ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

仕事、というかラジオの時間

毎日8時間以上パソコンに向かい仕事をする。仕事が滞ることがなければ、なにをしようが自由。自由とはいえ、指も目もあいにく暇ではないので、耳だけが自由ということになる。

十年以上仕事を続けてみて、気づいたことは、わたしは音楽がそこまで好きではないということだ。少なくとも毎日8時間も続けて聴き続けることはできない、という程度にはだ。

とはいえ音楽は嫌いじゃないし、ファンと明言できるほどに心酔しているアーティストもいる。それでも今のわたしの脳内のなかを覗いてみたとするのなら、どれくらいを占めているのかと問われれば、実際は、そんな領域はほとんど無いと思われる。だがラジオはある。10パーセントくらいあるのだ。

それで仕事の間、ほとんどラジオを聞いている。朝10時から夕方5時まで。で、残りの1時間あまりを音楽を聴いて過ごす。長い時間をかけていつの間にかそれが毎日のルーティーンとなった。おかげさまで十年以上ものあいだ、手慣れた仕事をマイペースに進められる環境にあるわたしにとっては、もはや、平日の昼間は仕事、というかラジオの時間、といっても過言ではないだろう。

たしかに気分を盛り上げたりする時には、好きな音楽を聴くのもいいが、 通常、ラジオは聞くにしても、聞かない(聞き流す)にしても、なんとなく誰かが話している、ということがどうやらリラックスできるらしい。

テレビは出演者/演者と呼び、ラジオはパーソナリティというだけに、ラジオはほかのメディアよりも、より出演している方々の人格を理解できる気がする。近所のおじさんのような無駄話をしてくれるおじさんから、時々本気で怒ってくれる方もいる。こういう人はテレビではなかなか見られない。

長く番組を続けている方々は(例外ももちろんいるが)、わたしにはすごく魅力を感じるし、何かしらの軸に沿った主張やテーマを伝えようとする意識というか決意のようなものも感じ取れる。それはお笑い芸人にでも当てはまる。それはそうだろう。ラジオ番組は尺が長いし、たいがいが生放送なのだから。誰もが何時間も笑い話しだけ話してもいられないだろうし、小難しい話題ばかり機械的に伝えてもいられないのかもしれない。だから透けてくるのだろう。笑い話とお堅い話題のあいまに、本当の気の抜けた人格というものも。

時々、わたしが聞いているラジオのパーソナリティが、テレビでなにかうっかりな発言をしてしまい、ネットなんかで炎上したりすることもある。そういう場合たいがい彼らは後日そのことについての話題をあげ、時には釈明もする。事実関係を詳しく聞けば、それが編集で切り取られていた発言だということも多く、わたしはだいたい納得するし、その発言によって嫌いになることはほとんどない。

けれど、そんなことを誰もが気にするわけでもないし、逐一アンテナを張っていなければいけないわけでもない。それはそれでかまわないのだけれど、やはり、ネットなんかで、「こいつはいったい誰需要なんだ?」なんて書かれているのをみてしまうと、「おれ需要だよ!」と憤慨するときもあるし、ラジオをいちど聞いてみろ、とも思ってしまう。

みんな人を見限るのがずいぶん早いんだな、とも思う。

 

ぬか漬け

一昨日、ひと月あまり毎日せっせと混ぜ合わせ、ついに熟成したぬか床がついに野菜を入れる段階にはいった。

手始めに冷蔵庫にあまっていたニンジンと茄子を埋め、夕べ食した。当然うまかった。だが、やはりまだ若いぬか床は、どこか物足りなかった。それでも、ぬか漬けは大変ありがたい。日本酒のあてならば、常にぬか漬けでも事足りる。

ぬかは誰かが作った違うぬかを混ぜ合わせたりすると、より味が深まるらしい。

ぬか床をもっている友人など、わたしの年齢では未ださすがにいない。田舎町ならば、近所に声をかけさえすれば誰かしらが分けてくれそうなイメージもあるが、都会ではそうもならない。いや、案外勇気をだして聞いてみれば、あるいは、ぬか床なんてわりとありふれたもので、誰でも持っているのかもしれないが。

わたしの日常生活で、ぬか床の話題があがることはまずない。どういうタイミングでその話題を差し込めるのかもわからない。

「ところでさ、ぬか床もってるなら、交換しない?」こうなる会話の、前後関係を想像すらできない。

親しい友人にでもぬか床作成を強引に勧めて、交換することもできるが、それはちょっと違う気もする。それに、仮に、何かを強引に勧めるのなら、最優先にはならないだろう。ぬかは。

