ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

つるりとした理想の社会

 医師免許の無いひとがタトゥーを彫ったということで裁判にかけられて負けたらしい。それと、とんねるずがホモオダホモオというむかしのキャラクターを復活させたら、LGBTのひとが大層傷ついたらしく、ずいぶん叩かれているらしい。

 近々に気になった話題がこのふたつ。

 

 たしかにタトゥーは傷を付けて色をつけるので危険は危険な行為だろう。だから医師免許とはいかずとも、なにか鍼灸のような特別な免許があってもいいのではないだろうかとは思う。ただしそれを許可するということは、入れ墨を公に認めるということになるので、温泉や公共施設で入れ墨をしたひとを閉め出してきたこの社会は、もしそうなったら、どう折り合いをつけてゆくのだろうか。

 それとも本当に医師免許を必要とし、医者たちが法外な金額でタトゥー手術を施すようになってゆくのだろうか。それとも保健が適用されるのだろうか。

 そのうちタトゥーがインテリや上流階級の嗜みになったりして、「あら奥様首に蝶がはいっているのね」なんていって、「そうなの、これはオーガニックの高級インクを使用しているかあら1×1cmで百万円も払ってますのよ」だとか「それはすてきね、わたくしは腕に入ったこのドラゴン、純金インクなのですよ」なんて、自慢し合うのだろうか。

 なるほどそのほうが金儲けにはなりそうだ。ところで医師免許があり尚且つ入れ墨も彫れるほどの技術と才能を持ったひとはどれくらい居るのだろうか。

 

 それから、この間とんねるずが前述のゲイのキャラクターのメイクでビートたけしとはしゃいでいて、わたしも、なつかしー、なんて、なんとなく笑い、その数日後でネットをみていたら、どうやらその仮装で傷ついていたひとがいたらしくて、なんというかまあ、うぐぐ、とうなってしまった。笑ってすみませんでした、とは思わなかったが、傷つくひとがいるなら慎みたいなとは率直に感じた。

 笑うのはしかたがない。懐かしかったから。または面白かったから。単純に。本当に申し訳ない。けれどこれだけは謂わせてほしい。わたしはゲイを馬鹿にして笑ったわけではない。笑ったのは、滑稽な格好をして、間抜けずらでひとを笑わそうとしているとんねるずビートたけしを笑ったのだ。決してゲイを笑ったわけではない。その姿に多数のゲイの方々を透かして笑ったわけでもない。笑われることを生業にしている彼らの、いい年したおじさんの、道化た姿に笑ったのだ。きっとおじさんたちは自分たちが笑いものになりたいからそうしただけで、誰も傷つけるつもりはきっとない。

 ところで木梨憲武さんのほうはどうだったのだろう。口紅をぺたぺたに塗って眉毛をつなげた化粧をした、ノリコだったか、あれは容姿にコンプレックスのある女性を傷つけたのだろうか。ビートたけしはどうだったっけ?角刈りの、作業服を着たおじさんの格好だったか、あれで労働者は傷ついたのだろうか。

 LGBTのことをわたしはなにもしらない。けれど彼らが傷つくというのならば、配慮していきたい気持ちはある。だから教えてほしい。どこがいけなくて、どこまでなら許されるのか。わたしにはまったくわからないから。

 若いの頃、雨の日びしょ濡れで自転車を押して歩いていたら、おじさんに「これから遊びに行こう」と話しかけられて、なんなら八万円出すよ、と持ち掛けられたことがある。あの時、全力で逃げたわたしは配慮にかけていたのだろうか。

 もしおじさんが傷ついたとして、では、あの時感じたわたしのやり場のない怒りにも似た感情はどうなるのだろう。かつてみたお笑い番組での、品位に欠ける低俗な笑い、それを確かに楽しんでみていた想い出は?

