ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

ポケットに押し込んで。

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 雨でも降ればいいのになとおもっていたら、天気予報が応えてくれたので、傘を持って仕事に出かける。

 なんとなく心がぱんぱんに膨らんで、それからいまにも萎みそうだった。肩こりと軽い頭痛ですこし気持ちが悪かった。誰か他人が恋しかった。赤の他人が。雨でも降れば電車に乗れるのにな。そう思っていた。ぎゅうぎゅうの電車に揺られて膨らんだものすべてを、赤の他人に破裂させてもらいたかった。

 

 わたしはわりと、今もだけれど、自分の人生に必死なので、遠くで起きた不幸には目を背けてしまう。世の中の理不尽にどこまで心を痛めればいいのか、その距離感をつかめずにいる。

 事情を知らずに語ることは野次馬根性に似ているし、どちらかいっぽうに肩入れすることが本当に正しいことなのかを分別できずにいる。いつでも。

 だから世の中のどんな悲劇も日々流れていくニュースのひとつとして聞き流し、知ることすら避けていた。なにもできない自分に目をつぶっていた。

 

 繰り返すあやまちの そのたびひとは
 ただ青い空の 青さを知る

 

 どんよりと曇っていた。ホームではみんなつまらなそうにしていた。紺色の鞄を肩に掛け銀色の電車に乗った。オレンジのスニーカー。ベージュのショール。青いバッグ。黒い靴。ねずみ色のコート。グリーンの縁取り眼鏡。ありふれた色でよかった。なんでもいい。何かを感じたかった。つまらなそうな見知らぬ顔に安心をおぼえた。

 

 世の中の痛ましい事件や事故にいちいち心を砕いていたら、それこそキリがない。ひとに親切にするのも、誰かを思いやるのも、偽善の域を超えることはできない。そう思っていた。

 あの頃のわたしはまだ若く、愚かだった。センチメンタルな感情で、欺瞞だらけのこの世界を横目で睨みつけていたくせに、本当に起こった事件や事故や災害には目を背けていた。社会的な自我というものを持ち合わせていなかった。

 

 それからわたしは様々な経験をした。いろいろなひとに出会った。大切なものをたくさん失ってきた気もするし、得てきた気もする。ひどいこともしてきた。ひどい言葉も使ってきた。奇妙なことに多くの死、多くの別れを経験してきた。ひとが普通に経験するくらいに、あるいはそれ以上に。

 だがいまはそのすべてが過去のものだと思えるようになった。心の傷はいつまでたっても癒えないし、失ったものは戻らない。けれどそいつをポケットに押し込んで、歩いていけるようになった。

 

 生きている不思議 死んでいく不思議
 花も風も街も みんなおなじ

 

 いつしか、無関心はひとにたいするもっとも残酷な仕打ちだとおもうようになった。わたしは無力だが無力さを認められるほどには大人になれた。そう思うようにした。 

 だから今は、できるだけひとには優しくしようと心がけている。知ってしまったり出会ってしまったひとたちには、できる限りのことをしたいと考えるようになった。できる限りの言葉で話しかけ、できる限りの親切を。

 だからたとえ厚かましく無神経でも、前のめりに、祈ろうと思う。


 1995年1月17日。その日に阪神淡路大震災があった。

 わたしはこの日のことをほとんど覚えていない。おそらくなにも考えてはいなかったのだろう。思い出そうとしても、思い出せない。本当に、“ほんとうになにも考えていなかった”のだろう。

 そしてたぶん、ここで今まさにこうして書かなければ、そのことに対して、愚かだったあの頃と同じ自分がいることになる。そう思った。いまは、“そう考え”られたのだ。

 

 だから今日はなにかを感じたかった。ありふれたこと。平凡ということ。人、他人、ビル、靴音、街、色、風、雨音。なんでもよかった。なんでもないということを、心の底から感じたかった。

 

 被害に遭ったかたがたの気持ちはわからない。心の傷は簡単に消えるものではないだろう。あいかわらずかける言葉はみつからない。だからせめて忘れてはいないという表明だけはここに残しておこうとおもう。

 

 こなごなに砕かれた 鏡の上にも
 新しい景色が 映される

 

