ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

今ではゲームといえばテレビゲームしかない。

 今週は自分の仕事が少なかったので、雑用を済ませたり封入作業をして費やした。雨の日はゲームでもして過ごすのにうってつけだ。今ではオンラインゲームばかり。たまには誰かと会って違うゲームにでも興じたいものだ。友人と会うのは酒を飲む時でしかない。まあなにをするにも酒は呑むだろうが。

 若い頃はあらゆるゲームをしたものだ。テレビゲームに限らずに。UNOやジェンガや人生ゲーム。麻雀は余りやらなかったけれど、よくトランプはした。

 

  f:id:flightsloth:20170922185329j:plain

 

 数年前「レッド・デッド・リデンプション」のサブモードでテキサスホールデンができて、ゲームで知り合った友人たちと盛り上がったものだ。オンラインでもかなり楽しかったがやはりカードゲームは顔を付き合わせてやるに限る。

 大人数で集まることなど今では稀だし、たとえ集まったとしてもカードに興じたりはしない。酒でも呑んで美味いものでも食べにいくのが関の山だろう。遊びは狭まってゆく。

わたしにとってはトム・ハーディーが最大のオチだった。

 「ダンケルク」を観て面白かったので、ネットでほかの人の感想をみてみたら、思いのほか賛否の意見が別れていてびっくりした。

 戦争映画だけに、ミリタリーマニアのような人がいて、そういう人たちは実際使われた兵器がどれだけリアルに再現されているかが関心事の中心にあることを知った。彼らは映画で登場した重火器がどれだけ細部まで表現できているかが重要らしい。なんでも計器の故障を押して任務のため飛び続ける戦闘機は、リアリティに欠けるそうな。実話に基づく話だけに、どこをどうリアリティの追求に充てるかは、作り手と観る側の温度差はあるかもしれない。ミリタリーマニアのようなひとにはいささか現実味がなかったのかもしれないが、そういうひとは戦争の記録映画でも観ていればいいと思う。

 また、セリフが少なかったり敵の姿が見えなかったりと、表現がわかりにくかったというひともいるそうだ。 一度観ただけではわからないというひともいるそうだ。個人的には、セリフの少なさや敵の姿が見えないことは、かなり高評価なポイントだったので、それがわかりにくいといわれると、ぐぬぬと唸ってしまう。

 銃撃戦がないので爽快感に欠けるという意見もあった。これはまあ確かにそういう意見は出てくるだろうなとは予想できる。できるが、そういうひとは広告なりキャスティングなりをチェックして、くれぐれもそういう作品に当たることがないよう、臭覚を鍛えて準備すべきではないだろうか。そういうのはそちら側で判断してくれなければ。ドンパチが観たいなら他にいくらでもあるだろうに。「戦場のピアニスト」なんてまったくダメなのだろう。あれはそれこそ逃げまくって最終的にピアノ弾く映画だもの。そういうひとは禿げイケメンアクション俳優の映画専門に観ていればいいと思う。

 人物描写に乏しいからダメだという意見もあるようだ。人間の内部を描くのが物語の基本だそうだ。うーん。じゅうぶん描かれていなかったかな、内部。銃弾に慄く若い兵士の表情からは人間の内面を見て取れないのだろうか。覚悟を決めて飛び続ける戦闘機のパイロットの、瞳だけの演技では内面描写とはいえないのだろうか。それともあれだろうか、 船に乗り込むあたりで若い兵士同士が恋人の写真なんかを出して、祖国の話でもして、お決まりのあのセリフ『おれこの戦争がおわったら〜』うんたらかんたらみたいのがあるほうがウケがいいのだろうか。

 批評は全般的にあまり見ないことにしている。批評が嫌いというわけではない。友人たちとは呑みの肴によく映画を批評する。いろいろな意見を聞くことは楽しい。今回読んだ文章はどれもみんな素晴らしい説得力でかなり勉強になった。ひとつの作品に対して様々な角度からの意見を聞くのは楽しいものだ。