だが、この、別にそこまで気にもとめないが、なんとなく、他人のなにか、を必要とすることこそが、有意義なコミュニケーションというものではないだろうか。

他愛のない話題、頼みごとや交換、おすそわけ。現代社会にあきらかに足りないことは、ぬか漬けのようなものなのだろう。

食べきれないかと危惧したニンジンと茄子のぬか漬けは、日本酒とともに、簡単に平らげた。

夕べはカブを漬けた。今夜も楽しみだ。

バイク好き

バイクの消耗品を替えなければいけないのだけれど、近所のバイク修理屋に出向くのが億劫だ。

近所のバイク屋さんはすごく詳しく説明してくれるし、解りやすい。腕も申し分なく、信頼できる。余計なお金を吹っかけるわけでもなし。余分なパーツを進めてくるわけでもない。とても良いバイク屋さんだ。

だが、彼は如何せん話が長い。そこが如何ともしがたいところだ。単純に好みの問題なのだろうが。

ところでバイク好きは、どうしても大きく分けると二通りになる気がする。レーサータイプとアメリカンタイプとでもいうべきか。とにかくそういう好みのタイプというかスタイルに二分される。もちろん、他のにもあるのだろうが、(例えば暴走族タイプ)わたしの周りには見当たらない。

それは一向に構わない。好きなことスタイルを貫くこともすばらしいと思う。ましてそれを仕事に昇華させるなんてともてうらやましい。

だからこれはわたしに問題があるとしかいえない。つまり、わたしがそこまでバイク乗りとしてのスタイルにまったくこだわりを持っていないということがだ。

個人的な意見として、誰が革ジャンを着ようと、ツナギを着ようと、レイバンのサングラスでも、異常に小さな半分割ったピスタチオのようなヘルメットでも、なんだが指のあいたゴツゴツした手袋をはめようとも、走るのに余計パーツを取り付けようが、ライトが紫色でも、レットブルのステッカーを貼っていても、もちろん一向に構わない。むしろ好みにもよるが、非常にクールだと感じるスタイルはある。まあ、音がうるさいのは勘弁してほしいが。とにかくわたしにはそういったこだわりがまったく無いのだ。

ツーリングという概念もそうだ。みんなでどこかに行くのなら、渋滞に巻き込まれてでも、お菓子を食べ、歌いながら、みんなで同じ車で出かけたい。

バイクに関しては「普通」が少ない気がする。みんなそれぞれこだわりのスタイルを持っている気がする。車は「普通」が大多数だ。車はなんでも黒や銀色が売れ筋らしい。中古で売るのに当たり障りのないカラーだからだとか。

バイクはどうも個性をみせることが好まれるらしい。わたしのように普通に乗りたいがクラッチは付いていたほうがなんとなく楽しい、が、別に原付タイプでも構わない。メーカーも車体もこだわりはない。というような人種は少ないように思われる。

というわけで、そんなわたしがバイク屋さんに出向く。バイク屋さんはわたしがバイク好きだというていで会話を進める。余計ことを聞くと(バイクのパーツのことはほとんど知らないので)話も長くなるので、適当に相づちを打つことになる。

「はあ」「なるほど」「こりゃまいった」「じゃあおねがいします」「ふむふむ」「そうですか」「そりゃすごい」「へえ」「そういう仕組みですか」「じゃあそれもついでに」「それはありがたい」「よかった」「ふーん」「そういうことか」「なんだ」「あ、そうですか」

そんな会話を炎天下のなか交わすと思うと、とても億劫だ。

 

ロメロのゾンビ

ジョージ・A・ロメロが亡くなった。

わたしもロメロのゾンビ映画は大ファンで、今でこそ、こぞって追いかけたりはしないが、ゾンビ映画を肴に一晩飲み明かせといわれれば、今でもよろこんで語り明かせる。

かつて同じゾンビ映画ファンと語り合っていると、自分とはちょっとした見解というか、見所の違いともいえることを、毎度感じていたことを思い出す。

わたしがロメロのゾンビ映画への感想として連想するのは、「ルサンチマン」それと「衝動と扇動」。それらがすべて「暴力」として表現されたもの。

これが「ゾンビ」であった。

ところがそのゾンビには、暴力(カニバリズム)という衝動の他にもなにかある。それは健康だった頃の習慣だったり行動だったり。

うろんとしている彼らの意識の中に残る、いや、残っているはずの人間だったころの無意識に、わたしは興味をもった。

ナイト・オブ・ザ・リビングデッドが製作された頃の、初期の「ゾンビ」の設定は、おそらく、社会的・人道的に底辺とみなされる人間を描くための隠喩表現だろう。これは間違いない。作品自体を楽しみたい性分なので、製作の時代背景なんてものはあまり語りたくはないが、ゾンビに襲われた主人公を献身的に助ける黒人男性も隠喩的にみれば、ゾンビたちと対照的に比較されてみられるはずだ。

