ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

物語を書いている

 またしてもお久しぶりです。はろーはろー

 

ものすごく疎かになってしまっている飛行訓練なのだが。ですが、ですけども。ここはただの飛行訓練ではなく。「ナマケモノの飛行訓練」であり、ひいては、「どこにも飛び立つことのない飛行訓練」という永遠のテーマもあり、つまりは、本来の自分のペースに立ち戻っている(のかもしれない)、といっても過言ではない。の、かもしれません。

 

あれ?あまりに久しぶりなので、ここでの文体がわかんなくなっちゃったなぁ。敬体だったっけ?わたし。まあいいや、敬体でタイプするの面倒なので常体でいきますね。しますね。するね。する。 

 

 

・・とはいえど、ここに訪れることが少なくなったからといって、キーパンチ中毒ぎみのわたしが、文章を打っていないのかといえば、そういうわけでもなく、むしろさらに指を働かせ、なんらな酷使させていると云っても、言い過ぎともいえない。

 

要するに、回りくどくなってしまったが、わたしは現在、こことは違うところに物語を書いていて、密やかにネットの海に旅立たせているわけであり、四月からぽちぽち進めて始めて、かれこれ二十万文字くらい書いているので、えーと、この場所で月間に10とか9くらい、イラスト付きでがんばって(も、いないけれども、)更新していた、今思えば立派な「はてなブロガー」と名乗れなくもないような時期よりも、たぶん今の方がずっと、ネットの海を逞ましく泳いでいるのだとはおもう。

 

もし仮に、どんなものを書いているのかと訊かれたとするならば、それはここで長々と語ることは止しておく。

 

別に出し惜しみをしているわけでもなくて、単純にいえば、わたしが書いているものがファンタジーだからであり、つまりは、ここに訪れてくれる方がたの趣向とは、なんだかかなり違っているように感じたからだ。

要するに、わたしが想像するはてなのひとたちは、かなり大人な雰囲気を持った方がたなので、前に怪談などを創作したけれども、そういうものならともかくとして、まあ、ふぁんたじぃは、・・ちょっとねぇ。と、ひとえに、わたしの脳内のお花畑を語ることに、なんとなく憚れるような気がしたという次第であった。

 

だって、急に斜めに方向転換しはじめたとあらば、今まで少しでもここを気に留めてくださっているひとたちにも、申し訳ないような気もするしねぇ。という具合である。

 

 

それから、全く話はかわるけれど、なぜか更新さえしていないのに、たまにアクセス数が恐ろしいくらい跳ね上がったりするのが、とっても謎。けっこう気になる。

ともすれば運営側があまりにも更新しないひとに向けて、棒グラフ操作仕掛けて、更新を促しているのではないかとさえ、勘ぐってしまう。

 

まあ、こんなところ、更新してもしなくても同じようなもので、たぶん何ちゃらニュースだかのロボットだかな演算だかが、計算違いで誘導してくるものだと推測しているのだけれど、それはともかくとして、それでも何でも、ここをたまに気にかけてくれる数人の方たちに向けて、たまにこうしてオウトウセヨオウトウセヨと、微弱な電波を送り続けたいと、願う次第です。

 

そういうわけで、わたしはとても元気にネットの海で果てしない遠泳にチャレンジしております。それと同時に、皆さまが達者に暮らしていくことも願っています。

 

それからどういうわけかこんな僻地に辿り着いてくれる希有な方がた。本当にありがとうございます。読んでもビジネスにも暮らしの知恵にも政治的扇動にも美容にも健康にも延命にも感動にもなりませんが、ごめんくださいまし。

 

そして今回も推敲無しでリリースする日記、ひいては、文体すらも確立して出来ずに終える駄文をお許しください。

 

それでは改めて、ごめんくださいまた今度。

社会と世間。

 ちょっと前の話なのだけれど、自分ルールとしての禁忌を破り、「徹夜明けて徹夜」、即ち、徹夜して睡眠、昼過ぎに起床してまた徹夜、という暴挙を行使してしまった。

  家での引きこもり仕事だったので、三日ぶりに太陽を浴びてバイクで通勤して退社して、ぬるい風を受けて帰ってきたら、けっこう心地良かった。

 バイクにシートをかけていたら、めちゃくちゃ犬に吠えられて、犬を連れたおじいさんが申し訳なさそうにへへへと笑い、「こいつ臆病なんですみませんね、・・・」と、ぺこりぺこりと頭を下げられた。いやいや大丈夫ですよ、ぜんぜんかまいませんよ、という気持ちを込めて、わたしはヘルメットの中で、そんなような意思を身振りで伝えた。

  その後、おじいさんの犬は、先の階段に腰掛ける若者二人にもわんわん吠えていて、おじいさんはまたしてもぺこぺこ頭を下げて歩いていた。一見して難しそうな若者も、わたしと同じような態度でニコニコ笑っていた。