 だからどうか批評するひとは、まずはじめに面白かったか面白くなかったかを述べてほしい。友人との会話ではまずはじめに面白かったかどうかを聞くし、言う。それから思い思いに批評でも感想でも述べる。これがあるから、ああこのひとは面白かったからこそここが悔やまれるとか、つまらなかったけれどここは評価しているのだな、と感じられる。その前提がないとものすごくモヤモヤしてしまう。

 確かに批評において、主観を交えることのリスクもわかる。事に、批判的なことをいう際など、少しでも主観を交えるだけで、単なる悪口に聞こえてしまう場合がある。だから本当はストレートに面白かった/つまらなかった、とは云わずに、センテンスのなかにその作品に対する愛情のようなものや皮肉なような批評を交えるやり方がベストではあるのだろう。それならば、しらっと星でも付けてくれるだけでもありがたいのだが。

  わたしはこの映画が非常に気に入ったし、本当に映画は素晴らしいものだと再認識させてくれるような作品だと思う。だから、わかりにくいという意見は少し寂しく思った。映画というか芸術作品全般に云えることだろうが、もちろん観る側に資格なんて無い。誰でも気軽に触れられなければならない。けれど、優れた芸術にはそれを認識するためには、ちょっとした訓練が必要だという事も間違いない。

 研ぎ澄まされた無駄のない作品にはある種の難解さが出てくるし、敢えて描かなかった行間があり余韻があるものだ。それはひとつのシンプルな詩となり、見る者に普遍的な感動をもたらすものだ。それにはちょっとした訓練のようなものが必要なのではないだろうか。

 わたしはダンケルクの名前さえ知らなかった。ノルマンディーもドレスデンもほとんど知らない。硫黄島も、沖縄でさえも。理解できるわけがない。わたしは戦争についてなにもしらない。だからこの映画を観て、あの海岸で起こったことの残滓に少しでも触れられたことに感謝したい。戦争は反対だ。だが戦うことを拒んでも、侵略は向こう側からやってくる。向こうからやってきた脅威に対して、自分だけが頑なに拒んだってあまり意味はないだろう。受け入れるか、立ち向かうか。逃げ場など何処にもないのかもしれない。いつの日か、チャーチルのように雄々しい演説に鼓舞され、自ら進んで武器を手に取ってしまうかもしれない。何も分からないまま惨めに逃げ惑うかもしれない。そういう可能性を考えると少し不安になる。

 因みに、ネタバレっていうのはどこまでのことをいうのだろうか。この映画はそもそも歴史的事実に基づいているものだから、まさか脱出劇の結果をネタバレなどとはいうまい。わたしはなんの予備知識も入れずに作品を観ることが好きなので、あらすじすら確認するのも避ける性分だが。 

 わたし的には、もの困難な状況で戦いを続け、孤独に飛び続けるスピットファイアパイロット。マスク越しに哀愁とタフネスを帯びた瞳を持つそのパイロットが、マスクを取ったらトム・ハーディーだったことがなによりの大オチだった。おまえだったのか!わたしは心の中で叫んだ。だから戦い続けることができたんだな。そりゃあ、トム・ハーディー先輩だもの!そう激しく思ったのだった。監督だけでこの映画を選んでよかった。キャスティングを確認しなくて本当に良かった。もしキャスティングを見てしまっていたのなら、この最大のオチがネタバレしてしまうところだったじゃないか。

 

ヒーローは物語のなか

 なんでも映画「ワンダー・ウーマン」に主演のガル・ガドットというイスラエル出身の女優さんが、ガザ地区への爆撃を支持したらしく、叩かれているらしい。ヒーローにはふさわしくないからだろうか。それをいったらアメリカンヒーローを演じた俳優たちはみんな戦争を反対しているのだろうか。一度も兵役にははいってないのだろうか。ガザ地区で起こっていることを虐殺だというのなら、アメリカの落とした原爆も虐殺だろう。個人的には戦争を支持するのは全面的に反対だし、戦争はみんな集団虐殺でしかないと思ってはいるが。この問題はただ単に、彼女の思想を叩きたい誰かにとって最適なタイミングだっただけの話ではないだろうか。彼女を擁護するほどこのひとのことを知らないけれど。

