ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

ロメロのゾンビ

ジョージ・A・ロメロが亡くなった。

わたしもロメロのゾンビ映画は大ファンで、今でこそ、こぞって追いかけたりはしないが、ゾンビ映画を肴に一晩飲み明かせといわれれば、今でもよろこんで語り明かせる。

かつて同じゾンビ映画ファンと語り合っていると、自分とはちょっとした見解というか、見所の違いともいえることを、毎度感じていたことを思い出す。

わたしがロメロのゾンビ映画への感想として連想するのは、「ルサンチマン」それと「衝動と扇動」。それらがすべて「暴力」として表現されたもの。

これが「ゾンビ」であった。

ところがそのゾンビには、暴力(カニバリズム)という衝動の他にもなにかある。それは健康だった頃の習慣だったり行動だったり。

うろんとしている彼らの意識の中に残る、いや、残っているはずの人間だったころの無意識に、わたしは興味をもった。

ナイト・オブ・ザ・リビングデッドが製作された頃の、初期の「ゾンビ」の設定は、おそらく、社会的・人道的に底辺とみなされる人間を描くための隠喩表現だろう。これは間違いない。作品自体を楽しみたい性分なので、製作の時代背景なんてものはあまり語りたくはないが、ゾンビに襲われた主人公を献身的に助ける黒人男性も隠喩的にみれば、ゾンビたちと対照的に比較されてみられるはずだ。

徒党を組む暴力。理不尽。不衛生。理解不能の行動。醜い容貌。これが「ゾンビ」。

だからこそ、こんなふうにはなりたくないという感情があるからこそ、わたしたちは逃げ惑い、時には撃退する。

けれど、まてよ、とわたしは思う。

徒党を組む暴力。理不尽。不衛生。理解不能の行動。醜い容貌。

これらはすべて人間にも当てはまるじゃないか。

そして、こういう人々に対する感情。こんなふうにはなりたくないという感情も、同時にわたしには理解できる。

これらを嫌悪する感情の原動力は、差別意識なのかもしれない。

わたしは職を失い、ホームレスになる。風呂にも入れずに街をさまよう。衣服はボロボロになり、異臭を放つ。腹が減り、ゴミを漁り、なんでもかんでも口に入れる。徒党を組むのと人を襲うこと以外はゾンビと何も変わらない。ここに恐怖がある。

人を食べ、仲間にするという隠喩表現のなかには、「彼らに近づくと同じ人間になってしまう/同等に扱われてしまう」という差別意識があるのかもしれない。

 

けれど、まてよ、若かりしわたしはふたたび思う。

 社会に溶け込み、身ぎれいにして、ピカピカして、人に迷惑をかけずに生きることがそんなに偉いことなのだろうか?

 

若いわたしのルサンチマンは、徒党を組んで爆発する。

若く、金もなく、みすぼらしくズボンをズリ下げて歩く私の心たちは、やがて行進をはじめる。周囲に何かを主張したくて、けれどそれをうまく言い表せずに。自分たちだけがわかる言葉をぶつぶつとつぶやき。近づいた人間を懐柔しようと試みる。

そんなことを考えていると、人間を食べる恐ろしいゾンビのはずが、食べるという衝動を抑えきれず、食べることで仲間になるという相反した習性に戸惑いながら、仲間にしたいと頭の片隅で感じながら、うっかり手足を食べてしまう。そんなふうにみえてきてしまい、なんだかよっぽど人間らしく感じてしまうのだった。

だからゾンビ映画に夢中になっていた頃のわたしは、どうしても撃退する側の人間に感情移入できなかった。

たしかに銃を撃ちまくる人類側の衝動も、若いわたしには魅力的だった。たしかにわたしは、友人らと車の中でデスメタルを聴きながら、交差点やショッピングモールなどで、あふれる人々を眺め、そいつらをゾンビになぞって、笑い合っていたこともあり、終わった世界を自由に征服してみたいと思ったこともあったわけだが。それでもわたしは、確かに撃ち殺されるゾンビ側のほうに、より強いシンパシーを感じていたのだった。

わたしはビッグ・ダディーに牽引されたかった。なにもわからないまま、女の子と手を繋ぎ、目的もわからずに彷徨いたかったのだ。

 

とまあ、なんてことを普段からしょっちゅう考えていたわけでもないが。

 

とにかくゾンビ映画は単純な娯楽として優れているとは間違いなく思う。

ロメロさんのご冥福をお祈りする。