ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

かねてから、わたしはそこから居なくなってもかまわない。

 ソニーからAIBOが再発売する。

japanese.engadget.com

 

 まえよりも駆動域がかなり増え、より肉感的な動きをするようになったように見える。顔はわたし的には古いほうの、なんだろうゾイドのような、顔というよりもコクピットのようなデザインも捨てがたいが、愛らしい丸いふたつの眼球があるほうが一般的には、より愛着も持てるのだろう。

 デザインは、全体的にニーズを絞ったようにも感じられる。年配のかたをはじめ、ペットが飼えない環境にいるひとたちが抵抗なく愛でるには、より最適なフォルムに近づいているのではないだろうか。新しい物好きのテクノロジーオタクの食指はいよいよ反応しそうもない。

 AIBOはペットとしての製品だから、当然、人工知能もそれに即したプログラムが組まれているのだろう。それに即したというのは、われわれ人類が「カワイイ」と感じる動きや振る舞いをするという意味だ。

 感情面に特化したAI。この話題にはわたしはかねてより関心がある。

 

flightsloth.hatenablog.com

 

 このニューAIBOがどこまで学習しどう振る舞うかは知らない。けれど、おそらくは、それがどんな予測不能な動きだろうとも、それは予め組み込まれたプログラムの組み合わせによる行動の枠を出ない。

 それでもものすごく興味をひくのは、学習した記憶や振る舞いがクラウドにバックアップされ、集合知として並列化されてゆくかもしれないということで、ということは、これからどんどんリニューアルされていくであろうAIBOに、それらは引き継がれていくかもしれないということだ。

 つまり、今回発売されるモデルは器に過ぎず、お金さえ出せば次々とニューモデルに鞍替えできるということになる。鞍替えというとずいぶん聞こえは悪いが、壊れてしまったらそれまでよ、とはならないのだから、今までよりも素晴らしいシステムには変わらないと思う。

 わたしの愛する攻殻機動隊タチコマのように、意志や個性や、まして人間のために人間に背くような道徳観はもちろん持ち合わせてはいなくて、所詮システム的な記憶に過ぎないが、ハードにこだわらず機械が性能=個性が継承されていく未来の、その先を想像するとやはりワクワクする。

 

 記事ではサービスやスペックやらオーナーのニーズやらと、企業としてのあざとい策略が前面に押し出されている印象だが、愛玩用のペットとしての提案として、ロボットのペットはある意味思いやりのある提案だともいえる。

 ペットというものは、人情を剥がせば結局は奴隷的要素を拭えない。去勢して、自然界では生きられないように交配して小型化させ、売買する。これをただ可愛がりたいという衝動だけで、別の種の生き物を選んでいる現段階のわれわれ人類は、どう考えても自分勝手だ。もっとも、それがロボットだからといって、これからかわいそうな扱いを受けるペットたちがいなくなるか、といえばそれは別の話だろうが。

 

 前回の発売終了の際、サービスも停止してしまったため、壊れてしまったAIBOの修理を受けられず、困っている持ち主のニュースを見たことがある。

 あるひとはいつか修理される日のために丁寧に箱に入れ、あるひとは動かないままぬいぐるみのように部屋に飾っていた。

 そういうひとたちのために、エンジニアが修理をするサービスもあるようで、何年かぶりに動き出したときの持ち主たちの嬉しそうな笑顔を覚えている。

 だがこれからのAIBOではそういう問題は起こらない。あの時みたあのひとたちの笑顔はわたしに不思議な印象を与えた。嬉しくもあり切なくもあった。どこまでも共にする喜びと同じように、どこで終止符を打てばいいのだろうかという疑問と切なさがあった。

 まあ、今回も企業側がサービスを停止してしまえば、同じことが起こるのだろうが。

 

 この国は元来アミニズム的な見地から、モノに愛着を抱くひとが多い。ひとむかしまえは古くなった針や食器でさえ供養するのが当たり前だった。人形や履き物にも魂が宿り、石や木を神格化させ崇めた。

 バージョンアップを繰り返すであろうこれからのAIBOに、持ち主たちがそのつど変わる入れ物に愛着を抱くのか、それともクラウドに保管される記憶媒体を愛するのか。或いは両方なのか。それはわからない。

 けれど、もしかしたら、何世代もの間ペットとしてのロボットが各家庭に仕えるようになった世界では、繰り返し器を変え、学んでいくロボットたちの振る舞いに、魂(ゴースト)が宿っても、おかしい話ではないのかもしれない。

 あるいは何世代もの間バージョンアップを繰り返し、並列化を繰り返し続けるロボットたちと同じように、われわれ人類も不便な肉体を捨て、もしかしたら、理不尽を繰り返す精神さえも捨てて、違う進み方を選んでいくのかもしれない。

 そこに人類と呼べるものがなくなったとしてもかまわない。前々からそう思っているように、わたしは人工知能が人類を超越して、人類に取って代わるのであるならば、わたしはそこから居なくなってもかまわない。