ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

拒絶しないで食べてほしいと思う

 昼におにぎりを三つほど食べる。しらすと梅をあえた小ぶりのおにぎり。どうしてひとの握ったおにぎりはこうも美味しいのだろう。ただ塩を振ったただの白米でさえ、ただ握っただけで、どうして美味しく感じるのだろうと、いつも不思議に思う。ひょっとして隠し味は愛情かまごころか、なんてチープな感想すら述べたくもなる。

 夏になると必ずといっていいほど、食中毒はおこってしまう。これほど清潔な世の中になっても、どこかの店やスーパーでそれはおこってしまう。いや、或いは、清潔な世の中だからこそ、そういう事件が明確になっていくのかもしれない。

 ところで、ひとの握ったおにぎりなどを食べられないひとが近頃増えていると聞いた。その理由として、みんながみんな、食中毒を危惧しての選択というわけではあるまい。なんとなく、経験上、それ以外の理由で食べられないひとのほうが、多いように思えるからだ。

 わたしの周りにもそういうひとはいることはいる。どういうわけか、そういうひとのNGはそれぞれまちまちで、自分の母親以外のおにぎりを食べられないというひともいれば、母親でもダメだが職人が握った寿司ならば平気というひともいる。かと思えば、ひとと同じ鍋をつつくのはダメだが、おにぎりは大丈夫というひともいる。それぞれ違っていて、ちっとも法則性を見出せない。

 これはどういったことなのだろう。一貫性のないものだから、それぞれが持つ潔癖症の類いなのだろうが、以外と、電車のつり革などは平気で触れたりもするし、部屋をそこまで小ぎれいにしているわけでもなかったりもする。

 いずれにしろ、ひとのこだりや好みは人それぞれだから、必要以上に口を挟むことも、無理に正そうとするわけでもないが、戸惑うというか、ただ率直に、生きにくくはないのだろうかとは思う。

 徹底的な潔癖症で、それが本人でも制御不能なほどに生活を難しくしているということならば話は別だし、気の毒なことだから、なにか手を貸せる部分があれば協力していきたいこともあるが、そういうわけでもないひとは、そういう自分の固定観念など捨ててしまえばよっぽど楽ちんなのになぁ、と感じるのは、わたしがよっぽどずぼらな性分だからだろうか。

 単純に食べ物の好き嫌いが多いひとにも同じように感じてしまう。そういうひとのまるで一貫性のないこだわりというか、単なる食わず嫌いは、実は発想の転換で乗り越えられてしまうことなのではないだろうかと、他人事ながら考えてしまう。

 魚卵が食べられないとか好きじゃないとか、甲殻類が一切食べられないだとか、パクチーのニオイが嫌いだとか、そういう原料そのものの明確な好みの問題となれば、干渉する筋合いもないが、大根は好きだけど大根おろしは食べられない、だとか、ゆで卵は大好きで生卵は大嫌い、だとか、キノコ類はだめだが松茸は好物、なんてピンポイントで謎の好みをいわれると、こちらも一言申し立てたくもなる。

 「わたしはきみのお母さんのおにぎりを食べられるが、きみはわたしのお母さんの握ったおにぎりを食べられない。きみの握ったおにぎりもわたしは食べられるが、きみはわたしの握ったおにぎりは食べたくないという」

 何だかまるでビートルズの歌の歌詞のようだ。

 食べられないのだから仕方が無いといえばそれまでだが、その理由が精神的なものであるのなら、この際だからちょっとばかり云わせてもらうと、「わたしがYESといい、きみがNOというのなら」わたしはきみとの間に線を引くことになる。きみの引いたその線をなぞるように。

 潔癖はある意味、拒絶だ。違うというのならば、それもそうかもしれない。手を取って親しみを込めた挨拶を、「キモい」と思うならば、それも仕方の無いことだ。けれどひとこと云わせてほしい。誰かのためになにかをすることは、きっときみのため、良かれと思ってとった行動だ。ありがた迷惑と思われても、キモいと思われても、そうしたくてそうするのだから。あんまり拒絶せず、できれば受け入れてほしいと思う。

 だからといって汗だくの脂くさい中年おじさんの握ったおにぎりを、わたしが身構えないかといえば、そうでもない。そうでもないが、そのおじさんがニコニコしながらおにぎりを差し出してきたならば、わたしはきっと食べられるだろう。いや、どうだろう。自信はないが、そうしたいとは思う。ともかく、気持ちだけは前のめりで受け止めたい。

  わたしは祖母の剥くみかんが大好きだった。祖母はいつもみかんを剥いてくれた。白い筋もきれいに取ってくれた。そうしてコタツに寝転がっているわたしの口もとまで運んでくた。なんなら時として薄皮も剥いてくれさえした。

 わたしにとっての至福の時間が、ひとによってはそうでもないことは仕方が無い。けれど、誰かが善意で差し出してきてくれたものは、みんなが笑顔で受け入れられたらなぁ、と素朴に思う。そんな夏の終わりの午後。