 すごく急いで書いたので文章も散らかっているし、ろくに推敲もできていない。雨の中歩きながら考えてきたことを、とにかく今日中に送信したかった。頭の中のことを、手のひらですくった水を運ぶように、少しでもこぼさないようにと、早足でかえってきた。今日はなんだかそういう気持ちだった。

 だがやはり伝えたいことはだいぶ零れてしまったようなので、代わりに詩でも書いてみようかとおもった。けれどわたしには詩が書けない。音楽も奏でることができない。だからせめて引用することにした。覚和歌子さんの詩。とても有名な映画のとても有名な歌。とても優しい鎮魂歌。

 

 明日は晴れるだろうか。

 

 

書くこと語ること関わること。エピソード1

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 チューバッカとR2D2とイウォーク族のウィケットとわたしで、楽しく話をしている夢をみた。けれど次第にみんなのことばが全然わからなくなっていった。
 すごく悲しかったので、なんで?と訊いたら、R2が「きみはきみの世界の言葉をもっと本気で取り組まなくてはいけないよ、」とかろうじてポロピロと聞き取れる声でいった。おもえばあれがわたしの初夢だったのかもしれない。

 

 なんでこんな夢をみたのかというと、それなりの理由がある。わたしなりに。まずは最近になってようやくスターウォーズの新作を観たということが先立つ。それから仕事がひまだったので、沢山のひとのブログを読みあさっていことも起因する。

 

 それから数日前、友だちとゲームをしているときに、すごい挑発してくる外国人がいた。友だちも負けずに煽り返した。彼はゲームも巧ければ煽るのもうまかった。

 それでわたしはなんだか緊張してしまったのだけれど、これで負けるのも悔しかったので、そのぶんいつになく真剣にがんばってプレイしたら、なんとか勝つことができた。

 すると外人はメッセージで、F××k!!といい、チョメチョメペラペラとすごい勢いで捲したててきた。わたしたちは、英語わからないのに英語で話すなと笑っていた。でも挑発されたからこそずいぶん熱くなれたし、そのぶんある意味エキサイトできたし、勝てたし楽しかったねと言い合った。

 

 ともかくスターウォーズは小さい頃から大好きだ。だから「フォースの覚醒」の上映が決まったあたりから、わたしはシリーズを知らない彼女にもそのサーガを共有できるようにと、自分の予習をかねて、過去作品を一緒にちょくちょく観ているうちに、彼女もすっかりスターウォーズシリーズの虜になった。

 

 ゲームの友だちとオンラインでプレイしていると、たまによくわからない挑発をするひとがいる。けれど、ごくたまになので、逆に、すごい煽られたり煽ったりするマッチは、なんだかんだで異常に燃えあがる戦いになるねと、笑いあっている。あんまりそういう戦いばかりだと心もギスギスやさぐれるけどね。と。

 

 彼女の目線はどうやらわたしとは違っていた。彼女はR2D2とかジャージャービンクスとかイウォーク族などの弱いけれどカワイイ存在にとても愛着をもった。
 わたしはどうしてもハン・ソロやオビ・ワンなどのカッコよくて強いキャラクターが好きになってしまう。だから強くてカワイイ、チューバッカが最強だとおもっている。

 

 今月は仕事がひまなので、いろいろなひとのブログを過去から辿って読んでいた。読んだひとたちの、それぞれのポテンシャルの高さについ夢中になって、半日ぐらいずっと読んでいたりする。仕事しているふりをして。

 

 今では習慣のようにプレイしている対戦ゲーム。やはり勝つことにはそこまで執着できない。目的のほとんどはそこにいる友だちとお喋りするために時間は使われる。それでもたまには熱くなる。相手を打ち負かすためだけに連携をとり、必殺技を繰り出すタイミングを計る。負ければもちろん悔しいし、負け惜しみのひとつもぼやく。

 

 スターウォーズのどこがいいのか訊かれると、ビームと答える。ためらわず。結局ビームが好きなのだ。ピンピンチュンチュン飛び交う光、ブゥゥゥンと不気味な音を立て、ギョンギョンつばぜり合いをするライトセーバー

 

 心底笑えることを書いている面白いひとや、ひたすら明るい人柄で元気をくれるひとや、細やかなところをさらに細分化して丁寧に分析しているひとがいる。なかにはあれよあれよと次々に違う才能や魅力が飛び出してくるひともいる。

