ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

泣ける〜

 この間、作家の長嶋有さんがラジオで、「作家は登場人物を何時でも殺せる」といっていた。だから人が死ぬ話なんて書くものかと思っていたそうだ。人が死んで泣かせる物語が矢継ぎ早にリリースされていた頃のことだそうだ。

 別にどうということでもないけれど、「泣ける〜」なんちゃら、ではじまる映画や小説などの売り文句をわたしも信じない。

 とはいえ「泣ける〜」という触れ込み自体には大した苦言はない。ようは、世間で「泣ける〜」という話題の多くには、なぜだか「死」が常に付きまとう、ということが許せない、というか苦手だ。

 わたしにとっての「死」という概念は、単純に「泣ける」なんて気持ちを通り越したところにある。もちろん誰かが亡くなることは悲しいことだけれど、わたしにとって、「死」は、涙がこぼれてしまう、なんて単純に片付けてしまえるほどの体験ではなく、人を無気力にさせ、つらく、苦しく、恐ろしく、しんどい事柄だと思うからだ。

 映画やドラマなどでよくみる、まるっきり自分とは無関係な誰かが亡くなってゆく過程などは見たくはない。怖くて恐ろしい死へと向かって進むストーリーとは、わたしにとってはある意味ストレスでしかない。

 今でもあるのかは知らないが、「涙活」と称してみんなで涙を共有する、例の集まりも、わたしにとっては恐怖としか思えない。だが彼らはこぞってストレスを感じたいと思って参加しているわけではあるまい。少し意地悪な言い方をさせてもらうえば、ただ泣いて、スッキリしたいからといって、誰かの死を引き合いに出すだなんて、なんというか、ずいぶん軽率な感受性ではないだろうか。

 もちろんわたしもそういった物語で泣くことも時々はある。感動するし、心を揺さぶられる。けれどやはり、それだけでは済まされなほどにダメージを負ってしまうのも確かだ。涙を流してスッキリ、では済まされない。それ以上にしんどいのだ。

 そもそもなぜみんな悲劇を好むのだろうか。わたしはどちらかといえば泣けるものなら喜劇で泣きたい。

 若者が何度も何度も「死」を追体験することの意味は、なんとなくわかる。うまく説明はできないが、なんとなくならわかる。

 たとえばガス・ヴァン・サントの映画は、わたしの場合わりと丁度良いタイミングで立て続けに観られたとおもう。それと『デッドマン・ウォーキング』や『ドニー・ダーコ』。これも個人的にはあまりお勧めしたい作品でもないが、主人公の「死」の捉え方は、わたしの心のどこかに、常にこびりついている。『罪と罰』を多感な時期に読めてよかったし、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン君の亡くなった弟に対する想いは、今でも切なくなる。『うしろの正面だあれ』。この作品なんて、意地を張って、泣くのをこらえていた自分が馬鹿らしくなるほどに大号泣した。

 だがいつの間にか、死にゆく者たちと同化していると、人はみんな同じなんじゃないかと思えてくる。自分も、スクリーンのなかで死にゆく彼らも、ほんの小さなズレ、どこかで道を逸れたただけのズレ、周回軌道上に小石かなにかがぶつかっただけ、たったそれだけの違いなのじゃないだろうかと思えてくる。

 そうなると、心がじんわりと、しんどくなってくるのだ。そうして、わたしは死にゆく彼らと決別するように、悲しい映画を観なくなる。

  わたしが天邪鬼なだけのかもしれないが、相反して涙もろい面もあるので、そうともいえまい。ともかく今の「泣ける〜」の触れ込みで宣伝されるあらゆるコンテンツの中には、「死」の追体験を伝えようとするベクトルというか意図というか、とにかくそういったものがずいぶん薄味に思えてしかたがないのだ。

 大概のそういった作品は、「死」がテーマであって、実はそうでもない気もする。例えば、物語のなかで誰かが亡くなっても、登場人物たちはそれをひとつの「背負った十字架」のように扱う。ところが、それはなんだかずいぶん軽い十字架で、登場人物はそれぞれ、苦労はすれど、その苦労は物語の舞台装置でしかなく、いとも単純に乗り越えてしまうような、そんな作品があまりに多いような気がする。

 とはいえ、そういった作品を好む人たちの気持ちも、わからなくもない。無理もない。重すぎるものはしんどいし、簡単に乗り越えられるものではないのだから。そんな体験にいちいち自己投影させてもいられないだろう。

 だから、いわゆる「重そうに見えて軽い十字架」を背負う主人公の、ヒロイックな一面だけをみて、単純な同化が望める作品が好まれるのだろう。

 感動には個人差があるから仕方ない。単純に広告戦略の好みなのかもしれない。けれどもう少しだけ、「死」を「感動」に結びつけることは、控えてもらえるとありがたい。