徒党を組む暴力。理不尽。不衛生。理解不能の行動。醜い容貌。これが「ゾンビ」。

だからこそ、こんなふうにはなりたくないという感情があるからこそ、わたしたちは逃げ惑い、時には撃退する。

けれど、まてよ、とわたしは思う。

徒党を組む暴力。理不尽。不衛生。理解不能の行動。醜い容貌。

これらはすべて人間にも当てはまるじゃないか。

そして、こういう人々に対する感情。こんなふうにはなりたくないという感情も、同時にわたしには理解できる。

これらを嫌悪する感情の原動力は、差別意識なのかもしれない。

わたしは職を失い、ホームレスになる。風呂にも入れずに街をさまよう。衣服はボロボロになり、異臭を放つ。腹が減り、ゴミを漁り、なんでもかんでも口に入れる。徒党を組むのと人を襲うこと以外はゾンビと何も変わらない。ここに恐怖がある。

人を食べ、仲間にするという隠喩表現のなかには、「彼らに近づくと同じ人間になってしまう/同等に扱われてしまう」という差別意識があるのかもしれない。

 

けれど、まてよ、若かりしわたしはふたたび思う。

 社会に溶け込み、身ぎれいにして、ピカピカして、人に迷惑をかけずに生きることがそんなに偉いことなのだろうか?

 

若いわたしのルサンチマンは、徒党を組んで爆発する。

若く、金もなく、みすぼらしくズボンをズリ下げて歩く私の心たちは、やがて行進をはじめる。周囲に何かを主張したくて、けれどそれをうまく言い表せずに。自分たちだけがわかる言葉をぶつぶつとつぶやき。近づいた人間を懐柔しようと試みる。

そんなことを考えていると、人間を食べる恐ろしいゾンビのはずが、食べるという衝動を抑えきれず、食べることで仲間になるという相反した習性に戸惑いながら、仲間にしたいと頭の片隅で感じながら、うっかり手足を食べてしまう。そんなふうにみえてきてしまい、なんだかよっぽど人間らしく感じてしまうのだった。

だからゾンビ映画に夢中になっていた頃のわたしは、どうしても撃退する側の人間に感情移入できなかった。

たしかに銃を撃ちまくる人類側の衝動も、若いわたしには魅力的だった。たしかにわたしは、友人らと車の中でデスメタルを聴きながら、交差点やショッピングモールなどで、あふれる人々を眺め、そいつらをゾンビになぞって、笑い合っていたこともあり、終わった世界を自由に征服してみたいと思ったこともあったわけだが。それでもわたしは、確かに撃ち殺されるゾンビ側のほうに、より強いシンパシーを感じていたのだった。

わたしはビッグ・ダディーに牽引されたかった。なにもわからないまま、女の子と手を繋ぎ、目的もわからずに彷徨いたかったのだ。

 

とまあ、なんてことを普段からしょっちゅう考えていたわけでもないが。

 

とにかくゾンビ映画は単純な娯楽として優れているとは間違いなく思う。

ロメロさんのご冥福をお祈りする。

 

いってらっしゃい

三連休さいごの日だったけれど、なんてことのない一日。

ほとんど部屋に籠もっていた。夜にちょっとコンビニへと出歩いただけ。

けれど、それだけで休日の夏の喧騒終わりの残滓というか臭いというか、そんな雰囲気を十分あじわえた。

今は海や山や、ましてキャンプなんて行かなくても、夏をゆっくりと過ごしてゆける。

若いころ、夏になると感じたあの、遊ばなくてはという焦燥感はなんだったのだろう。

たしかに暑いと、細かいことを気にしなくてすむ。短パンにビーサンで出歩くというだけで、単純に気楽な気分にもなる。けれど、それがダイレクトに遊びたいという欲求に結びついていたのはどういうわけか。

出かけずに部屋にいるときに遠くで花火の音が聞こえると、むかしはいてもたってもいられず、何やらはげしい焦燥感を感じたものだが、今はそれすらもむしろ風流だとさえ感じる。