 パレスチナでのことは映画には関係ない。現実世界でどちらの側につくかでヒーローなのかヒールなのかを判断するならば、戦争だらけのこの世界でヒーローを演じられる俳優なんていやしない。だから物語がある。物語は理想を描く。物語ではイスラエル人もパレスチナ人も北朝鮮人もイランやシリア人もヒーローになれる。

 そもそもヒーローは勝手だ。どちら側にもある正義を、片方にフォーカスしなければ生まれない存在だ。だからヒーローはそういう側面に矛盾があることを常に悩んでいて、いつも答えはでない。そのなかでもアメリカンヒーローは最も安直だ。シンプルだからといって劣っているわけではない。正義は常にシンプルでなければならない。困っているひとがいるから助ける。決して利己的になってはいけない。ガル・ガドットさんは利己的な正義を振りかざしてしまったのだろう。イスラエルも。誰かのために戦うのはいいが度を超してはいけない。自分の正義で誰かを押さえつけてはいけない。誰かのためだと思い込んで戦ってはいけない。いけないかもしれないが、映画には関係ない。

 正義について考えている。物語には正義が溢れている。というかほとんどの物語は「愛」か「正義」。大まかに分類するとこの二通りしかない。正義を正義たらしめるものが「愛」。けれども愛は正義を見向きもせず、むしろ正義を利己的なものに正当化させてしまう側面を持つ。だが愛無き正義は間違っている。そんなテーマが渦巻いている。なにもヒーロー物に限った話ではない。

 有名なトロッコの話がある。たとえばトロッコに乗っていたら線路上に二人の家族がいて、ブレーキをかけると脇にいる五人の他人が死んでしまい、かけなければ家族が死んでしまう。どちらかを選ばなければならない。というあれだ。

 簡単に考えると、「愛」に重きを置いているひとは家族が助かる道を選ぶだろう。だがそれは「正義」にはならない。利己的な正義とはいえるが。

 いっぽう、五人の他人を救うひともまた、「正義」とはいえない。たとえ正義の定理が命の数で決まるとしても、正義のために家族を犠牲にしても良いという道理はない。

 この問題を解決できるのがヒーローである。彼らは議論もくそもなく目茶苦茶なパワープレーで「正義」を成す。まるでリアリティがない。

 アメリカンヒーローの多くはいつでも片方に荷担していた。トロッコの話に正解はないからだ。ヒーローは常に正解をもっていなければならない。だがいつまでもそれを無視することは出来なかった。アメリカンヒーローはなによりもリアリティを重視するからだ。そうして様々なヒーローがこれでもかと量産されることになった。挙げ句、スーパーマンは法廷に立たされた。あんな容姿をしているにも関わらず。

 日本のヒーロー像はちょっと違う。日本のヒーローはみんなを救おうとして、いつも迷い、いつも答えがでない。もしくは、絶対的な悪と戦う場合にも、一般人を巻き込まないためにいつでも近くにある荒野に飛んでいける。まるでリアリティを気にしない。

 アメリカンヒーローはある意味宗教上、トロッコの議題を片隅に置いたうえで、物語が形成されている。あの人種のるつぼの中で常に正義という概念を究極的に突き詰め、だからこその矛盾があり、それを穴埋めさせる存在として、非常に分かりやすいストーリーと分かりやすい容姿をしたヒーロー像が描かれるのだろう。

 いっぽう、日本には明確なヒーロー像というものがいない(子ども向けのものは除外して)。みんな個人的な理由で戦っていて、信念はあれど、正義を深くは突き詰めない。たとえトロッコの議題を突き詰められたとしても、答えなどないさと嘯くばかり。これも無意識のなかにある宗教観かもしれないし、何度も街を破壊された記憶をもつこの国の独特な、諸行無常観というものなのだろう。

 どちらが正しい正義というわけでもどちらに深みがあるという話でもない。世の中の争いごとの根底には正義しかないのだから。