ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

雨のち曇り、嘆き時々祈り

 ラスベガスでの銃乱射事件、現時点で負傷者500名以上、死者58人。

 はじめに思うことは、またか、という感想。それから、いったいどうして。なんのために。

 怒りや悲しみだとかいう気持ちに至るには、あまりにも死者が多すぎる。まるで現実味が無い。代わりに感じるのは、深い嘆き。

 

 それから、驚くこともない事件ではないかと、どこかで不謹慎にも感じている自分がいる。充分ありえることだと。他人事、無関心。それもこれもコールタールのように心の表面にこびりついた、厄介な深い嘆き。

 

 だったら、他になにがいえる。犯人のパーソナリティの所為にでもするか?社会の責任?政治?銃社会が招いた悲劇?いったいどういうふうにいえば納得できる?世間が、ではない、自分がだ。

 犯人が銃を持ち込んだ経路。射撃位置。犯行時間。交友関係。それを知って何になる?これはテロ行為だと決めつけてみるか。憎むべきはテロリズムだと。それともアメリカの馬鹿げた金儲け主義が悪いのか。大統領の月並みな哀悼文に腹をたててみるか。あるいは犯人をキチガイだと思えばいいのか?どうすれば納得できる?

 

 ひとは理不尽な暴力を回避する術を持たない。厄災を御すことはできない。できるのは、どこかで自分自身を納得させること。そして祈ること。それから、忘れることだけ。

 

 ノルウェーウトヤ島の乱射事件では何人亡くなった?コロンバイン高校の乱射事件では何人?ボストンマラソンの爆破事件はどうなった?秋葉原の通り魔殺傷事件は?酒鬼薔薇聖斗は何人殺した?宮崎勤は?なにひとつとして正確に覚えていやしない。これらの痛ましい事件で最後に本心で怒りに震えたのはいつだ?

 はじめからこんなにも無関心ではなかったはずだ。かつては世界は美しく素晴らしく、みんなが祝福し、みんなを祝福し、感受性を働かせ、遠い出来事さえも想像し、あるいは同調し、理不尽や不条理に真面に向き合おうとしていたはずだろう。

 だがやがて、理不尽や不条理は到底手に負えるものではないことを知り。悪は悪の形を成さずにやってくることを知り。ラスボスも祝福されるエンディングもないことを知り。美しさの裏側をみるようになり。世間の関心事を逆手に取り。挙げ句に、邪魔になった感受性を、深い嘆きへと転化させていったのだろう。

 世間でおこる手に負えない事件や悲劇は、感受性にこびりつく。こびりついて幾重にも層を成し、黒ずみカチカチに固まり、心を鈍化させ、無関心をこじらせる。無関心は無気力を産み、やがてひとの思考を停止させる。

 そこに痛みはないから、ひとはかつて感じた輝く感受性を未だ保ったままだと信じ込み、鈍い感性と曖昧な記憶を頼りに、無神経な意見を述べるようになる。時には気まぐれにボンヤリとした説教を若者に垂れ流す、そうして、自称、「リッパな大人」は出来上がる。

 

 だから時々、向き合わなければならない。嘆きの塊の黒ずみを少しでも剥がさなければならない。それで効果があるとは到底思えないが。少なくとも、今回の馬鹿げた悲劇に少しでも関心を持つこともできるし、なにより、たとえば寝る間際、まったく顔も知らない数多くの被害者のかたがたに対して、僅かな時間でも、無責任に祈ることだけはできよう。