 そういうひとたちの過去から痕跡を辿っていくと、書くことに何らかの覚悟を感じるし、一貫したテーマのもと更新を続けていることがわかる。

 

 あの頃の、今までがほとんど無くなって、暇になって、それでなんとなく始めてみたオンラインゲーム。はじめて挑んだ対戦モードでは散々負け、やっぱり対人戦は難しいなと痛感していると、メールが届く。いまさっき対戦したプレーヤーからのメール。500文字くらいの長文で、びっしりと、対戦ゲームでうまく立ち回る方法やルールやマナーが綴ってある。なんだこれ怖いな、ガチじゃんゲームなのに。わたしはそっと電源を消す。

 

 数あるブログのなかには必要にかられて文章を書いているひともいる。力強く発信し続けるひとがいる。いまにも消え去りそうなひとがいる。または何らかの病気や障害と戦っているひともいる。それでもひとを元気づけたり、貧しい国や被災地や虐げられた人々に気を配っているすごいひともいる。

 

 ビームならばなんでもいいのかといわれれば、否定はできない。ドラゴンボールでもゴジラでも、結局はものすごい閃光やパワーがみたいのだ。破壊の衝動。たとえばパシフィックリムのどこがいいのか訊かれれば、ロボットが大型タンカーでカイジュウをぶっ叩くところが好きと答える。

 

 かつてわたしはゲームの友だちが沢山いた。数十人の友だちと毎日二、三のタイトルで交互に遊んだりしていた。年下から同世代まで。お喋りなひとや無口なひとや引きこもっているひともいた。だがゲームの友だちはそのタイトルが終わるか飽きるかすると、たいていは離れていくものだ。そうなるとみんなで次のタイトルに移るときもあるが、なかなかうまくはいかない。最終的には仲良しだけが残る。結局学校のクラスと同じ。仲良くなるヤツもいれば、消えていくヤツもいる。みんなさようならもいわずに去っていく。

 

 彼女のスターウォーズの見方はある意味正しいのかもしれない。つまり小さき者や弱き者ものたちが、勇気を出したり活躍したりする物語としてのスターウォーズ

 物語には意味がある。ひとがなぜ現実とは違う空想世界を想像するのか。どういう意味が込められているのか。それが現実世界にどういう作用を及ぼすのか。読み解くのはきっと人それぞれだ。

 

  弱いひと傷ついているひと寂しい人。言葉の端々に何らかの信号が隠されているのではないだろうかと思うときがある。救難信号。本気の声。わたしは言葉を探す。それに応えられる声を探してみる。このひとたちが次に更新する保証はないぞ。もうこれで消え去ってしまうかもしれないぞ。だがそれは探せばさがすほど、見つからない。それからわたしはふと気づく。わたしが読んでいるのはもうすでに過去のもの。これは過ぎ去った感情たちなのだ。

 

 500文字の長文で攻略法を送りつけてきたひとは、本気だったのかもしれない。本気でゲームに全てを賭けていたのかも知れない。正直いってわたしはその当時、ただただ気持ち悪いなと思った。たかがゲームだろうがと思った。

 だが別の可能性だってあった。そのひとと友だちになる可能性だってあった。ありがとうと返信して、一緒にゲームしましょう教えてください、そういって歩み寄る選択肢だってあったのだ。

 

 小さきものたちが勇気を出す。それこそが物語の本懐なのかもしれない。わかっている。いくら格好良くても強くても、光だ闇だ悪だ正義だといっても。世界はそんなふうにシンプルに割れやしない。心に巣くった闇も悪意も、都合のいい光の剣なんかで、切り伏せることなんてできやしない。

 

 自分はずっとここにいる、そういって同じタイトルに留まり続けたひとがいた。はじめは見かければ一緒に遊ぶこともあったけれど、少しずつその世界の人口は減り、最終的には本当に彼だけしか見なくなった。それでも彼はそこに留まり続けた。何ヶ月、ついには何年も経ち、ハードすらも変わってしまった今。彼はどこにいるのだろう。

 

 わたしは本気でなかった。だから本気で本気のひとと関わることが億劫だった。本気になることもその瞬間も、すごく貴重で勇気がいることなのに。いつでもその瞬間には、なにもせずにただ見逃すばかりだ。

 

