ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

世界はほんとうに終わると信じていた。

 日曜日は早い時間からまずは餃子専門店に入り、肉汁たっぷりの餃子をひと皿、それに馬刺しともずく。ビールとハイボールでやっつける。それから近所のアルゼンチン料理の店でフライドポテト、ハラミの熟成肉、そいつを片づけるために頼むオーガニックの赤ワイン、ふたりでボトルを1本。

 寒くなったからなのか、月の半ばだからなのか、日曜の街も店もなんだか普段よりも客はまばらにみえる。カンター席ではいつもの店員さんがずいぶん饒舌に話しかけてくれる。

 いよいよ我々を常連と認めてくれたのか、ただ単に誰かと話したかったのか、どうせ酔っ払い相手だからなのか、彼はぐいぐいとプライベートの部分まで自ら話してくれる。時折、はっとするような暗い過去までもカラリと笑いながら語ってくれる。

 お酒も入っていたので彼の話はよく憶えていない。けれど、少しだけこちらの身の上話も加えて話していたら、どういう経路か、「いいですねーリア充じゃないですか」と、彼は屈託なく笑っていた。

 

 それから家に戻り、ベランダでタバコを吸っていたら、なんとなく反省してしまった。果たしてわたしはリア充なのだろうか。

 ひとの人生を少しでも垣間見ることができるのは嬉しいことだ。誰かが人生を語るときは、ちゃんと聞きたいと思う。だから家に戻って、アルコールで鈍化した反射神経で、自分があの店でどういう対応をしたのかが妙に気になった。

 せっかくその店員さんは自分語りをしてくれたというのに、わたしはニコニコと聞いていただけだった。なぜ気の利いたことを一言でもいえなかったのか。ずいぶんぞんざいに聞いてしまったのではないだろうか。ちょっとだけ後悔した。もちろん彼は水商売のプロだから、酔っ払ってポンコツになっている客の態度なんて、気にもとめないだろうが。

 

 その夜なんとなくネットでみつけたこのかたの記事を読んで、またまた反省してしまう。まあ先ほどの飲み屋での出来事にはそれほど関係はないのだけれど。

 

www.chishikiyoku.com

(これは個人のブログを勝手に貼り付けていいものなのだろうか。Proって表示があるのはいいのかな。ダメだったらごめんなさいすぐに消します)

 

 それは確かに、「普通」という言葉は統計学的なものを無理矢理言葉に置き換えただけの概念にすぎないから、あまりこだわる必要はないと思うし、このかたの悩みというか葛藤というものは、いささかジュブナイルなところもあるだろう。

 けれど、その感傷的ともとれるその問答は、本来、誰にでもあり、かつ誰も答えを出すことは出来ず、だからこそ、「考える」に留めなくてはいけない問題なのではないだろうか。ふとそう思った。

 青臭いからといって思考を停止することが大人というわけではもあるまい。とにかく、このかたは「生きる」という困難な問題に、ちゃんと正面から向き合っているなと、率直に関心した。

 

 平日は仕事をこなして、週末にはこうして彼女と呑みに出かける。ひどい肩コリやそれなりに面倒な仕事もあれど、うまい物も食え、楽しい話題もある。店の店員さんに多少後ろ暗い過去を打ち明けられても、「ダイジョブダイジョブ、いまが元気なんだから!」と酔いに任せて他人事に笑い飛ばし、「リア充ですねー」と、店員さんも笑う。どちらも薄い合いの手を打つ。飲み屋では珍しくもない風景。そして、それは確かに普通なのかもしれない。難易度の高い普通の日常。

 

 それでも、わたしたちも飲み屋の店員さんも、誰もがもちろん、悩みがあり暗い過去もある。ぺらぺらの薄い笑顔の奥、アルコールで鈍らせた会話の奥、少し振り返ればすぐそこには深淵がある。わたしたちはいつでも深淵を背に、平気な顔をして立っている。

 そして、わたしたちはいくら歳を重ねようと、その深淵からは少しも遠ざることはできないことを知っている。知っていながら、平気な顔をして歩いている。

 だが、少しでも気を抜けば、今でも深海の暗闇を這い回っている気持ちになる。へっちゃらな顔してみせてはいるけれど、上昇した水圧で目玉は飛び出していないか、その顔は歪んでいないかと、いつも不安に思っている。

 

