ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

誰のせいそれはあれだ

 8月は雨ばかりで、後半になってうだる暑さが戻ってきたので、反射的に『サマージャム95』をYouTubeで聴いていると、コメント欄に「これ20年以上も前の曲なんだ」というような、感嘆する意見が目にとまった。

 それで思い出したのだが、むかしアルバイト先で、見た目がものすごくヤンキーだが可愛らしい女の子が、175Rだかモンゴル88だかを聴いていた。当時、そういう子がいわゆる「メロコア」と呼ばれていたジャンルを聴いているのが珍しかったので、そう話すと、あなたは何を聴いているのかと彼女に訊ねられた。あれも暑い夏だった。

 わたしは当時、RANCIDとかSablimeとかNOFXなんかに入れ揚げていたのだけれど、わたしが得意げにそれを伝えると、彼女はキョトンとした顔をしたので、軌道修正するように、わたしはスチャダラパーなどが好きだといった。

 すると、彼女は「ああ、スチャダラねー」といい、「懐かしーわたしも聴いたなー」といった。わたしはその「懐かしい」という感想に今度はこちらがキョトンとなってしまい、その時に、おや、これは?となにか違和感のようなものを感じた。これはもしかして、好きな音楽の話を女の子とするのは、殊のほか難しいのではないだろうか、と、切実に感じたものだ。

 その出来事以来、だったかどうかは判然としないが、ともかくその頃からわたしは、優れたものは必ず時空を越える、という持論をもっている。

 今でこそインターネットの普及によって、みんな良い物、良い作品を時系列関係なく触れあうことも出来、たとえ一度は忘れ去られたものも、良質なものは誰かしらに拾い上げられたりする素晴らしい時代だが、実はそれはいつでも普遍的なもので、有史以来、人類はそうやって一度はロストしたかにみえるものは、どこにいっても何時の時代にも、必ずいつかは掘り起こされるものだと思っている。

 大体にしろ、ミラン・クンデラガルシア・マルケス大江健三郎夏目漱石も、好んで読んでいた時分に、誰が死んでいて誰が生きているのかなんて関心もなく、まして、たとえ思い起こしてみても、「いたねー」だとか「懐かしいなー」だとか思わない。彼らは常にそこに居て、おそらくこれから百年後もそこに居るからだ。

 あの時の会話でわたしが戸惑った理由も少なからずそこにあった。まあ百年後とまではいかないが、スチャダラはわたしにとって、常にそこに居る存在だったからだろう。

 とはいえ、今だからこそ、そういった一見して正論のような屁理屈をぐだぐだと並べられるわけだが、同時の自分がそんなことを考えていたわけではもちろんなく、ただ、その子の言葉がなんだか上から目線というか、さも、自分のほうがカルチャーの最先端をいっているんだぜ、というふうな物言いに聞こえてしまい、なんだか悶々としてしまったのだろう。

 だから、当時のわたしは、彼女がスチャダラパーを例の小沢健二がコラボレーションしてヒットしたあの曲目だけの、一発屋の流行りもの音楽と決めつけられたように受け取り、ただ絶句してしまい、お互いに好きな音楽を語り合うこともせずに、この子は自分とは価値観から何もかもが違うんだ、と勝手に決めつけて、青臭いやっかみを含んだ想い出へと変容させてしまったのだろう。わたしが彼女のことを少しだけ気になっていたにもかかわらずだ。

 若く愚かだった頃の想い出はいつも、屈辱に満ちている。なぜか惨めな気持ちでいっぱいで、格好つけることばかりが頭を巡り、狭い世界観を自ら作り上げ、境界線を引き、そこから飛びだそうともしない。盲目的な価値観で、知ったふうな口をきく。それは仕方がない。誰のせいでもない。強いていうならば、誰のせいか?それはあれだ、夏のせい。スチャダラもきっと言うに違いない。

 兎にも角にも、カルチャーというのは忘れられるものだ。そうしてそれは渦となりひとつひとつの砂粒となって埋まり、一度は忘れ去られ、再びふるいにかけられ、やがてどこかで誰かに見つけられるものなのだろう。自分の好きなものが常に誰かの好きなものとリンクされ続けてゆくのは、嬉しいものではないか。

 本当は、「懐かしい」とだけ、誰かしらに思い出されるのも悪くない。常にそこに居なくてもいいのだ。常に自分の好きなものが時空を超える普遍的なものである必要はないのだ。時々思い出すだけいい。わたしがこうして今、思い出したように。なぜそれを当時のわたしは受け入れられなかったのだろうか。

 夏の想い出はいつも懐かしい。懐かしいなー、わたしも聴いたなー。それでいいじゃないか。なぜ彼女をもっと知ろうとしなかったのか。食ってないねアイス、行ってないねプール。スチャダラも懐かしんでいる。あれは笑ったね、行きたいなまた。

 あの頃のわたしがまるでこの世の真理とばかりに聴いていた音楽も、もちろんヤンキーのあの子が聴いていた音楽も、もしかしたらまた誰かが見つけて、再び評価される運びとなるかもしれない。その時にこそ、時空を超えた良作ともなるかもしれない。

 夏になると想い出すことがある。そんな時、こんな曲流れてたりするのだ。手持ち無沙汰でつけたラジオから、クーラーとヤニの臭いにまみれて。