 けっきょく男子なんだよね。いつまでたっても男子。

 護るべきひととか、弱いひとに気をもんでるふりしてさ、もっともらしく感傷的な言葉を垂れ流してさ。

 優しさとか気配りとかモラリティだとか、そういうのしっかりしてますみたいな小綺麗な身なりしてさ。戦争はよくないだとか、差別はいけないだとかいって、スジいっぽん通してますみたいなツラしてさ。

 なに?それで?ビームが好きって。いったいなんなの。勝ったの負けただの。むこうが先に挑発してきただの、売られたケンカだの。しらないよ。楽しきゃいいんでしょ。けっきょく。ずっと変わってないよまったく。子どもなんだよ。ずっと終わんないことばっか望んでさ。夢ではあんなに仲良しだったウィケットとチューイがわたしを責める。

 ファンタジーだのSFだのゲームだの。けっきょく逃げたいだけじゃんか。いつだって本気にならずいつまでもモラトリアムにしがみついて、偉そうに。いっぱし気取って。結局は及び腰。あんた人生にたいしてはいつもそうじゃんか。すこしは真面目に行きなさいよ。ちょっとは本気で生きてみなさいよ。ピロピロポロポロとR2がそう話す。

 

 お酒をください呑ませてください。できればラムかテキーラを。喉と頭が焼き付くような、すぐに眠りにつけるような。なるたけ強い、お酒をください。

 

 

 お気づきかと存じ上げますがエピ—ソード2はありません。

クラゲ

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 さいきん少しばかり気持ちが沈むことがあった。それも立て続けに。とはいえ、直接わたしが関わったことでもないのだけれど。

 だがこの、“私ごとではない”というところが厄介でもある。

 

 わたしは何らかのトラブルがあると、穏便に済まそうという気持ちより、ちゃんと主張しようという気概のほうが多いらしい。たぶんひとよりも。
 少なくとも、しっかりファイティングポーズをとって、議論していきたいとは思っている。それがたとえ単純な仕事上の問題でも。あるいは無神経な悪意でも。おどけてその場を済ませたり、日和ったり、無視していくのは得策でもないと思っているらしい。まあそれも話が通じるひとに限るのだが。話の通じないひとはいる。ほんとうにいる。

 

 だからわたしは面倒くさいひとだと思う。けれど、めんどくさい、それで結構だとも思う。そもそも事の発端として、そちらが面倒くさいことをしたからこそ、こうして反発も起き、わたしも面倒くさくなっているのだ、とも思う。ならばお互い様ということで、面倒な議論をしようではないかと、そう思う。

 

 若い頃はそれで苦労した。あの頃の感受性はもっと鋭く、おまけに下手な正義感も虚栄心あった。それにわたしはものすごい童顔なので、いつも誰かにナメられているのではないかという疑心暗鬼があった。
 クズみたいな環境だったので、時としてケンカになってしまうこともあった。まあほんとうに“ヤバい”ひとには近づかないし、一目散に逃げたりもしたが。

 それにわたしはものすごく華奢でもあったので、ほんとうに強いやつは、子犬がキャンキャン吠えている程度にしか感じなかっただろうから、見逃してもらうこともしばしあった。

 

 記憶としては殴るよりも殴られるほうが多かった。でもある意味それでよかったと思っている。つまり殴るよりも殴られるほうが多かったことについてがだ。
 なぜなら、虚栄心も盲目的な正義感もなくなった今(たぶん)、暴力にうったえるのは最も愚かな行為だとわかったし、それになによりも、ひとを傷つけるほうがよっぽど心に負担がくることを、文字通り“痛い”ほど知ることができたからだ。

 

 それでも姿勢だけはいまでも保っている。つまり間違っているとおもえばしっかり意見する。それでも納得できなければ食い下がる。結果的に殴られたとしても、それは痛いだけで、心の名誉には傷はつかない。そうおもって話をする。もうガキではない。わたしは言葉を交わす。本気で怒り。真剣に感動する。だからある意味、わたしは昔よりもさらに面倒くさいのだとおもう。


 だからようするに自分ごとならばいつでもシンプルだ。なにごとも。わたしには言葉があり。冷静でいられる。話し合う努力もするし、わかり合いたいとおもってもいる。トラブルはいっこうに構わない。とことん語り合おうではないか。ばっちこい。

 