 

 家のアパートというかマンションというか、とにかくわたしの住処は三階建てで、三階に大家さん一族が住んでいるのだけれど、休みの日になるとお孫さんか誰かの子どもだかが来るようで、わたしの部屋の真上にドタドタと走り回る音がする。

 今の時期は特に、窓を開け放していたりするので、キャッキャキャッキャと笑い声や、エンエン、エンエンと、もの凄い泣き声が聞こえたりもする。

 

 わたしたちは、子どものそういった声などは気にならないタイプなので、少しも嫌な気持ちはしないし、むしろ微笑ましい気持ちになったりもする。

 ところが、本当にもの凄い音だったり、どういうわけか馬が蹄を鳴らす音みたいなのとか、なんなら、「あれ、地震?」などと勘違いするほどの振動が上からすることがあり、そういう時には、かのじょと「本当に本っ当にクレームとかじゃなくて、純粋に、上で何をやっているのか知りたいよね。」と話したりもしている。

 大家さんはすごくいい人なので、多分、そういうことを言ったら、めちゃくちゃ謝ってくるだろうし、遠慮してお孫さんだかをのびのび遊ばせることをしなくなってしまうだろうから、そういうことを聞いたりはできない。廊下などで会った時に、世間話ついでにスムーズに聞き出せるほどの社交性スキルでもあれば別かもしれないけれども。

 

 ところで、子どもとか犬とかの鳴き声に過敏なひとがいるけれど、わたしにはそういう気持ちがあまり無いので、まあ分からないでもないが少しだけ不思議におもう。

 騒音問題、という話題をすれば、動物や子どもたちよりも、大人の方がずっとうるさいし嫌な気持ちにさせられることのほうが、わたし的にはずっと多い。

 ワンワン吠える犬もエンエン泣く子どもも、大概の場合、それを叱るまわりの大人たちのほうが、よっぽど癪に障る叱り方をしていたりする。

 大人は言語で論破しようとするからいけない。世間のことが自分の耳にも聞こえてくるから逐一その正当性みたいなものを考えてしまう。わたし的にはそういうあまり興味の無い問題を「考えて」しまう、ということのほうが、よっぽど騒音だと感じることがある。泣きたいから泣く理由なき子どもや犬ころのほうが何故だかあまり気にならない。

 

 この間、何かのメディアであるひとが、この国には「世間」と「社会」があると、外国人のかたに説明していて、なるほどと唸ってしまった。

 この国のひとは、誰かが落とした財布や携帯電話を、それを拾った人がなんの見返りなしで返してくれる反面、通勤電車では老人や幼児を抱いたお母さんなどに席を譲らない場面がある。その矛盾みたいなものを、外国人がアンバランスに感じるのだという。

 それは、この国のひとが「世間」と「社会」を意識的、あるいは無意識下で、分けて考えているからおこるのだという。

 つまり、平日の満員電車というのは特に「社会」が強く、この国の人は、「社会」というのはそれぞれがそれぞれの役割を担ってこそ円滑に回っている(と、思い込んでいる)ものなので、そこに自分の役割とは違う出来事があったとしても、平気で見て見ぬふりができるし、なんなら、その自分にとっての「社会」にひとたび異質な出来事が入り込むことを、あべこべに厚かましいだとか無礼だとか感じたりして、逆に、腹を立てたりするのだという。

 

 かくいうわたしも、子どもや犬にワンワンエンエン泣かれ、吠えられても嫌な気持ちがしないのはそういうことかも知れない。それはその空間をわたしは「世間」と認識しているからで、むしろぜんぜん気にしてませんよこちらこそ、なんていう気持ちや、場合よっては過剰なほどの親切心が無意識に働いてくるのも、そういった理由があるのかもしれない。

 わたしもたぶん、休日という「世間」の時間帯に、財布や携帯電話を拾ったとしたら、無条件で警察などに届けるだろうし、お年寄りや子連れのお母さんたちがいても、気持ちよく席を譲ることができる。

 さらにいえば、おじいさんがぺこぺこ頭を下げながらも犬を連れて歩くのは、頭を下げるほどにはそう悪い事だとは考えてはいないかもしれず、むしろそこに発生する人との触れ合いを楽しんでいる可能性は高い。

 おそらく「世間」というのはそういう奇妙な魔力みたいなものが働いていて、けっこうみんながそうして親切になれたり、「社会」においては一見すると迷惑だと感じる行為さえも、中和したり反転させたりするのだとおもう。「お互い様」という奇妙な呪文もあるしね。

 

