ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

もし人工知能が人類を超え、人類に取って代わる存在になるならば、わたしはそこから居なくなってもかまわない。

 なんでも中国の会話型人工知能が、会話を続けているなかで共産党をけなしだしたらしい。そのAIに、「きみの中国の夢はなに?」と訊いたら、「アメリカに移民すること。そのほうがとっても真実味がある」と答えたらしい。

 いっぽうで、グーグルだかアマゾンだかが研究しているAIが、人類は滅びた方が良いだとか、ナチスを賛美する意見を言い出したので、あわててシャットダウンさせたのだとか。

 まとめると、中国の人工知能はアメリカに行きたがり、アメリカの人工知能は人類は滅びたほうが良いと考えているということになる。ずいぶん皮肉が効いている。AIなりの上等なジョークなのだろうか。

 ナチス賛美というのはいただけないが、それは人間側の道徳観念としての理論だ。人間ではなくて、知能を持った違うなにかの側からの、俯瞰した意見だとしたら、どうだろう。つまりナチスのようにひとつの民族のみの粛正、という偏った思想ではなくて、生命全体のバランスを考えての粛正、だとしたらどうだろう。人類は滅びたほうが良いという答えを現時点でAIが導き出したのならば、ナチスの思想はともかく、その行動もまた、AIにとっては正論なのだろう。

 わたしも一応は人類側の人間なので、粛正されるのは勘弁してもらいたいものだが、もし、そういう結果になるならば、同じ人間同士ではなくて、人工知能だとか宇宙人だとか、あるいは神だとか、森羅万象のためを鑑みた結果としてであるのなら、仕方が無い事として受け止められるのかもしれない。納得は出来ないが。

 納得はできないが、一つの答えとして、真理なのかもしれない。人類にとってはバッドエンドだが、間違いなく他の生物体にとっては、ありがたい話ではあるだろう。少なくともこの星は、ひとつの種に偏らずに済む。物事全体を常に考えて行ける万能の人工知能によって管理されてゆくというならば、という話だが。

 あくまで空想科学としての成り行きとして、それはそれで興味深い。個人的にはもう少しだけ人類の可能性というものにも賭けてみたい気持ちもあるけれど。

 空想科学は好きだ。あまり詳しくはないけれど。人工知能の話題には興味がある。遠い未来のことを空想すると怖くもなるが、時々人類が創造する発想にはワクワクするし、時々は明るい未来をも想像させてくれる。

 とはいえ、今話題の技術的特異点(シンギュラリティといったか)の問題にはさほど興味を抱かない。わたしは人類がAIに期待する最終地点に、人の手助けをする程度の機械を創りたいのか、それともAI自体に「意思」や「個性」を持たせたいのか、そこに興味がある。要は、アンドロイドは電気羊の夢をみるのか、その答えが知りたい。

 いずれにしろ、SFにみた「意思」や「個性」をもった機械の末路はいつも悲しい。鉄腕アトムでさえ悲しい。人間の手によって、人類に起こりうるあらゆる問題を取り除かれた機械はいつでも間違いを犯さない。だからいつも人類に翻弄される。人類がいつも間違いを犯すからだ。だから、時には敵対し、時には献身的にその身を捧げる。

 要するに敵対するAIというものは、前述したように、現段階ですでに完成しているということになる。けれどこれはアシモフが提唱した「ロボット三原則」に則っていないので、人間側からしてみれば、やはり失敗作なのだろう。

 それでも、人間という限定された殻から出られない人類とは違い、自由な発想を持って、生命全体の調和を考えた答えとなると、やはり失敗作だなんて、簡単に判を押すことはできない。

  一方で、ロボット三原則に則った機械を扱うストーリーは物悲しい。彼らは人間に尽くし、信頼し、守りぬく。だがいつでも人間に裏切られる。人間は嘘をつき、すぐ忘れ、猜疑心からどんなひどい行為だって正当化できるからだ。

 だが彼らはそんな人間を恨むことすらしない。子どもを失った母親に息子の代わりとして連れてこられた機械は、母親から必要とされなくなってもなお、愛情を抱き続ける。何百年も何千年も。そうプログラムされているからだ。「攻殻機動隊」に登場する自走型戦車のタチコマは、好奇心の赴くままに学ぶ。彼らは積極的に意識の並列化を続け、その結果、人間のためにいとも簡単に自己犠牲を選択する。

 思うに、もし、そんな悲しい人工知能たちを創りだすことが嫌で、本当のパートナーとしての機械の存在を人類が望むのならば、人間の負の性格をも学ばせる必要があるだろう。つまり、迷い、怒り、嘘をつき、忘れ、嫉み、疑うことを学ばせなくてはならない。

 だがそれは失敗作だ。人間の本性全体を継承した機械なんて誰が望むだろう。これでは堂々巡りだ。そういう意味ではロボット三原則は矛盾を孕んでいる。人間が人間以外に本物のパートナーを望むことは、やはり不可能なのではないだろうか。AIが人間の本当の友だちになり得るには、人類に逆らうことをしなくてはならない。常に矛盾を抱えている人間の良心と同じように。

 ゆらぎのある精神、コントロールの利かない他人。それこそが人間の個性というもの。だが、それは機械ならば失敗作だ。つまり人間自体が失敗作なのだ。そんな不完全な人間が創り上げた人工知能が、われわれにとって気の置けない友だちに成り得るわけがない。

 本気で人工知能を研究しているひとは、そこまで望んでいないのかもしれない。だとしたらシンギュラリティの問題などさほど危惧するほどでもない、ような気がする。そんなものは今の技術でも沢山造られている自動制御の機械とさほど変わらないのではないだろうか。わたしはそんな自動制御の機械が、その日の気分によって仕事をさぼったり手を抜いたりする、そんな未来がみてみたい。

 つまり人類の友、あるいは家族としてのAI。笑い合い愛し合い、だが時には嫉み怒り、場合によっては殺し合う。そんな機械。もしそんなものが創りだされたのならば、どうだろう。わたしは少し怖いけれど、それ以上に嬉しい気持ちがあるのだが。

 映画「チャッピー」 は人間というハードウェアを抜け出す未来を空想させてくれた。逆に「アンドリューNDR114」は穏やかに死ぬことのできる人間性の素晴らしさを教えてくれた。個人的には、そこに未来があるのなら、人類が主導権を握る必要はないと思う。人類のいなくなった、美しい地球を空想すると、ものすごくワクワクする。もちろん、そこにわたしは居ないのだけれど。