 けれど、他人が絡むと話は違ってくる。そこには配慮が必要になってくる。お互いの関係性もある。第三者が口出ししてかき乱すこともない。所詮はひと事。そう思えるのならいい。けれど、わたしは心配性なうえ、厚かましいので、近しいひとだったり良い人だったり、そういうひとたちが嫌なおもいをしていると知ると、勝手に腹がたって仕方なくなってしまう。

 

 今回の気が滅入る出来事というのは、仕事のこととプライベートのことで二つほどあり、直接わたしが関わったわけではないのでここでは書かないが、明らかに相手に非があるとおもえることだったので、いささか腹もたったし、ひとつの問題に至っては、ともすれば訴訟問題というか事件として扱われてもおかしくない出来事だったので、すごくモヤモヤした気持ちもある。

 それでも当事者が穏便に済ませようという意思でいるのだから、わたしが騒ぎ立てても意味がないことは明白だし、それに、もうすでに事態は収束しつつあるので、なおのことわたしが腹を立てる筋合いもない。

 わかっている。わかってはいるが被害を被った本人だけが不愉快な気持ちのまま、やり過ごして、時が過ぎるのを待つという不憫をおもうと。やっぱりものすごくモヤモヤする。というかムカつく!

 

 そういうやり場のない気持ちになったときには、決まって考えることがある。わたしは輪廻転生を持ち出す。生まれ変わりなんて現実的でもないし、ピンときやしないが、そいつを持ち出す。勝手に、ものすごくライトに。輪廻転生。

 

 たとえば生まれ変わりがあるとすれば、すべての生命に平等なはずだから、次も人間に生まれ変わる保証はない。

 人類は76億人もいるが、それでもアリや蚊や蜘蛛には到底及ばないだろう。ましてミジンコやミカズキモ、なんならミトコンドリアも生物に違いないのだから、人類の76億という生命なんて微々たる数字だろう。

 だとすれば、次に人間に生まれ変わる確立なんてものも、極めて少ないのではないだろうか。

 

 そうおもいながら、わたしは誰かしら、腹のたつひとに遭遇すると、おもむろにそのひとのステータス画面をひらく。

 →ステータス

 →【生き物ジョブ】

 →【ニンゲン】

 わたしはカーソルをあわせ、スライドさせていく。

 【ニンゲン←ミジンコ←アリ←クモ←ミミズ←ミカズキモ←ミトコンドリア←ミミズ←コンブ←マダニ←カマドウマ←クマムシ・・・・】

 

 なんだこいつ!人間やったことないじゃないか!あと数千年後にもう一度ニンゲンやりなおしてこいや!

 そうおもって気持ちを静めたりしている。

 

 まあ、人間さまがあらゆる生命のなかで一番偉いだなんて、そもそもおもってもいないのだけれど。だが何事にも最低限のルールってものはある。ルールを守れないひとは、申し訳ないがやり直し。

 


 話は変わるが、前の職場がけっこう大きな企業で、そこの喫煙室でタバコをふかしていたら、ピシッとしたパンツスーツの営業の女の人が、

 「いそがしぃです」と入ってきて、

 「もうネコになりたいですよ、コタツで寝てたいです、」といっていた。

 なるほど忙しいとはそういうものなのかとおもった。

 

 更にむかし。運送屋でアルバイトをしていて、港の突堤に車を停めて休憩(サボっている)している際、めちゃくちゃマッチョで仕事のできる先輩が港湾のへりをみつめて、

 「いいなぁ〜」と不抜けた声で呟いていた。

 「どうしたんですか?」とわたしが訊くと、

 「おれクラゲになりてぇよ〜」といった。

 なんでまた、と訊ねると先輩はバカヤロウと言い放ち、

 「クラゲはなんにも考えないで漂ってればいいんだぜ」うらやましいだろうが。

 といった。

 その先輩は同じ日に、自衛隊の船をみて、

 「あんなバカでかいものがどうして浮いてるのか、おまえ知ってるか?」と訊いてきたので。「わかんないですけど、浮力とかそういう話ですか」というと、やはり先輩はバカヤロウといい、ニヤリを笑って、

 「飛行石に決まってんだろが」といった。

 

 その日から、今日に至るまで、わたしは次に生まれ変わるのならば、ネコよりもクラゲがのほうがいいと決めている。

 クラゲのように心をたゆたわせ、気持ちを少し落ちつけよう。