ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

飛び込め、躊躇なく。

夏の海の想ひで

今日は山の日らしいが海の想い出。

 

 幼少期、海の側で育ったわたしは夏のほとんどを海で過ごした。いや夏どころか、五月の連休あたりから九月の終わりまでの間、ほぼ毎日のあいだ、日が暮れるまで近所の海辺で遊んだものだ。

 五月の海水はまだ冷たかった。わたしたちは海岸で貝殻を集め、大きな砂団子を作り、朝早くに出かけては潮だまりにとり残された小魚やカニを捕った。そういうふうにして海水の温度を毎日確かめながら、太陽が常に真上にいるような日には、ここぞとばかりに泳いだものだ。

 わたしの育った町の海は、かつての戦争で造られた砲台の跡やら、なにかの施設跡地やら、わけのわからない朽ち果てた建造物が所々にあり、それらは海にも点在していた。わたしたちはコンクリートのその四角い塊をめがけて泳ぎ、時には上によじ乗り休憩し、それから、飛び込んだ。

 戦争跡のそれは強大なものから、子どもが数人なんとか乗れる程度のものまであり、そいつは、近所の海岸沿いから隣町まで点在していて、高さも大きさもそれぞれ違っていた。そこから飛び込むのは飽きなかった。

 なかでも近所の海岸にある突堤は巨大で、そこは保安庁の船着き場になっていた。保安庁がいるのだからもちろんそこは遊泳禁止なのだけれど、子どものわたしたちにはそんなことは構わなかった。

 突堤へは海側から進入できた。突堤の中腹には海へと下る石の階段があり、そこへめがけて泳ぎ、階段をのぼる。引き潮時には階段の最下段が高くよじ登れず、子どもらはみんな浜辺で満ち潮を待ち、階段が上れるほどに潮が満ちるのを確認すると、一斉に海へ入っていくのだ。

 それからわれわれは、さらに潮の満ちるのを階段に座って待ち、海の底が黒く深くなるのがわかると、階段のてっぺんへと駆け上がり、次々と海へと飛び込んだものだ。突堤はどれくらいの高さだったのだろう。おそらくビルの二、三階くらいの高さはゆうにあったと思う。だから下級生やその高さに馴れない子らは、簡単には飛び込めないのだが、そこはうまい具合に階段を利用して、見合った高さから飛び込みの訓練ができ、あとは勇気と度胸が十分につくと、皆てっぺんを目指した。

 その階段では、年少の子は年長の子に、正しいかどうかは知らないが危険を回避する飛び込み方や、潮の満ち引き、カレントの特性、モリの突き方、足ひれの使い方などのあらゆるルールを自然と教わったものだ。

 さらに、突堤のてっぺんへたどり着くには二つのリスクがあった。ひとつは階段の最上段には錆びきった有刺鉄線が張り巡らせられていて、わずかにこじ開けらた箇所から乗り越えなくてはないこと。もうひとつは、たとえそれを乗り越えたとしても、保安庁の大人たち見つかると、つぶさに捕まえにくることだった。

 つまり子どもらがてっぺんに行き着くには、なまなかな度胸ではたどり着けなかった。それに、一度たどり着いたら、保安庁の職員が捕まえに来る前に、素早く海へ飛び降りる勇気も必要だった。初めてそこへたどり着いた子らは、その高さに逡巡している間に、保安庁に捕まり、こっぴどく叱られることも度々あった。

 そういうわけで、突堤のてっぺんから飛び降りられる子は、皆から羨望にも似た感情を抱かれるのだった。わたしは兄弟で物心ついたころから浜で遊んでいたので、年長者に混じって有刺鉄線をよく越えた。特に兄は運動神経もよく、ほかの年長者もなかなかできない側宙やバック転などの技を披露し、飛び込むことができた。そういったいわゆる大技で飛び込むと、階段で待機していた子どもらから一斉に拍手がおきた。わたしも兄には遅れてだが、すぐに、ちょっとした飛び込み技術を披露することができ、その浜では皆から一目置かれる存在になった。海面に激しくたたき付けられ、音の無い海中からあがり、やがて聞こえてくる仲間の拍手はものすごく心地のよいものだった。

 保安庁に捕まる子は定期的にいた。捕まっても、「あぶないからよしなさい」だとかキツめに注意され、「きみはどこの子だ?」だとかなんだとか、多少問い詰められはすれど、いづれにしろ、すぐに保安庁の正式な出入り口から帰された。

 それでも、知らない大人に怒られること自体が、子どもらにとっては、いつの世も、最大の恐怖であることに変わりは無いだろう。

 怖じ気づき、飛び込めずに大人たちに捕まる子らを、誰も責めることはしなかった。第一に、例え捕まっても、誰ひとりとして仲間を売ろうとはしなかったし、あの高さから飛び込むということが、どれほどの勇気を要するものかを、誰もがわかっていたからに違いない。

