ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

子どものいじめを大人はとめられない。かもしれない。

 夏休み明けの9月1日は、子どもの自殺率が非常に高いらしい。高いどころか断トツでトップといってたかな。原因はおそらくいじめだろう。学校へ行かずにいられる期間をやり過ごして、それから自殺してしまうかと思うと、ものすごく痛ましい。

 つらいことを先送りにしている時間はただでさえ辛いのに、やがて時間は迫り、その末にとった選択肢が自殺しか選べなかったと思うと、それだけで、わたしの心はどんよりと重くなる。

 子どもの自殺というニュースを知る度に、なによりも感じるのは無力感だ。大人ができることは少ない。たぶん誰にでも、幼少期のある期間には、大なり小なりいじめられたか、それに似た経験を記憶しているだろう。それと、本人の自覚があろうとなかろうと、いじめる側に加担した経験もあるだろう。もしそういう記憶をひとつも思い当たらない人がいるとすれば、それは、忘れているか、あるいはただ鈍感なだけだろう。

 いじめはなくならない。間違いなく。どんな世界にもそれはある。セクハラ、パワハラモラハラ、etc、悪意のないからかいさえもいじめになる。だが、子どもは大人ほどに、何においても権利がないから、明確に理解されないで放置されがちになるのだろう。

 子どもには子どもの世界がある。それは大人がどうしようと、おそらく変わらない。例え大人の権利を行使したとしても、ほとんどの場合、子どもにとって、それは意味の解らない、単なる規則になったりもするだろう。

 自殺に向かうマインドの軸にあるのは、おそらく孤独と疎外感だと思う。孤独。子どもたちの孤独を思うと胸が締めつけられる。まだ狭く小さく、確立されていない彼らの世界観が、孤独と疎外感で埋まってしまうのは、大人のそれよりもよっぽど簡単なことなのだろう。まったく、わたしでよければいつでも友達になりたいものだが、それすらもままならないことは明白だ。

 もしそれを止めたかったら、当事者たちの意識の変化を促すしかないのじゃないだろうか。子どもたちは皆、自分が何をやっているのか分かっていない。いじめられっ子も、本人が何か別のことに強い興味と好奇心を持てば、自殺というケースは、最悪、免れるのではないか。好奇心は世界を広くするものだから。

 何か他のことに興味があればそれ自体が救いになるし、そもそも夢中になれるものごとがあれば、これはいじめられている場合ではないぞ、と、本人の意識も変化するかもしれない。

 わたしはおそらくこの「意識の変化」でいじめを免れてきたタイプだ。嫌なやつがいても、絵を描きたかったり、海に行きたかったり、きのおけない友だちとあそびたかったり、とにかく他のことに関心があった。そんな嫌なやつにかまっている場合ではなかった。

 それから、めちゃくちゃ筋肉をつけてムキムキになるのもいい。肉体の変化は自信へと繫がる。これもわたしの体験談でもある。もっとも、わたしの場合は真逆だが。つまりわたしも年齢による衰えを目下体験中というわけだ。肉体の変化で自信はめきめきと減ってゆくのもしかりだ。

 あとは、そこから逃げるのもいい。これができないのはいつも不思議に思う。それをダメだという意見も解らない。本人が逃げられないと感じ、追い詰められてしまう感情は、仕方ないと思うが、それ以外で逃げ出さないとなると、逃げたくない誰かが身近にいるのだろう。親とか教師とか。

 逃げるのは悪くない。むしろ第三者の立場から、いくらでもそれを推奨していきたい。逃げ癖なんていくらでも付けてしまえばいいのに。そもそもいったい何と競い合っているのだろう。ベルセルクのガッツも逃げたければ逃げればいいといっていた(ような気がする)。彼は逃げないけれど、そうする人を責めたりはしない。誰もがガッツには成れないし、その必要もない。

 ところで、小説「トレイン・スポッティング」でこういう場面があった。いきつけのバーでレントン(だったかな)が呑んでいると、カウンターに電話がかかってきた。バーの娘がでて、「この中に○○さん、いますか?電話ですよ」みたいなセリフを大声でどなった。常連客はニヤニヤして一向に名乗り出る者はない。娘は何度も同じセリフを大声でどなった。常連客の連中はドッと笑った。実はその「○○さん、いますか?電話ですよ」の一連のセリフは、英語で、うまい具合に言葉の繋がりが「わたしのアソコをなめてくれるかたいますか?」というスラングになっていて、それを知っている常連客がいたずらで電話をかけたのだった。レントンもそれを知っていたのではじめはニヤニヤ見ていた。けれど、その事実に気づいて顔を真っ赤にした娘と、さらに笑いながら騒ぎ立てる常連客をみて、やがて彼は戦慄する。なぜならそれは、レイプに荷担する男達の顔つきだったからで、そして自分もそれに荷担していることに気づいたからだ。

 ものすごい昔に読んだ本だから、かなり文脈は違うだろうが、話の概要はほとんど間違ってはいないはずだ。この物語の登場人物はみんなクズばかりだが、レントンのように、クズはクズでもこういった平衡感覚というか感受性を持っているので、どうも憎めない部分があった。

 要するに、一見して、仲間同士の馬鹿騒ぎや、みんなが楽しくなるはずのいたずらにしても、誰かが不快感を抱くと、それはすぐにいじめの構造と変化するという話だ。そうして、それを無意識に荷担している第三者は、常に楽しんでいて、笑い合い、後々には楽しかった思い出となってしまうという話だ。

 わたしたちに必要なのはレントンの感受性ではないだろうか。いじめはなくならない。けれど、せめてわたしたち第三者の大人たちができることは、いじめの構図を瞬時に見抜いて、例えば周りが笑い合っていても、すぐに真顔になって、たしなめることが必要なのではないだろうか。

 どうか夏休み終わり、真っ黒に日焼けした子どもらがみんな、楽しげに、友だちと言葉を交わし合えますように。