ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

不在による現存

  みなさんご存じの〜、という姿勢で当然のように説明を省くのはあまり好みではない。それはまるで、みんなが楽しくフォークダンスを踊っているときに体育館の隅でクスクスと笑い合っている少数派の連中がいて、その様子がなんだかみんなで楽しくしている様を小馬鹿にしているようにみえ、みんなの気持ちを興ざめさせてしまうのだけれど、隅にいる連中は少しもそんな気はなく、むしろ楽しそうにしている皆と同じように楽しむことができない性分だからこそ、そうして目立たないように隅にいるわけだ。

 けれど、なぜみんなと同じように楽しむことができないかと訊かれても、それを説明するにはものすごい膨大な量の価値観を共有するしか方法はなく、たとえそれらをすべて同期したとしても、だからといって、全員で楽しくダンスを踊れるようになるわけではない、ということを連中ははじめからわかっているので、こうして体育館の隅でわかるひととだけヒソヒソと語り合っているのだと、いくら友好的に説明しようとしても、それは悲しいかな堂々巡りとなり、結局膨大な量の価値観を押しつけなくても、すんなりと心の奥でわかり合えるひととしか、わかり合えることはないのかもしれない、───というような。

 あまりにも構造主義的というか、ポストモダンというか、とにかく伝えるにはより無数に枝分かれしたナラティブが下敷きになって、ようやくたどり着くことなのかもしれず、わたしにはそれを簡潔に伝える技量もなく、やはりこうして沢山のリンクを貼ることになってしまう。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man [DVD]

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 神山健治さん版の『攻殻機動隊S.A.C The laughing man』。すごく入り組んだ物語なので、これはもう本編を観てくださいとしかいえない。

  この物語の縦軸で繋がる「笑い男事件」で登場する「笑い男」。彼は一度だけ生放送中のテレビで製薬会社の社長に拳銃を突きつけて、それから何もせずに逃走を図る。

 劇中、全てがネットワークで繫がっている社会で(脳ですら電脳化され繫がっている)、彼は撮影された防犯カメラ等の映像を、逃走中にハッキングし、自分の顔の部分を書き換え、コミカルなスマイルをモチーフにしたロゴマークにする。

 世間は、犯行動機はおろか、その素性もわからないまま、忽然と姿を消した前代未聞の天才ハッカーをそのコミカルなロゴマークにかけて「笑い男」とする。

 メディアには軒並み取り沙汰され、専門家にも散々分析され、若者カルチャーの流行にもなるが、以前、笑い男の足取りは掴めず、事件は忘れ去れていく。

 

 物語のなかでは、やがてそういった過去の「笑い男事件」をベースにした模倣犯が次々に現れて、というところから、「攻殻機動隊=公安9課」が捜査を進めていくという骨格になっている。

 

 ところで、The laughing manというのは、J.D.サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』という9編の小説のなかに収められている、同名物語のことで(たぶん間違いなく)、 

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

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  劇中のこの事件では、「笑い男」は単なるアレゴリーに過ぎず、むしろ劇中多数引用されるのは同じくサリンジャーの書いた、『ライ麦畑で捕まえて』のほうだったりもする。 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

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  サリンジャーというのは、特殊な作家だ。この『ライ麦畑で捕まえて』と、ほかには『ナイン・ストリーズ』でも登場する架空の家族、「グラース家」を中心とした物語をいくつか書き、それから突如として筆を置いてしまう。

 他にも、ケネディ暗殺犯やジョン・レノン殺害犯も、この『ライ麦畑〜』を所持していただとかいないだとかで話題にもなり、本編に対するミステリアスな側面の読解を試みるひとたちは、たぶん今でも後を絶たない。

 

 サリンジャーの小説はもう、これも読んで下さいとしかいえないのだけれど、読んでみたひとのなかでは、かなり多大な影響を与えられるひともいることは、間違いない。わたしも若い頃に読み、すっかり感化されてしまってくちだ。

