ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

理解できないことも、理解してほしい

 昨夜、教育問題を討論する体を取ったバラエティ番組で、養老孟司さんが シンガポールの幼児の頃から徹底して階層に分けた教育システムについてのコメントで、「典型的人工社会」といっていた。人工社会という言葉は初耳だったが、それでも言い得て妙だと感じた。なんとなくだが。

 世界が絶対的に変わらないと思い込んでいる社会では、将来の設計を早く決めたがる。養老さんはこのようなことも言っていた。「わたしたちの世代は戦争があって、世の中の仕組みががらっと変わった。そういう世の中で子どもが遊んでいたとしたら、精一杯遊ばせる。」それはそうだろう。いつ終わりが来るかも分からないのだから。その子にも自分にも。

 養老さんは否定も肯定もせず、ただ解説したに過ぎないが、こういう議題において、先の戦争を持ち出したりするとすぐに古い考えかただとか老害だとかそういう批判も飛んできそうだが、どうなのだろう。

 それはともかくとして、わたしには「人工的社会」という意味合いを完全に推し量ることはできない。けれど、そういわれてみれば、わたしたちのいまの社会は、そのシステムが揺るぎないものだとした前提で成り立っている、とは確かに感じる。

 現在よく耳にする様々なマナーや差別問題は、どんどんセンシティブに細分化され、議論されている。いまの社会がこれからも普遍的である前提で、物事の善し悪しの判断をすり合わせている。まさに人工的に、みんなで社会を構築しているようだ。

 その前提では、誰もが世の中の根底がまるごと覆されるかもしれないということは、夢にも思わない。だから子どもを教育させて、早い段階で将来を決めさせたがる。そのほうが長い余生を楽に過ごせるからだ。当たり前だが、人種差別や性差別を語るうえで、自分たちが奴隷になる可能性を踏まえたりはしない。

 

 その後で、どういう趣旨かは判然としないがLGBTの方々が集まった深夜番組で、ゲイの男の子が両親にカミングアウトした話をしていた。

 なんでも彼の話では、両親の理解は得られたけれど、祖父の理解は得られず、それどころか、そんなのは人間じゃない、とまで言われた、だとか。

 たぶんお祖父さんがいいたかったのは(普通の)人間じゃない、という意味だろうが、当の本人は人間扱いされなかったと思い込み、ずいぶん傷ついた様子だった。

 番組が進んで、何組かのそれぞれゲイやレズビアンのカップルの様々な事情を語り合っていたが、やはり話の中心は性差に対する理解の話題に戻っていった。

 それから、あれはたぶん司会役のひとだったと思うが、若い二人の男性が(彼らがゲイなのかどうかはわからないけれど)、まあ、理解してくれるひともいるけど、そうじゃないひともいる、みたいなことで番組のまとめに入り、その流れで、さっきの子のお祖父さんを引き合いに出して、きみのおじいさんみたいにね、と何気なくうなずき合う。頭の固いひともねー、うんうん、いるよね、みたいな雰囲気でまとめ番組は終わる。わたしはなんとなく、その言葉が引っかかる。頭が固いというのは違うと思う。

 

 確かに同性間での恋愛を認めないというのはこれからの世の中を鑑みると、古い考え方ではあると思う。だがそこは大前提で考えると、例えば80年生きてきた老人が突然孫に男が好きになったといわれ、それが自分にとって普通のことだといわれ、理解してくれといわれても無茶な話であることもわかる。

 戦争があって世の中ががらりと変わって、価値観は何度となく変わり、属国という概念も薄れ、使用人、妾、奉公、赤線、今まで普通だったものが世の中の流れでよろしくないとされ、黙殺され、あるいは消え、思うところはあってもぐっと飲み込み、これからは人権を尊びますといわれ、それはきっと良いことだろうと受け入れた挙げ句に、これからは同性同士の恋愛も結婚も理解してくださいと言われても、流石にはいそうですかとは簡単にならないだろう。

 そもそも恋愛ごとよりも家柄や血筋や付き合いが優先された世の中で育ち、これからは自由恋愛の時代ですよといわれて、戸惑いながらも受け入れた結果、孫の恋人が同性だといわれ、それが今の世の中ですよといわれても、それは受け入れがたいものがあるだろう。

 それが普通だといわれて、そう考えられないのは頭が固いといわれるのならば、わたしも間違いなく頭の固い古い人間に分類されるだろう。それはそれでかまわないが。ひとついえることは、理解されなくて傷ついたと嘆くならば、お祖父さんだって、理解できないことに傷ついているのは間違いない。

  

 おそらくそのお祖父さんも、孫の生き死にに関わることならば、養老さんのいうように「精一杯遊ばせる」ような了見は持つだろう。それはよりプリミティブなところでの理解だろうから。

 けれどこの問題は、これから暫定的に構築されていくであろう人口社会としての権利問題だから、やはり戸惑ってしまうのも無理はないと思う。

 LGBT問題はとても繊細でみんなが深く理解していかなければならない問題でもあるし、そういうマイノリティ側にたつ立場のひとが傷ついたことを主張するのは間違ってはいない。間違ってはいないが、同じようにマジョリティ側も傷つき、つまりお互い傷つき合っているということも、改めて認識合わなければならない。

 例えばノンケのわたしが理解できないことを強く主張しだしたらどうなのだろう。LGBTは認めるが理解はできない。そういったらどうなるのだろう。たとえば強い口調で。あるいは、憂い顔で首を振っていたら?

 頭が固いと思われるのだろうか。古い考え方だと責められるのだろうか。それとも理解できないことを、理解してくれるのだろうか。

 果たして、これからの人工社会の常識としての、「普通」という考え方は、どこにあるのだろう。