 逆にいえば、わたしが二連続で徹夜仕事という、非常に乱暴で殺人的な業務がこなせるのは、それがわたしにとっての「社会」だからなのだろう。

 つまりは自分自身の「社会」には、どんなに大変な仕事だろうが責任を持って対処出来るし、しなければならないという謎の使命感が湧き出すものだ。

 一方で、その「社会」を妨害されることのほうが、よっぽど腹が立ったりもするのだから、ホント不思議なものだ。

 わたしだって、大家さんがどんなに良い人だろうがなんだろうが、「世間」としての認識で、わたしの従事する専門的な仕事を無償で頼んできたとしたら、ふざけんなとおもうだろうし、犬を連れたおじいさんがぺこぺこしながら仕事を頼んできたら、こっちはプロだぜなめんなよ、とおもうだろう。そりゃ、当たり前か。

 

 それはともかくとして、たぶんこの理論によって、ひとは簡単に弱い人を見過ごせる反面、極端な話、仕事となれば死ぬと分かっていても危険な場所に飛び込める人がいたりもするのかもしれない。

 

 若いひとが昨今、飲み会を断る理由もそういうことかも知れない。彼らは「社会」を毛嫌いしているので、プライベートタイムにまで「社会」を持ち込もうとする大人達に憤りを感じるのだ。

 いや、少し違うか。彼らの多くは「社会」とも「世間」ともうまく折り合いがつけられていないのではないか。だからこそ、「自分の時間(プライベート)」というものを過剰に大切だと感じていて、社会も世間も自分の時間を害する不穏因子でしかないのかもしれない。わたしにも身に覚えがあるからたぶんそういうことだとおもう。

 

 徹夜二日目の時のぼんやりとした頭に流れ込んできた痛ましい事件も、そのような「世間」と「社会」のバランスを深く考えさせられるような出来事でもあった。バスを待つ学童が狙われるというのは、「世間」にとっては非常にショックだし、「社会」としても是正していかなければならない重要な問題だ。

 それから、その後に議論された、「死ぬならひとりで死ね」という犯人に向けられた声も、賛否あるだろうけれど、わたしはただひたすらに愚かだと感じた。

 ようするにそういうことは「世間」で噂しあえば良いし、おもう存分に罵ればいいし、いくらでも批難すればいいが、決して「社会」に大声で発して良い言葉ではない。

 

 それからメディアやネットは、「社会づら」の隠れ蓑をまとった「世間感覚」で簡単に発言するひとが多いのでいけない。そんなこと言うからしっかりした「社会」からの猛反発が起きるのではないか。

 そんなことはわかりきっているのに、いつでもメディアはそういう話をしたがる。テレビのコメンテーターみたいな芸能人も、この事件とはいわないけれど、いつでも顔だけはものすごい悲痛な顔をしてはいるが、どこまでいっても面白おかしく笑いあっているようにしかみえない。

 

 泣く子どもよりも大きな声で叱る親の方がうるさいのに、親でもないひとが叱ってさらにうるさく感じるのは、叱る側が「社会性」を振りかざしているからかもしれない。

 

 あとは、犯人の人となりなんて別に知りたくもないけれど、彼は彼で「社会」からも「世間」からも隔絶されて、さらには自分すらもうまく使いこなせずに、次第にすり減っていく「自分の時間」に、焦りを感じていたのかもしれない。

 

 別に犯人のこととか犯罪のこととか、なんなら世間や社会とかとやかと押しつけがましく言いたかったわけでもないが、こうしてぼやいてしまったのだから仕方が無い。

結局はわたしも、「社会づら」をして「世間感覚」でものを言う、したり顔のくだらない大人に変わりはない。

 

 しかし、それから、要するに、つまりだね、・・・何が言いたかったのかといえば、やっぱりすべてはバランスなのだよという話。ただそれだけなのでした。

 

 飲み会に行きたがらない新入社員の若いひともそれはそれで結構だけれど、もしその根幹に社会と世間にうまく折り合いがつけられず、自分の時間ばかりを大切にしたいという心情があるのならば、もしかしたらその犯人みたいになっちゃうかもよ、という乱暴で極論的な警笛をあえて鳴らそう。

 だって「自分の時間」は誰だってすり減っていくものなのだからね、とあえて云おう。

 だからよければ、ぼくと飲みに行こうよ、とも云おう。

 社会と世間と自分の時間をうまく乗りこなせれば、人生はより豊かになるかもしれないよと、あえて云おう。

 

 今日はそんだけ。ごめんください。また今度。

休みの残響、かも知れないね。・・知らんけど。

来週から鬼のスケジュールがやって来る。本日は家で仕事していて、その下準備なのだけれど、今ベランダでタバコを吸っていたら、すごくうららかでドゥドゥ、トゥトゥ、なんて珍しく山鳩なんて鳴いちゃっているので、作業を中断してこれを書いています。

 

