ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

ホリエモンの父性

weblog.horiemon.com

     (貼り付け方はこれでいいのだろうか。 )

 

 堀江貴文さんが「保育士の給料はどうして低い」という問題に対して、「誰にでもできるから」と答えて、論争を巻き起こしているらしい。

 Twitterを知らないわたしはまとめのようなものでしか見ていないので、この論争に口を挟む資格はないし、このひとのことをそこまで詳しくはないが、このひとの言動は本当に面白いとは思う。

 彼はいつも端的すぎる。この問題に対してもはじめに「誰にでもできるから」という間違いなく誤解を招くような発言をして、それから数々の問答を通して、ちゃんと筋の通った意見をいう。

 こういうやり方が意図してなのか、それとも天然なのかはしらないけれど、わたしとしては、そこに父性を感じる。なんというか昭和的父性。

 

 イメージでいうが、昭和的父親は無口だ。無口で否定的だ。できるわけないだろ、やめちまえ、バカヤロウ。子どもがやろうとしていることを頭ごなしに否定する。たとえ否定しなくても、肯定的な意見はいっさい云わない。

 だかこんな親父の内実は、完全に否定しているわけではなく、人生経験に基づいた根拠のもと、いわば子どもの覚悟を試しているからこその言動だといえる。わたしの父親の場合そうじゃないパターンのほうが多かったが。

 たとえ肯定したくても、その支援方法として、スパルタ的教育方法を選ぶ。決して褒めず、やるからには徹底しろと叱咤する。姿勢を正せ。髪を短くしろ。言い訳はするな。「はい」は一回。大声でこたえろ。泣くな。子どもの意思とはまったく関係のないメンタル面での指導を徹底する。

 だから親父は大抵子どもに嫌われる。だが本人はそれでいいと思っている。自分への反発心を活力源にすればいいと思っている。子どものために憎まれ役をあえて買って出ているのだ。

 やがて子どもは大人になり、親父のことを勝手に尊敬しだす。ああ、あの時親父が言っていたことはこういうことだったんだ。あるいは、クズ親父だったけど酒でも呑みたいな、だとか、あの時親父にぶん殴られた悔しさがあるから今の自分がある。だとかなんだとか。

 

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 ところがホリエモンさんがいっこうに尊敬されないのは(私見)、本当の父親ではないのを除外すると、反論に対する反射神経と、その意見がある程度、的を射ていること。思いやりに欠けること。感情論を踏まえずに常に議題に沿った議論ができること。それに、なににもまして、金銭的にも社会的にも成功者だからではないかと、わたしは考える。

 世の親父は大概彼よりも成功を掴んではいないし、彼よりも理不尽で、すぐに感情論を振りかざすが、思いやりはある。だから、後で勝手な解釈をもって尊敬される。

 もちろんいまはそんな時代ではないし、問答に対するレスポンスも早いので、口をつぐんで言い訳をしないよりも、なにかしらの意見を発信したほうが良いに違いない。それに、議論を度外視してでも所作を正そうとする父親的精神性も、受け入れがたいものだろう。

 それでも、一見して、昭和的親父とは真逆にかけ離れて見える彼のロジックに沿った考え方と、ぶっきらぼうで人を食ったような物言いが、どうしてもわたしには、昭和親父的姿勢の根幹にある多少ゆがんだ不器用な思いやりや、嫌われることを厭わない勇気などが、ダブってみえることがある。

 

 件の議論に戻ると、「誰にでもできる」といった意見に反発したひとたちは、保育士という仕事に対する配慮とリスペクトを欲していたのだろう。だが配慮やリスペクトでは「保育士の給料がなぜ低いのか」のアンサーにはならない。彼は答えにならない美辞麗句を並べるよりも、人がどう思おうが端的に答える方法を選ぶ。効率化は彼が常々いっている方法だろうから。

 だが効率的な道を選ぶからこそ言葉足らずになり、いつも話はこじれる。思いやりや人間味に重点を置くひとたちが加わってさらにこじれる。これじゃあ少しも効率的じゃない。だからホリエモンは面白い。

  ホリエモンがいつも端的なのは、この場合は、『介護士は(資格を取れば)誰にでも(やろうと思えば)できる』(が、大変な仕事だ。だが大変な仕事だから賃金が高いという構図にはなっていない)という部分の、括弧書きを省いた文脈を、わたしたちが、その省いた部分ももちろん読み取れるおつむを持っているから、いちいち面倒なことは省略して、いち早くもっと高みの議論をしようぜ、という現れなのかもしれない。そう考えれば、ずいぶん思いやりのあるひとではないか。彼は少なくとも他人を見限ってはいないのだから。

 

 とにかく、ホリエモンが物議を醸す度に、わたしが昭和的親父と重ねてしまうのはわたしの自由だろう。本人の意志とは関係なく。本心はわからない。彼はただ天然で言葉足らずなのかもしれないし、意図してケンカをふっかけているのかもしれない。意地悪で相手の反応に揚げ足をとっているのかもしれない。いづれにしろわりと楽しんではいるのだろう。

 それでもあんなに有名な彼が誰とでも議論し、時として到底議論とは呼べないほどの罵りに合いに参加したりと、この退屈な社会のスパイスともなり、あるいはある種の憎まれ役として、親父的な緩衝材ともなっていることは、まあ、なきにしもあらず。