 今でもたいした自信もない。人混みのなかでこそ強い孤独を感じる。ひとり電車で窓ガラスに映った風景に物悲しさを感じる。体中も軋む。小さな会社だ、この先どうなるかもわからない。不安はいつでも付き纏い、孤独はどこにだってある。結局一度でも負った心の傷はいつまでたっても消えないし、折れた所はいつまでもうずく。

 気を抜くと深淵からは声がする。「やめちゃいなよ、ぜんぶ」と声がする。わたしは首を横に振る。だがみんな同じだ、それが普通だと、呪文のように繰り返しながら、わたしは声を振り払う。これがわたしたちの日常。難易度の高い普通の生活。人生の大いなる問題に対して、カートヴォネガットよろしく少しでも皮肉の効いた警句でも述べたいことろだが、それさえ出やしない。だが、そんなものさ。

 

 夜にはテレビで「シン・ゴジラ」がはじまり、わたしはすぐに忘れる。そんなことはすぐに忘れてしまう。ゴジラがビームを吐きだし、街もビルもヘリコプターも総理大臣までも一網打尽にチリに変える。わたしはもう違うことに関心を持ち、感情を高ぶらせている。わたしは純粋な破壊。純粋な、「娯楽映画としての破壊」を、楽しんで観ている。感傷的だった自分はもういない。

 画面では生き残ったひとたちが反撃の糸口を見出し、奮い立っているころ、彼女はコタツでウトウトとしている。その顔は破壊とはほど遠い。暖かい部屋で眠る女。これこそ難易度の高い、普通の仕合わせ。

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      ばっくり開いた下あごが最高にクールなシンゴジラ

 

 青年だったわたしは、真剣に世界は終わると思っていた。

 1999年、ノストラダムスの大予言。空から大魔王が降ってくる。今では信じられないが本当にわたしはその時分、世界は終わると思っていた。そして、もっと信じられないことに、そう思っている人間はわたしだけではなかった。わたしたちの世代にはそういう連中は珍しくもなかった。

 それは確かに、大魔王的な、それこそゴジラ的なものが降ってくるなんて本気で思うほどは愚かではなかったが、いずれにしても、それとは違うなにかしらの方法で世界は終末を向かえるのだろうと信じ、不思議なことに、むしろそれをある意味で励みにさえしていた節もあった。

 だから、多少の混乱はあれど、あっけなく2000年を向かえたときには、欺されたと思った。率直に、欺されたと。それだけ。

 

 以降、わたしたちの多くは、欺されたという言い分けをもとに、ロスタイムともいえる大人への日常を歩むことになる。

 本当は怖かったのだ。何の覚悟もなく、大した才能も見いだせず。先の見えない人生に立ち向かうのが。本当は知っていたのだ、大人たちがいう、キラキラと輝かしい未来など、欺瞞に満ちたその場しのぎの言葉だということを。

 だからわたしたちは、「ノストラダムスに欺された」というちょっとした免罪符をもって、これから待ち構えているかもしれない、冴えない人生の船出への羅針盤として、そのセリフを胸に、時には励まされ、時には言い分けにして、なんとか凌いでいったのだ。

 

 人生を窮屈に感じているひとになにがいえるだろう。わかる、みんな同じだよ、心配するな、そういってもなんの意味もないだろう。あるいは宇宙、祈り、魂の話でも語り合ってみるか。一晩中でも。

 深淵はいつでもそこにあるし、孤独はなくならない。いつまでたっても他人の気持ちはわからないし、疎外感や承認欲求、嫉みやそねみは人生を苦しくさせる。

 未来はいつも尻つぼみな気がするし、理不尽な悪意を回避する術はないのかもしれない。それら全てに折り合いを付けて、いつまでも平気な顔して、普通にしていられないかもしれない。人生は生きにくい。

  けれど、きっとどの世代でもノストラダムスはいるだろう。そいつを言い訳にして、なんとか凌いでいくしか方法はないのかもしれない。最善とはいえないが。

 

 おそらくわたしは今週末も、同じように呑んだくれ、くだらないことに笑い。無神経な会話をし、ひとの気持ちに相変わらず気づかないかもしれない。あるいは人生の大いなる深淵に疲れ、目隠しでの綱渡りに疲れ、落ち込むかもしれない。だったとしたら、「ダイジョブダイジョブ、いまが元気なんだから!」と、無神経に、酔いに任せて、自らを励まそう。そうする他、方法は見当たらない。