取りは掴めず、事件は忘れ去れていく。

 

 物語のなかでは、やがてそういった過去の「笑い男事件」をベースにした模倣犯が次々に現れて、というところから、「攻殻機動隊=公安9課」が捜査を進めていくという骨格になっている。

 

 ところで、The laughing manというのは、J.D.サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』という9編の小説のなかに収められている、同名物語のことで(たぶん間違いなく)、 

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

 

  劇中のこの事件では、「笑い男」は単なるアレゴリーに過ぎず、むしろ劇中多数引用されるのは同じくサリンジャーの書いた、『ライ麦畑で捕まえて』のほうだったりもする。 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

  サリンジャーというのは、特殊な作家だ。この『ライ麦畑で捕まえて』と、ほかには『ナイン・ストリーズ』でも登場する架空の家族、「グラース家」を中心とした物語をいくつか書き、それから突如として筆を置いてしまう。

 他にも、ケネディ暗殺犯やジョン・レノン殺害犯も、この『ライ麦畑〜』を所持していただとかいないだとかで話題にもなり、本編に対するミステリアスな側面の読解を試みるひとたちは、たぶん今でも後を絶たない。

 

 サリンジャーの小説はもう、これも読んで下さいとしかいえないのだけれど、読んでみたひとのなかでは、かなり多大な影響を与えられるひともいることは、間違いない。わたしも若い頃に読み、すっかり感化されてしまってくちだ。

 いっぽう、そうでもないひとがいることも間違いない。わたしのまわりにもつまらないだとか意味が分からないだとかそういった感想を持ったひとも、事実数人いた。

 そういうひとたちに理解を求めるのは難しい。それはまるで、みんなで円になって楽しくダンスを踊れない理由を説明するようだ。

 

 ともかく、サリンジャーの小説を全部読んで、それから『攻殻機動隊S.A.C The laughing man』を観ているという前提。これだけでも非常に敷居の高いにもかかわらず、それを話題を念頭に置いて、伝えたいことを伝えたいという術を、このわたしが持ち合わせているわけもなく、勢いで語ってしまったことに少々後悔もしているし、なによりも歯がゆいところだ。

 さら合わせて、この前提を踏まえ、フォークダンスを踊れない理由が説明できない‘‘理由”を、直感的に理解できるひとにしか、言いたいことの全容はわからないかもしれないという事実。尚且つ、右へ習えで簡単に踊ってしまえるわたしのような単純な人格がそれを語ろうと試みる愚行。同時にそれらに自ら目をつぶらなければ語れない事実を、わかっていながら敢えて語ることは、結局、卑怯にも、「皆さんご存じの〜」というような、前提での独りよがりの話題となってしまう。

 

michiko-ono-diary.hatenablog.com

 

  このミチコオノさんのブログ、わたしは見付けた途端にグサリとヤラれてしまい、すぐに読者になった。

 彼女(?たぶん女性だと思う)はとてもアバンギャルドな絵を描く画家さんで、つい最近までものすごく精力的に作品を発表してくださっていた。

 数回コメント欄で言葉を交わしただけなので、わたしは彼女をほとんど知らない。けれど彼女の言葉はまるで彼女の描く作品そのもののようだという印象をもった。

 ごくたまに、発する言葉そのものが言葉以上の何かになり、相手に何かを届けられる術をもったひとがいる。たぶん彼女がそうだ。

  わたしはそういうひとが苦手、というか不得手だ。

flightsloth.hatenablog.com

 なぜなら、わたしは「面白くない国の住人の、いなくならないタイプ」なので、彼女のような面白い国の住人には気後れしてしまうのだ。

 わたしはミチコオノさんの作品をあくまで観察者として読み、関心し、日々の潤いとしていた。それだけだった。たとえここが自分のスペースだからといって、それを少しでも言及、ましてや批評しようだなんて、そんなおこがましいことは考えてもみなかった。

 

 ところが、先日、この記事を読んで、

bougen.hatenablog.jp

  ミチコオノさんがネットの世界からいなくなってしまったということを知り、少し残念に思うと同時に、どうしてもこの話題について書きたくなってしまったのだ。

 彼女が「面白い国の住人の、いなくなったらいなくなるタイプ」だったのかといえば、それさえもわたしにはわからないが。

 

  このサラさんというかたは、とてもヴィヴィットなうえシャープな文章を書くので、わたしは勝手ながら密かに更新を楽しみにしているのだけれど、たぶんミチコオノさんととても親しい仲だと思われる。

 それにしても「逢い見ての〜」という百人一首をタイトルにするハイセンスに感嘆するばかりだ。

 

 彼女のいう(?たぶん女性だと思う)「作品が失われたわけではない」という言葉が力強く響く。

 これはミチコオノさんの作品に関わらず、どんな場面でも当てはまる言葉だろう。作品は作者を離れていく。だが想いは人々に染み渡っていく。誰かの言葉を誰かが受け取る。それはたとえ忘れ去られようと、決してなくなるものではない。きっとどこかに広がり、決してなくならない。

 

 ミチコオノさんが消えた理由はわからない。正直いうとたいして知りたくもない。ネットに嫌気がさしたのか、単に面倒になったのか、トラブルに巻き込まれたのか。あるいはどこかの企業かなんかと契約し、スポンサーサイドから、ネットに書き込むことをNGとされたのか。真相はわからない。彼女はとても優れた芸術家だから後者もあり得るだろうとは思えるが。

 

 ともかく真相はわからないし、知らなくてもいいが、彼女の作品は残り、今でも目に触れることができ、今はそれが全てだと思う。

 

 そして、それから、その不在から派生する“何か”に、わたしはとても興味がある。

 

 『攻殻機動隊』の話に戻るが、一度だけ世に現れた「笑い男」は、その不在性のもと、模倣され続け、模倣者は自らオリジナルを演じることにより、よりオリジナルの不在性を高めていくことになる。

 これはもちろん劇中のプロットとしての隠喩だけれど、同時に、サリンジャーの不在性に対する考察となっている。

 そしてその考察は、サリンジャー本人の引用によって、あべこべに彼が公の場から消えた説明づけともなる。

 

 結局「笑い男」の犯行動機というものは、とても拙く幼稚な正義感だけだった(それはまるで『ライ麦〜』のホールデン・コーンフィールドのジュブナイルな感受性とおなじように)のだけれど、だからこそ、ひとびとはそれに感化され、あたかもオリジナルを守るためだけに模倣し、時にコピーを生み出し、その不在性に輪郭を付けようと躍起になっていったのかもしれない。

 

「 僕は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えた」

 

 これは劇中「笑い男」のロゴマークにも書かれている言葉で、同時に、サリンジャー本人がホールデン・コーンフィールドの言葉を借りて言った言葉でもあり、彼の不在性を関連づけるミステリアスな鍵ともなっている。

 

 と、同時に、「ミチコオノ日記」の17話でさりげなく描き込まれている「ナイン・ストーリーズ」の文庫本に、わたしはその言葉を示唆されせざるを得ない。

 

 あるいは、わたしがこうして書いている行為自体が、その不在による強い輝きに感化され、自ら模倣者役を担い、ある意味ひとつの、彼女のインスタントレーションの一端を、無意識にも担わされているのかもしれない。

 

 だが何はともあれ、あとは、ミチコオノさんの気が向いて、再びこのネット上で、あるいはどこかのギャラリーで、あるいはメディアで、彼女の新作を観ることが出来る日を、待ち望むばかりだ。わたし個人としては。

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  ミチコオノさん、サラさん。勝手に引用してごめんなさい。