ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

ヒーローは物語のなか

 なんでも映画「ワンダー・ウーマン」に主演のガル・ガドットというイスラエル出身の女優さんが、ガザ地区への爆撃を支持したらしく、叩かれているらしい。ヒーローにはふさわしくないからだろうか。それをいったらアメリカンヒーローを演じた俳優たちはみんな戦争を反対しているのだろうか。一度も兵役にははいってないのだろうか。ガザ地区で起こっていることを虐殺だというのなら、アメリカの落とした原爆も虐殺だろう。個人的には戦争を支持するのは全面的に反対だし、戦争はみんな集団虐殺でしかないと思ってはいるが。この問題はただ単に、彼女の思想を叩きたい誰かにとって最適なタイミングだっただけの話ではないだろうか。彼女を擁護するほどこのひとのことを知らないけれど。

 パレスチナでのことは映画には関係ない。現実世界でどちらの側につくかでヒーローなのかヒールなのかを判断するならば、戦争だらけのこの世界でヒーローを演じられる俳優なんていやしない。だから物語がある。物語は理想を描く。物語ではイスラエル人もパレスチナ人も北朝鮮人もイランやシリア人もヒーローになれる。

 そもそもヒーローは勝手だ。どちら側にもある正義を、片方にフォーカスしなければ生まれない存在だ。だからヒーローはそういう側面に矛盾があることを常に悩んでいて、いつも答えはでない。そのなかでもアメリカンヒーローは最も安直だ。シンプルだからといって劣っているわけではない。正義は常にシンプルでなければならない。困っているひとがいるから助ける。決して利己的になってはいけない。ガル・ガドットさんは利己的な正義を振りかざしてしまったのだろう。イスラエルも。誰かのために戦うのはいいが度を超してはいけない。自分の正義で誰かを押さえつけてはいけない。誰かのためだと思い込んで戦ってはいけない。いけないかもしれないが、映画には関係ない。

 正義について考えている。物語には正義が溢れている。というかほとんどの物語は「愛」か「正義」。大まかに分類するとこの二通りしかない。正義を正義たらしめるものが「愛」。けれども愛は正義を見向きもせず、むしろ正義を利己的なものに正当化させてしまう側面を持つ。だが愛無き正義は間違っている。そんなテーマが渦巻いている。なにもヒーロー物に限った話ではない。

 有名なトロッコの話がある。たとえばトロッコに乗っていたら線路上に二人の家族がいて、ブレーキをかけると脇にいる五人の他人が死んでしまい、かけなければ家族が死んでしまう。どちらかを選ばなければならない。というあれだ。

 簡単に考えると、「愛」に重きを置いているひとは家族が助かる道を選ぶだろう。だがそれは「正義」にはならない。利己的な正義とはいえるが。

 いっぽう、五人の他人を救うひともまた、「正義」とはいえない。たとえ正義の定理が命の数で決まるとしても、正義のために家族を犠牲にしても良いという道理はない。

 この問題を解決できるのがヒーローである。彼らは議論もくそもなく目茶苦茶なパワープレーで「正義」を成す。まるでリアリティがない。

 アメリカンヒーローの多くはいつでも片方に荷担していた。トロッコの話に正解はないからだ。ヒーローは常に正解をもっていなければならない。だがいつまでもそれを無視することは出来なかった。アメリカンヒーローはなによりもリアリティを重視するからだ。そうして様々なヒーローがこれでもかと量産されることになった。挙げ句、スーパーマンは法廷に立たされた。あんな容姿をしているにも関わらず。

 日本のヒーロー像はちょっと違う。日本のヒーローはみんなを救おうとして、いつも迷い、いつも答えがでない。もしくは、絶対的な悪と戦う場合にも、一般人を巻き込まないためにいつでも近くにある荒野に飛んでいける。まるでリアリティを気にしない。

 アメリカンヒーローはある意味宗教上、トロッコの議題を片隅に置いたうえで、物語が形成されている。あの人種のるつぼの中で常に正義という概念を究極的に突き詰め、だからこその矛盾があり、それを穴埋めさせる存在として、非常に分かりやすいストーリーと分かりやすい容姿をしたヒーロー像が描かれるのだろう。

 いっぽう、日本には明確なヒーロー像というものがいない(子ども向けのものは除外して)。みんな個人的な理由で戦っていて、信念はあれど、正義を深くは突き詰めない。たとえトロッコの議題を突き詰められたとしても、答えなどないさと嘯くばかり。これも無意識のなかにある宗教観かもしれないし、何度も街を破壊された記憶をもつこの国の独特な、諸行無常観というものなのだろう。

 どちらが正しい正義というわけでもどちらに深みがあるという話でもない。世の中の争いごとの根底には正義しかないのだから。