ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

語る側からこぼれていく、ゲイジュツ。

今週のお題「芸術の秋」してますか?

してません。ごめんなさい。

 

 わたしもたまに絵を描くが、自分の絵が好きでもなければ、うまいとも思ったこともない。せめて過程を楽しんでいるならばいいけれど、そうでもない。描きはじめた側から、早く出来上がらないものかと、やきもきしながら作業し、肩もこるし時間も消費する。出来上がったら出来たで、ぜんぜんイメージと違うことに絶望ばかりしている。

 

 わたしは自分が芸術的センスのないことを自覚している。造詣も知識もない。

 そもそも芸術とはなんぞや。芸術げいじゅつゲイジュツart。こうして呪文のように唱えると、まるで抽象概念にむりやり言葉を当てた代表格のように思えてくる。まるでわからない。そこに定義はなく、当然、免許も資格もない。芸術は語るそばから零れていく形のないものだ。まさにドント・シンク・ジャスト・フィールの領域。

  それでもわたしには唯一誇れるものがある。それは、なにかを観たり聴いたりするのが好きだということだ。そこには自分なりに自分を評価している。つまり、自分の芸術的センスや才能にはあきらめているが、「自分が好きなものにちゃんと感動できる」センスはあるということにだ。

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  たとえばラオコーン。造形美のことなんてまるでわからないが、なぜだか惹かれるものがある。いったいどうしてこのオッサンたちはこんなにもややこしいポーズをとり、大蛇に巻き付かれてしまう羽目になったのかも知らない。どのくらい前に創られた作品なのかも知らない。もちろん実物をみたこともない。けれど、そのフォルムにはひたすら惹かれる。雑誌やネットなどでその画像をみつけると、必ず目にとまり、長い時間じっと眺めてしまう。

 理由はわからない。わからなくていいと思っている。誰が創ったか、その時代背景、なにを表現しているのか。わたしにはもともと興味はない。作者も意図も、その作品自体の素晴らしさには無関係でいいと思っている。それを観て、なんかいい、と思ったら、それが全てだ。観る側がどう受け取るかは観る側の勝手だ。

 

 たとえばポール・ゴーギャン。わたしはゴーギャンの絵が好きだ。好きなので彼の人生もある程度知っている。知ってしまったと言い換えてもいい。ゴッホとの関係性や、いかにしてタヒチへ渡ったのか、平凡な日々から数奇な人生への転換を、ある程度知っている。けれどたまに、その知識が邪魔をして、絵そのものの素晴らしさを、水増ししているのではないだろうかと考える時がある。

 知ることは諸刃だ。知識は後戻りはできない。良いものは良いと単純にいえなくなる。その鮮やかな色彩を、さらなる色眼鏡で塗り足してしまいかねない。わたしはゴーギャンの絵を単純にみることはもうできない。ラオコーンのそれのように「事情はわからないけれど、なんか良い!」とはもういえない。

 

 誰かしら偉人が亡くなると、特集番組が組まれ、その人生が紹介される。近頃はその奥さんの人生までもがフォーカスされる。なんならドラマ化さえされる。そういう時、わたしは戸惑ってしまう。もしそのひとが奥さんに酷い仕打ちをしていて、性格的にもクズだったのなら、そのひとの作品自体、あるいは成し遂げた偉業も、はたして評価を落とすことになるのだろうかと。

 だとしたら、ナンセンスだ。パーソナリティや肩書きや背景で作品の価値が決まるとしたらナンセンスだ。だったらわたしは知らなくていい。何も知らずに、「ああ、良いね」と感激したい。その感情になんの説明もできなくとも。

 

 マルセル・デュシャンはただの小便器を「泉」と名付けて、作品として提出したという。自分が展示委員を務める展覧会に。それも匿名で。それから、その作品は選考で落とされ、彼は匿名のまま抗議文を送り、委員を辞任した。

 わたしは、デュシャン本人がその作品を本当に価値のあるものだと思っていたのかは知らない。抗議文の内容も知らない。はたして彼がその便器を本当に評価されたかったのか、それとも芸術そのものを皮肉ったのかは、わからない。

 わたしが思うに、それはただの便器だったのだと思う。芸術的価値のないただの便器。けれど彼はそれに魔法をかけた。とびきりモダンな魔法で、ただの便器をものすごく芸術的なものに変えてしまった。それには簡単な呪文をかけるだけだった、呪文の言葉はこうだ、「これは芸術だ、誰がなんと言おうと」。

 結果、その過程のすべてを通じて、彼は作品を完成させた。彼ほどの芸術家の作品をネームバリューなしに評価できなかった、選考委員の同僚たちはおろか、世界中の人々に、痛烈な皮肉の効いた、芸術そのものに対する懐疑を残し、それそのものを作品へと評価させた。

 彼は王様のまま、自ら「王様は裸だ!王様は裸だ!」と叫んだのだ。けれど、その姿勢、その思想のすべてが芸術的ではないなんて、誰が否定できるだろう。

 以降、モダンアートの行く末は決定づけられた。価値のわからない偉大なるガラクタは、途方もない値打ちをつけることによって、そのものの価値観はごっそりと変わって行き、以前にも増して、チキンレースに自ら進んでベットするパトロンたちとのハイセンスな欺し合いや成り行き、それ事態に、芸術的価値は付加されることになる。

 

 まるでわからない。本当に、とことんわからない。なにもかも。ああ、芸術よ、語れば零れるゲージツよ。考えても考えてもまるでわからないゲージツよ。「芸術とはなんですかー!」わたしが叫ぶとそれはこう答える「へのつっぱりはいらんですよ」「おお・・」わたしは感動する。言葉の意味はよくわからんが、「とにかくすごい自信だ」と、わたしは感嘆のため息を漏らす。

thedoraemontentokyo2017.jp

  ドラえもん展には近々いくつもりです。ドラえもんにはあまり思い入れはないですが、なんだかすごい人たちが参加しているようなので。ほんとうはキン肉マン展があれば行きたい気持ちですが。