 現代ではその時の感情さえも、負の遺産だとされてしまうのだろうか?それはそれでもかまわないが、もしそうならば、わたしはわたしで傷ついてしまいかねない。

 わたしにはわからないのだ。おじさんの誘いも、それに対するわたしの感情も、ゲイでもないのにゲイや女装をする芸人も、誰が、何に傷ついてしまうのか、まるでわからないのだ。

  確かにこの問題はいじめの構図と似ている。配慮の無い第三者にクスクス笑われるのは耐えがたいものがある。けれど、だからこそ、被害者かもしれない彼らがなにを求めているのかは、しっかり見極めなくてはならない。彼らが求めているものが、世間の寛容さなのか、それともなにかしらの権利なのかを。

 たとえばなにかを主張するときは、しっかりとファイティングポーズをとってもらいたいものだ。やれやれと肩をすくめて「傷ついた」といわれてもわからないひとはわからない。降参のポーズで戦われても困る。土下座しながらぶん殴られても戸惑うだけだ。権利を主張するならば、弱者の傘に隠れていてはならない。

 

  世の中は権利であふれている。権利さえあればなんでも許される。権利は危ない。弁護士は時として文化そのものを訴える。文化には大概権利がないからだ。かわいそう、人道的でない、野蛮、危険、独善。理由はなんでもいい。人々の良心に訴えかけられれば、弱者の立場をとれば、いとも簡単にそれを覆せる。いちど無くして、それを数枚の書類で上書きして同じような権利を獲得できる。書類には数百に渡る項目で、自分たちが有利になる権利が明記されている。

 ミサイルを落とし、焼け野原にした土地に、また新たな権利をつくる。爆弾を持った国が爆弾持つ権利をつくり、持っていない国には、持つ権利は無いという。危険だからと主張する。

 文明人というやつは、どこで手に入れたか、いつでも権利書を持っている。それを持って、もといた原住民を追い出す。右手に札束左手にピストルを忍ばせていても、笑顔で権利書を差し出せればそれで済む。だれも抵抗はできない。権利を持たずに抵抗するれば、野蛮だと撃ち殺されても誰も文句はいえない。

 彼らはいつでも守るべきものがいる。真っ白な肌をした妖精のような娘。あるいは飼い犬。数頭の牛や馬。これらすべてに権利がある。だからこれらを守るため、戦うことは許される。許されないのは野蛮人。野蛮人は危険だ。やつらには権利がないから。

  石にも権利がある。川にも木にも。きみたちが崇めている神の山とやらも、ほらわたしたちが権利をもっている。きみたちはこれからこの権利の元に、それらを使えばいい。これからはここに住むがいい。わたしたちが管理してあげよう。

 

 入れ墨を認めてほしければ権利を求めればいいのかもしれない。人の肌に絵柄が描いていないと愛せないと主張すればいい。入れ墨愛好者としてLGBTのカテゴリーに入れてもらうのはどうだろう。彫り師は文化を主張すればいい。しっかりとした伝統があるのだろうから、後ろ暗いイメージを捨てて、マイノリティを主張すればいい。もしくは入れ墨を入れたひとしか愛せない人間にたいしての、援助としての立場はどうだろう。

 それで世の中がどう変わるかは予測できないが、とにかく権利さえあればミサイルだって保有できるのがこの世界だ。素晴らしいじゃないか。それを利用しない道理はない。

 

 どちらの件も、様々な意見がある。人それぞれ、その意見のなかでもっともだと思うものを拾って、意見を交わし合って、議論は良い方向に進んでゆけばいいと思う。

 入れ墨を閉め出してきた社会にとっては、今までそれを糧にしてきた彫り師のひとたちが同じように閉め出されてゆくのは本望なのだろう。

 LGBTのかたが傷ついたというならば、それはけしからんことだ。誰かを傷つけてしまう芸事ならば、それはたぶん配慮がたらなかったのだろう。

 そうかもしれない。世界は黒ところを全て消して行き、グレーなところも同じように消して行き、つるりとした、角も色も何ものないが毒はない、ニコニコ笑顔のカワイイもので溢れた世界になってゆくのがいいのかもしれない。

 それで、わたしはそういう世界において、ひたすらに謝るしかない。角も棘も毒も出してしまい、いつも配慮に欠ける、無神経でどうしようもない人間なので。その都度、謝り、改めていくしかできない。