ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

かつて怖かったもの

 記憶は常にかすんでゆく。良いことも悪いことも。かつて怖かったものを思い出してみる。思い出さなければ、思い出さないから。何処へも飛ばない飛行訓練のため。

「まぜるな危険!」の文字

 昨夜キッチンのシンクを掃除した。ゴミ受けのアルミのアミ(?)と、配管をかくす円錐状のプラスチックのやつ(?)を、ハイターにつけておき、しばらくしてから水で洗い流し、配管のなかにパイプユニッシュを流し込むと、眼にギュンという刺激が飛び込んできた。即座に、「まぜるな危険」の言葉が思い浮かんで、すかさず換気扇を廻した。

 「まぜるな危険」の文字を意識しだしたのは、わたしが小学校くらいの時からだ。風呂掃除をしていた主婦が違う種類の洗剤を混ぜて使用し、亡くなってしまったのだ。当時、ワイドショーでもその事件はかなりの頻度で取り上げられていたのを記憶している。家庭にある日常用品が劇薬になりうることに、かつてのわたしは恐怖したものだ。

 それからその文字は巨大化した。黒縁で黄色の文字、命令調に「まぜるな」それから赤い文字で「危険」。どちらも太いゴシック体。日常からの危険喚起。その文字がなぜだか恐ろしかった記憶がある。

 

スズメバチ

 晴れた日、浜辺へと続く藪のなか、海水パンツ一丁で通り過ぎていると、希に飛んできた。黄色く不自然な球のように、どこからともなくやってくる。予測できない軌道を描き、耳許を掠めるたびに、やつらはあり得ないほどに不気味な羽音をたて、ハダカの無防備なわたしを戦慄させる。

 やつらの巣も恐ろしい。古びた小屋や倉庫の軒先にそいつはある。人工的で無機質な建造物にとりついた、禍々しい巨大なまだら模様の瘤。それ自体はいつも静かだが、間違いなく人を寄せ付けない存在感をもっている。

 やつらは自分たちの住処を隠そうともせず、力強く主張している。だがその瘤にあまり気を取られてはならない。もうそこは彼らの縄張りだからだ。振り向けば黄色いヤツらが不気味な羽音をたてて近づいてくるかもしれない。

 

フリークスカード

 そういう名前のカードだったと思う。ある日友人が嬉々としてみせてくれた。「これはなに?」と、わたしが聞くと、彼は確かに「フリークスカード」 と言ったと思う。

 そのカードの写真には、見たこともない異形の人たちが載っていた。おでこにもう一人の顔が付いている男性。ひげずらの女性。小人症。蹄をもつ少年。ガサガサにひび割れた肌をもつ男。

 恐ろしくもあったが好奇心に負けたわたしはそのカードを一枚一枚、夢中になってめくった。写真はどれもモノクロだった。

 今でこそ、それらは病気か何かの障害でそうなってしまった、気の毒な方々だと知っているが、当時のわたしはまるで妖怪か、なにか人外の仕業だと思い込んでいた。

 本物の写真もあるだろうが、おそらく合成の写真も混じっていたと思う。そういうカードが発売されていた時代も時代だが、ものすごい記憶の片隅に残っている映像なので、わたしが見たものは全て幻想のように思える。むしろそのカードすら存在していないものだったのかとさえ、今では思える。

 

箱女

 浅草や川崎大師などに行くと、見世物小屋があった。すごく小さな頃の記憶だから、たぶんわたしが小学生にあがる頃にはもう見世物小屋はなくなっていたかと思う。おそらく人権団体の圧力かなにかでそれらは消滅してしまったのだろう。

 幼いわたしが「あれなに?」と訊くと、大人たちは皆、「くだらないからやめときなさい」といった。あんなもの子供だましだよね−、と笑い合っていた。じゅうぶん子どものわたしは非常に興味があったのだけれど、一度として見学することはままならなかった。

 代わりに、母親が子どもの頃に入った見世物の想い出を話してくれた。小人だとか、二メートル近くある大女がいるのだといっていた。そのなかで、彼女は「箱女」がいつも不思議だったという。「箱女」は幼い頃に箱の中で育てられて、そのまま成長してしまい、箱から出られなくなってしまった女性だったという。

 「怖い?」とわたしが訊くと、怖いというよりも、不思議だったと母親は言う。箱は木箱だった。木箱から首だけが出ている女性とのことだった。どうして誰かが箱を壊してあげないのだろうと、常々思っていたと言う。 

 わたしは母親のその淡々とした態度に、余計な想像力を掻きたてられた。箱女の箱の中身を想像した。首から下の、箱の形に変形してしまった身体を想像し、背筋を凍らせたものだ。見世物小屋がただの子どもだましのくだらない商売ではなく、本当に恐ろしいもので、大人たちはいたづらに子どもらを怖がらせないため、口裏をあわせているのだと、確信していた。

 だから、後に「スケバン刑事」で鉄仮面を被せられた育った女の子をみても、社会とはそういうものだと、あれを現実味のあるドラマとして見ていたものだ。

 それにしても、フリークスカードといい、合成やインチキではない、本当の彼らは何処へいったのだろう。医学の発展でそういう珍しい症例のひとが産まれにくくなっているのはわかるが、少しばかり身体的にひとと違うことを障害者として括ることは、どうなのだろう。

 そもそも見世物がそんなにダメなものなのだろうか。それをいったらお笑いや演芸だって、ある意味見世物だろうし、素晴らしい芸人の中には明らかに社会不適合者のような変わったひともいるだろう。それだって障害ではないのだろうか。ただ肉体的に不自由な方たちを、障害者と一括りにして、健常者にかわいそうと思われることが、彼らにとって本当に望んでいることなのだろうか。

 

クッキー

  最後はこれ、名前がなんとなく嫌いだった。理由はわからない。考えたこともない。ただ直感的に嫌いなだけだった。クッキーの味も好きではなかった。というか味が嫌いだから、それを連想させる名前自体が、ただ嫌いだったというだけの話だろう。

 冷蔵庫の上にクッキーのアルミの箱が置いてあった。中身は違うものだと知っていたが、風邪などをひいて寝込んでいる時に、このクッキーという丸ゴシックで可愛らしく描かれた文字が視界に入ってくるだけで、ひどい時にはもどしてしまうことさえあった。

 野性爆弾の川島さん(だったかな?)がくっきーに改名したらしいが、彼はまったくこの話には関係ない。むしろ彼は大好きだ。