 とはいえ、保安庁の大人たちも近所の悪ガキにばかりに毎日かまけてもいられないようだった。普段は突堤にあがってくる子どもらがいると、拡声器で建物から注意する程度であった。なかなか飛び込めずに何十分もうろうろしている子どもがいると、彼らは仕方なしに建物から出てきて、その子を捕まえようとするのだ。

 ある日、そんなイタチごっこにうんざりしたのか、保安庁の職員たちは数台のバイクで突如として登場し、数人の子どもらを一挙に捕まえたことがあった。ちょうど、皆で集団で有刺鉄線を乗り越え、飛び込み技術を披露しようとしている矢先を狙ったのだろう。普段徒歩で近づいてくる職員にすっかり油断していたわたしたちは、バイクの機動力を目の当たりにし、呆気にとられるまま、つぶさに捕まった。

 あれは単に、危険な遊びに興じる子どもらにお灸を据えようとしての行動だったのだろうが、わたしたちにとっては、たいそう戦慄する出来事だった。なにしろてっぺんに上がったら少しの躊躇もなく飛び込まなくてはならなくなったからだ。

 

 やがて盆になると大人たちに海へ入るのを禁じられた。「海へ入ると何かに足を引っ張られるぞ」などと口々に脅されたものだが、真相はともかく、子どもらも自然と、その言い付けを破ろうとはしなかったものだ。

 だから盆はいつでも退屈だった。いや、常に幼少期というのは退屈そのものだった。退屈を最大限に謳歌し、いつしか想い出が輝かしい毎日に変えるのだ。線香の匂い。的屋が流すナイター中継。ギイギイ軋む公園の遊具。団地から聞こえる念仏。今ではすべてが良き想い出になる。

 われわれは砂浜で花火をした。大人が付き添いに来ることもあったし、子どもらだけで楽しむ場合もあった。そんな時、火の始末は年長者が責任をもっていたが、海辺ではそこまで警戒する必要もなかった。

 花火を終えると、波打ち際でキラキラと光る夜光虫を眺めたものだ。その輝きは花火の人工的な光などよりも、よっぽど美しいものだということは、みんな知っていた。知っていたがそんなことにはなんの関心もなかった。美しいだの綺麗だの、そんなものにはまったく興味はなかった。代わりに楽しむことだけにめいっぱいの関心があった。

 八月も終わりに近づくと、浜で会う子らの数も次第に減っていった。思えば名前も歳も知らない子らも沢山いた。わたしたちは飽きもせずに突堤で泳いだ。日焼けした茶色い皮膚はすでに何度も剥けていた。雨でも泳いだ。土砂降りのなかで泳ぐのはなかなか気持ちのよいものだった。

 台風がやってくるとわたしたちは胸を躍らせた。台風が去った翌日、わたしたちは喜々として浮き輪を片手に、朝早くから浜にでかけた。浜には様々なものが打ち上げられていた。魚の死骸やらウミウシやらペットボトルやらに混じって、盆に流した野菜が転がり、流木やまだ青々とした海藻が波間に集まりそれらを堰き止めていた。

 波は普段の穏やかさからは信じられないほどに激しかった。わたしたちはそれまで倉庫で眠っていた浮き輪に尻を差し込み、うねる波間に挑んでいった。

 今ではその浜で泳ぐ子どもらは見当たらない。第一、海はずいぶん汚れてしまった。それに、保安庁の遊泳禁止の海などで泳ぐこと自体が、現代では不可能だろう。そうだ、今はどうだろう、おそらくそんな危険な子どもらの遊びをしっかり取り締まらない保安庁は、世間からひどい批難を受けるだろう。沖の突堤ではしゃぐ子どもらも、その親たちも。不用意だの危機管理不足だのルール違反だの何だのと、手ひどい批判を浴びるだろう。

 だがわたしは忘れない。そこから飛び込む勇気。恐怖心の克服。仲間たちとの通過儀礼。満ち潮を待つ焼けた背中。潮だまりの小さなハゼや、巨大なマゴチ。真剣に叱り飛ばす、やさしい大人たち。夕暮れ時、真っ黒に塗りつぶされたわたしたち。波間できらきらとゆらめくビーチサンダル。死滅回遊魚。沖へと泳ぎゆく小さい無数の頭。沖の冷たさ。オレンジ色の太陽。むせかえる潮の匂い。無数の切り傷。今でも残る疵痕。

 あの頃、夏を暑いとは思わなかった。常に汗をかきながらもなぜだか暑いとは感じなかった。

 今日からわたしも短い夏休み。海へは行かない。泳ぎもしないだろう。この炎天下、どこかへ出かける覚悟もない。汗をかく度胸もないだろう。

 浜で出会ったほとんどの仲間たちが、今どこで何をしているかは知らない。連絡もとらない。探そうとも思わない。

 少年時代のすべてが輝かしいとは思わない。スティーヴン・キングでもないがこう結ぼう。

 だがわたしは知っている。あの頃と地続きにある今のわたしは、いざとなれば、いつでも飛び込めるだろう。

 なにも躊躇なく。