開け放した窓。ときおり感じるぬるい風。上半身裸のわたし。子どもらの走る音。笑い声。店じまい前の飲み屋。手をつなぐ若いカップル。無風。ラーメン屋のナイター中継。太鼓の音。夕方にあびるシャワー。氷のとける音。コインランドリーの灯り。虫の声。

もう、すぐに梅雨はあける。本格的な夏はやってくる。わたしは入道雲を背にニコニコと両手を振り見送りたい。

喰らう

ステーキを大量に食べた。赤身で脂身の少ないプライムリブなので、思ったよりもかなりの量がたべられる。

最近は肉類を意識して食するようにしている。なんとなく。

米寿あたりを過ぎた老人がもりもり肉を食べている画ずらは、なんとも力強いし、健康的な気もするので、そういう年寄りを目指したくもある。なんとなく。

それに、歳を重ねると生命エネルギーのようなものが失われてゆくような感じがするし、それを補うには動物性タンパクがうってつけのような感じがする。なんとなく。

用意された鉄板でセルフで焼くというシステムの店だったのだけれど、大きな生の肉片をズドンと持ってこられると、いよいよもって、今から生命を喰らうのだ、という気持ちにさせられた。

 で、家に戻り、テレビをつけたら、多摩川の鮎を見守る調査を特集していた。

上流にのぼっていき、ところどころで、豊かだったかつての多摩川風景や生き物たちを、鮎に限らず確認してゆく。

そうして、関係者が互いにうなずき合い口にする「もどってきているね」という言葉は美しいと思った。

鮎や他の生き物たちが習性としてこのシーズンに「もどってきている」という事実。それと多摩川の生態系が「もどってきている」という希望にみちた確認。まさに同義となる言葉の意味あい。

 命を喰らい、それから命を元に戻す。これらの行為もある意味、同義ではないだろうか。

なんとなく。

不満の声

駅前でデモ集会が開かれていた。なにやら賃金引き上げを主張しているようだ。「最低賃金時給1500円」のプラカードが目立った。

通りすがりに眺めていただけなので、詳しい主張は知らないが、みんなの給料があがればそれは素晴らしいことではないだろうか。

 

わたしのような小さな小さな会社に働いていると、賃金引き上げは望めない。というか、到底、言えない。分母がわかりきっているから。

では、分母を増やすとなれば方法はふたつ。仕事を増やすか、単価を上げるかだ。

仕事を増やすと当然残業も増える。残業はあまり望まない。なら単価を増やすしかない。だがお客に値上がりを伝えるリスクを考えると、それも逡巡する。それがわかりきっているから、わたしは「声」をあげない。まあ、ぼやき程度はしょっちゅう漏れているが。

物価の上昇と賃金の引き上げが伴わない、なんて巷でいわれているのはもちろん知っているが、デモ隊のみんなは自分の給料が上がれば牛丼が千円くらいになってもかまわないのだろうか。さらに物価が上がったら同じことなのではないだろうか。

 

魚釣りをしていたら、お金を払ってでも魚がほしいという人がいて、お金をもらう。次の日もまた日も魚は売れる。そうしているうちに隣で釣りをする人が増える。彼らも同じように魚を売る。釣りが上手いやつもいれば、売りさばくほうが得意なやつもいる。やがて彼らは効率を考え、結託し、その日に釣った魚を集めてから売り出す。魚はどんどん売れる。彼らは船を買うことにする。当然、沖にでればもっと大きくて沢山の魚がいる。彼らの収入は上がる。簡単な話だ。

ここまでの経緯は単純だが、個人にフォーカスしてみれば不満の種はいくらでも生まれているはずだ。誰かをすっぱ抜くのが得意なやつが現れるのも時間の問題だ。

けれど、釣りが得意やつ、売りさばくのが得意なやつ、船の操縦が出来るやつ、それと、誰かをすっぱ抜くのが得意なやつ。彼らのどこをどう比べれば平等といえるのだろうか。

 

わたし個人としてはデモ行進には興味はない。けれど声は大事だ。誰かが声を上げることで誰かが考えはじめる。それはとても重要なことだ。

ただ、わたし個人としては、みんながすっぱ抜く側に回ることを望んでいないこと望む。デモ参加者のなかの釣り人は釣りが好きで、牛丼屋は牛丼をつくることが好き。だからこそ発せられた「声」だということを望む。くれぐれも、砂漠に撒かれた一握り砂金の所有権なんてものを、主張しださないことを望もう。