ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

読書という孤独、あるいは冥界。

今週のお題「読書の秋」

 「秋だから本を読みたい」なんて衝動に駆られたことはないし、なにか本を読みたいなぁ、と思い、ぼんやり書店を物色していて、「そうか、秋だからか」なんて、時節の気づきを不意に噛みしめたこともないけれど、この「お題」という企画を知ったので、ちょっとばかり書いてみる。なんだか読書感想文のようでワクワクする。まあ感想文は書きはしないけれど。

 まず、わたしにとって読書というのは煩悩でしかない。ゲームや漫画と同じ、楽しい娯楽。極めて社交性が低く、個人的でしか楽しむことができない趣味。それが読書だと認識している。世の中はたまに、それをなんだか高尚なことのように語る場合もあるようだが。

 子どもの頃はしょっちゅう怒られた。ゲームをしていれば目が悪くなると怒られ、漫画を読んでいれば勉強しなさい怒られ、絵を描いていればそんな所に落書きをしてはいけないと怒られ、歌っていれば煩いと怒られ、そういえば小説なんかを読んでいる場面では怒られはしなかったようだが、そんなことは気づきもしなかった。多少評価もされただろうが小言を謂われた記憶のほうが勝るものだ。ともかくひとは個人的な楽しみを持つと、決まって誰かに怒られるものなのだろう、それが世の常なのだろう、そんなふうにしてわたしの幼少期の刷り込みは成された。

 だから趣味を持つと決まって後ろめたい気持ちになる。今は大人なので好きなこと思う存分できる。ひとりでいくらでも。ゲームでも読書でも。だが今でも読みたいという気持ちは煩悩でしかない。時間を削るという意味では他の娯楽と変わりは無い。自分だけが楽しむことの背徳感。

 本当に好きなことを誰かに語ることは、今でもなんだか気恥ずかしい。読書についてインプットだのアウトプットだの、嬉々として語るひとがうらやましい。たとえば今でもガンダムドラゴンボール攻殻機動隊は好きで、これは結構周囲にも共通することでもあるので、気楽に話せるが、つげ義春杉浦日向子の話題ともなると、掘り下げて語ることをためらってしまう。本当はそれらと同じようにガルシア・マルケス大江健三郎先生の話、マコンドや隠遁者ギー、グラース家、ヨクナパトーファ群などの話題を思う存分に語ってみたいのだが、ためらってしまう。本当は嬉々として一方的に語りたいのだが。

 話さないということは共有しないということだ。共有を目的としない知識というか記憶は、どう処理をすればいいのだろう。時々考える。保坂和志さんの『この人の閾』という小説がある。久しぶりに会った知人の主婦と対話する物語だ。主人公は彼女と様々な本の話をする。そんな物語。

 彼女はただ読んでいる。彼女はひたすらに読むことを目的として読む。ドストエフスキーなんかは面白すぎてやめられなくなるからダメといい、そういう時には哲学書なんかも読むという。誰のためでもなく、アウトプットは念頭に無い、純粋な読書。わたしもそういうひとと語り合ってみたいと願う。

 あれは夏目漱石の『草枕』だったか。主人公が適当に頁をめくり、そこから読むというシーンがある。わたしも時々それをやる。夕方のアニメを途中から観るように、ラーメン屋で古い週刊少年ジャンプを手にするように。そのタイミングで出会ったセンテンスだけを楽しむ。前後関係の物語を想像し、地の文の美しさにただ感動する。

 「無人島に行くとして、持っていきたい物はなに?」時々こんな話題がでる。飲み屋で話されるような他愛ない話題。そこでもわたしは深く考え込んでしまう。目的が無人島からの脱出だというのなら、さいとうたかをの『サバイバル』でも読み返して検証してみたいものだが。リゾートというのなら話は違ってくる。浮き輪でも持っていくかな。だが「孤独になることの思考実験」としての話題だとしたら、そもそも無人島に行く必要もない。わたしは本を読む。無人島もリゾートもそこにあるからだ。

 ミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』という本がある。ロビンソン・クルーソーのいささか変わった物語だ。いわずもがなクルーソー無人島に流される。

 物語でクルーソーは島からの脱出を試みたり、馬鹿な間違いをしたり、自暴自棄になったり無気力になったり、半ばきちがいじみた行動をとったり、風変わりで観念的な方法で性処理をしたりするが、なんとか秩序を保つ。だが誰もいない島で保つ秩序とはなんなのだろう。

 わたしは孤独を考える。孤独は怖い。誰も居ないということは自由とは違う。他者を認識できない空間は、頭の中からすらも脱出できない、何処へも行けない不自由な空間だ。そんな不自由な空間で秩序を保つことは虚しいだけだ。狂うことも認識できまい。誰も狂っていると指摘してくれないのだから。むしろ死すらも他者から認識されないままでは、死すらも意味を持たない。そこはまさに冥界だ。

 「死ぬのはいつも他人ばかり」この言葉はトゥルニエと同じフランス人の芸術家マルセル・デュシャンの墓碑に刻まれているらしい。皮肉が効いて、それでいて的を射ている。この言葉はクルーソーの感じた観念と似ている。誰も自分の死を認識してくれなかったら、果たしてそれを死と呼べるのだろうか。

 そうして独りで過ごし続けるクルーソーは、ひょんなことからもう一人の男と暮らすことになる。彼はその男を「フライデー」と名付ける。このフライデーの登場によって物語は加速してゆく。

 言葉も通じない、肌の色も文化も違うフライデーによって、クルーソーが作り上げた秩序は崩されることになる。だが孤独だった頃のクルーソーの鬱屈した感情は次第に身を潜め、常にうじうじと考え込んでいた自分勝手で無意味な秩序は、他者との騒がしい生活によって、大した意味をなさなくなる。

 それは確かに、元来原始的な生活を営んできたフライデーのやることなすことは、クルーソーに苛立ちを感じさせるものではあるが、その幼稚な遊びに興じるふたりをあざ笑うものなど当然居るはずもなく、唯一彼らにとって無言の観察者であるわれわれ読者でさえ、彼らの奇怪な行動に口を挟む術などない。

 読書というのはひとつの人生をのぞき込むことに似ている体験だ。たとえ友だちが百人でも千人でもいても、それぞれの心情をのぞき込むことはできない。言葉は心の上澄みしか掬えないかもしれないし、言葉の通じない人種とはそもそも知り合えないかもしれない。

 時々こう思う。ひとは、誰かそのひとを理解したいと思ったら、そのひとの好きな本、あるいは好きな映画、好きな音楽など、何でもいいが例えば十作品ほど教えてもらい、それを共有することのほうが、よっぽど手っ取り早いのかもしれない、と。

 孤独はどこにでもある。人混みの中でさえ、たとえ渋谷のスクランブル交差点の真ん中に立っていても、孤独はそこにある。自分を知る人がそこには誰もいない、そう一度でも思ってしまったら、本当に誰もいなくなる。そこに冥界の深淵はぽっかりと口をひらく。

 頭の中のことをさらけ出すのはなんだか照れくさい。自分のことを語るのはいつでも気がひけてしまう。けれど孤独が恐ろしいのならば、だからこそ誰かと語り合い、共有しよう。たとえなんの返答も期待できないとしても、何が好きか、何が嫌いか、誰かに、どこでも、臆面もなく訊ねてみようではないか。

 「無人島に行くとして、持っていきたい物はなに?」とりあえず次にこの話題がのぼった際は、わたしは試しにこう答えてみよう。「フライデー」と。