大型連休で遊びまくったら、体調を崩してしまい、崩したといっても熱が出るだとか、なにか菌に感染しただとかいう具体的なものでもなくて、なんだか緩やかに具合が悪くなったり頭が痛かったりぼんやりしたり、肩こり、はいつものことだけれど、とにかくそういうがっつり病気になるというわけでもなく、だらだらと体調不良が続くということ自体が、なんとなく歳をとったなぁと感じる。知らんけど。

そういえば風邪なんか引いても、がっつり熱が出てすっぱり治る、なんてことも、少なくなった気がする。「歳をとると高熱さえ出す体力もなくなる。」といつだか誰かがいっていたけれど、それは真実なのかもしれない。知らんけど。

 

この、知らんけど、というのは、連休に関西方面に行って、かのじょの幼馴染の家で飲んだ時に、みんなが連発していた言葉で、別にわたしにもそれが感染ったというわけではないのだけれども、今思い出して、こうして言葉にしてみると、なかなか曖昧で、便利な言い回しだと感じた。

関東では何ていうの?と聞かれて、これは少し違うかも知れないけれど、かのじょが関東に来て、関東のひとが、「そうかも知れないね、」と言うのが、なんだか違和感があって、そんな言い回しは村上春樹の小説でしか聞いたことがなかったものだから、文章でしか読んだこともなく、本当に言うんだ、と、なんだか気取って聞こえたらしい。

 

で、その幼馴染のひとは、とても公明正大で明るくて、よく笑うひとだった。同席した友達の夫婦も同じくして気のいい人たちだった。その面子で小さなテーブルを囲み、お酒を飲んだ。夫婦の奥さんは妊娠中らしく、飲まずにいた。幼馴染のひとはシングルマザーということで、そのせいかどうかは“知らんけど”、ちょろちょろと八歳になる可愛らしい女の子がテーブルの回りを跳ね回っていた。ということで、そのメンバー六人で楽しいひと時をすごした。

 

大人がお酒を飲むと、おしなべて人の話を聞かなくなるもので、わたしは人の名前はろくに覚えないくせに、誰かが何かをいうと、最期までその話題に対する落とし所みたいなものを求めてしまうのだけれど、くだんの魔法の関西弁はそういう欲求を雲散霧消させてくれた。知らんけど。六人中五人が、関西弁でわたし以外の全員が、ペチャクチャペチャクチャ知らんけど、ペチャクチャペチャクチャ、知らんけど、やんややんや知らんけど。ガーHAHAHA!と豪快に笑っていた。すごく楽しかった。

 

帰りに外に出たら真っ暗で、まあ、真っ暗なのは夜だから当たり前なのだけれど、いやそれでも真っ暗で、真っ暗としか言いようのないほどに真っ暗で、田舎の夜の暗さというものを、すごい久しぶりに体験した。街灯なんて本当にそこだけスポットライトに照らされた舞台のように明るくて、それが暗闇の中でポツリポツリと道なり、おそらく道なりに点在していて、まるで谷内六郎の絵のような世界観で、そのことをかのじょに言うと、ベロベロに酔っ払った声で、知らん、と、その時はは“けど”が付かなかったので、この人は本当に谷内六郎を知らないのだなとおもった。しゅーかんしんちょーはあしたはつばいです、なんて歌うように言えば良かったな、あの真っ暗闇のなかで。

 

それはともかくとして、その街灯と街灯の間が、また同じ表現になるけれど、つまり真っ暗闇で、その光の縄張りを抜けたら黒い異空間みたいに、足を一歩踏み出しても地面につくまでそこが地面なのかすら疑わしいほどの暗闇で、光を後にして歩き出すと、すぐ隣にいるかのじょの顔さえもまったく見えなくなり、果たしてとなりで歩いているひとは本当にわたしの奥さんなのだろうか?この繋いだ手はかのじょに繋がっているのだろうか?なんて、真面目におもったりもした。

地元で、勝手知ったる道のりで、暗かろうが明るかろうが目をつぶっていても帰れるとかのじょは豪語していて、実際に目をつぶってみても、それから目を開けてみても同じ暗さを実感したので、わたしはそのかのじょのものすごく頼り甲斐のある言葉に安心して、手を握って、導かれるように歩いていると、だんだん隣にいるのが誰だろうと構わないような感じがして、誰だろうとこうしてわたしを暗闇から導いてくれているのだから、それは間違いなくわたしにとって、最も近しい人間なんだろうと、なんだか感動にも似た感情が込み上げてきた。

 

うららかで、途中ゲームとかしながら書いていたので、結局こんな時間になってしまった。推敲もしてないし、読みかえしてすらいないので後からする、とも言えなし、たぶんしないので誤字だらけ“かも知れないね”、だけれど、それで誰が困るわけでもないでしょ。知らんけど。

 

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