ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

「おじさんが聴いている歌」と、「歌っているおじさん」

 最近はなぜか黒ビール(いわゆるスタウトというべきか)、が無性に呑みたくなる。ところがこれが行きつけの飲み屋には用意がない店ばかりだということに、呑みたくなってから気がついた。

 こういうことはちょくちょくあって、以前は細いポテトが同じように無性に食べたくなったが、これも地味にメニューにない店が多いことに気がついた。あったとしてもお洒落げな、皮付きのポテトだったり。わたしとしてはマクドナルドのようなチープな味を無性に求めているのだが、そういったポテトを提供しているのは、思いつく限りでは、カラオケボックスやファミレスで、もはや自分がそういうチェーン展開している店舗には、あまり足を運ばなくなったことにも気づかされる。

 その前は「ねるねるねるね」で、その前は、ふ菓子の「ふ〜ちゃん」だった。これらはなぜか定期的にわたしの体が欲っするのだが、ポピュラーな駄菓子ではないにしろ、いざ探してみると見つからないもので、ここまで幼稚な駄菓子ともなると、年甲斐もなく、店員さんに聞くわけにもいかない。

 そんな話題を、「年はとりたくないものだね」なんてひと言で片づけるにはいささかずれていはいるが、それで思い出したといえば、この間テレビで若い女の子が、

ミスチルはおじさんが聴いている歌。サザンは歌っているおじさん。」

 というようなことを言っていた。

 それを聞いて、わたしはどこかストンと腑に落ちるというか、十代とおぼしきその女の子の、おじさんという概念に対する認識を簡潔なまでに語った言い分はまさに合点がいったというところではあった。

 もちろんおじさんのわたしがいうのもなんだが、男子というものは常に、いつから「おじさん」になったのか分からないものだ。それは具体的な年齢の話でもなくて、日頃からどういう振る舞いがおじさんなのかだとか、これはおじさん的な振る舞いだから気をつけなくては、などと社会的立場から警戒しているということだ。

 ところが、そういった自己への警戒はすれども、若い人からみた「おじさん像」というものが自分では一向にボンヤリとしたままでいるものだから、備えるべき事柄もやはりボンヤリをしてしまうのも無理はない。

 たまに、わたしよりも遙かなるおじさんが、

 「おれなんかさぁ、同世代のおっさん達なんかより、若い子とのほうがよっぽど話が合うよ〜」

 なんて、いっているけれど、

 つまりこういう人がいるということは、まさにおじさんが、若い人からみた自分像をまるではき違えているという確たる証拠になるのだろう。

 それで件の彼女の、「ミスチルはおじさんが聴いている歌。サザンは歌っているおじさん。」という持論を聞いたとき、わたしは自分の心情にすっぽりと隙間無くフィットした慣用句を言われたような、そんな気分になったわけだ。

 確かにミスチルはジャストでわたしが青々しさ真っ盛りの頃に流れていた。まあその頃のわたしとしても、サザンはすでに「歌っているおじさんたち」だったわけだけれど、彼女の、推測するに括弧書きのつく、

 「(なにやら)歌っているおじさん」

 というようなニュアンスではなくて、あの頃のわたしは、かなりクールなバンドという認識のもとに、サザンオールスターズを聴いていたことは確かだ。

 彼女のいうところのその感覚は、どうだろう。わたしに照らし合わせると、さだまさし美空ひばりといったところだろうか。いや美空ひばりはかなり好きだったから、(なにやら)というわけでも、まして、歌っているおばさんなんてゆるい認識ではなかったはずだ。

 まったくよく知らない、という認識程度のかたといえば、加山雄三も思い当たるが、その加山雄三は、今の若者が再発見(ともいうべきか)して、数々のフェスやライブに参加しているというから驚きだ。わたしも改めて聴いてみると、なるほど、かなり素敵な音楽だと感じるから不思議だ。