 いっぽう、そうでもないひとがいることも間違いない。わたしのまわりにもつまらないだとか意味が分からないだとかそういった感想を持ったひとも、事実数人いた。

 そういうひとたちに理解を求めるのは難しい。それはまるで、みんなで円になって楽しくダンスを踊れない理由を説明するようだ。

 

 ともかく、サリンジャーの小説を全部読んで、それから『攻殻機動隊S.A.C The laughing man』を観ているという前提。これだけでも非常に敷居の高いにもかかわらず、それを話題を念頭に置いて、伝えたいことを伝えたいという術を、このわたしが持ち合わせているわけもなく、勢いで語ってしまったことに少々後悔もしているし、なによりも歯がゆいところだ。

 さら合わせて、この前提を踏まえ、フォークダンスを踊れない理由が説明できない‘‘理由”を、直感的に理解できるひとにしか、言いたいことの全容はわからないかもしれないという事実。尚且つ、右へ習えで簡単に踊ってしまえるわたしのような単純な人格がそれを語ろうと試みる愚行。同時にそれらに自ら目をつぶらなければ語れない事実を、わかっていながら敢えて語ることは、結局、卑怯にも、「皆さんご存じの〜」というような、前提での独りよがりの話題となってしまう。

 

fukaumimixschool.hatenablog.com

  このミチコオノさんのブログ、わたしは見付けた途端にグサリとヤラれてしまい、すぐに読者になった。

 彼女(?たぶん女性だと思う)はとてもアバンギャルドな絵を描く画家さんで、つい最近までものすごく精力的に作品を発表してくださっていた。

 数回コメント欄で言葉を交わしただけなので、わたしは彼女をほとんど知らない。けれど彼女の言葉はまるで彼女の描く作品そのもののようだという印象をもった。

 ごくたまに、発する言葉そのものが言葉以上の何かになり、相手に何かを届けられる術をもったひとがいる。たぶん彼女がそうだ。

  わたしはそういうひとが苦手、というか不得手だ。

flightsloth.hatenablog.com

 なぜなら、わたしは「面白くない国の住人の、いなくならないタイプ」なので、彼女のような面白い国の住人には気後れしてしまうのだ。

 わたしはミチコオノさんの作品をあくまで観察者として読み、関心し、日々の潤いとしていた。それだけだった。たとえここが自分のスペースだからといって、それを少しでも言及、ましてや批評しようだなんて、そんなおこがましいことは考えてもみなかった。

 

 ところが、先日、この記事を読んで、

bougen.hatenablog.jp

  ミチコオノさんがネットの世界からいなくなってしまったということを知り、少し残念に思うと同時に、どうしてもこの話題について書きたくなってしまったのだ。

 彼女が「面白い国の住人の、いなくなったらいなくなるタイプ」だったのかといえば、それさえもわたしにはわからないが。

 

  このサラさんというかたは、とてもヴィヴィットなうえシャープな文章を書くので、わたしは勝手ながら密かに更新を楽しみにしているのだけれど、たぶんミチコオノさんととても親しい仲だと思われる。

 それにしても「逢い見ての〜」という百人一首をタイトルにするハイセンスに感嘆するばかりだ。

 

 彼女のいう(?たぶん女性だと思う)「作品が失われたわけではない」という言葉が力強く響く。

 これはミチコオノさんの作品に関わらず、どんな場面でも当てはまる言葉だろう。作品は作者を離れていく。だが想いは人々に染み渡っていく。誰かの言葉を誰かが受け取る。それはたとえ忘れ去られようと、決してなくなるものではない。きっとどこかに広がり、決してなくならない。

 

 ミチコオノさんが消えた理由はわからない。正直いうとたいして知りたくもない。ネットに嫌気がさしたのか、単に面倒になったのか、トラブルに巻き込まれたのか。あるいはどこかの企業かなんかと契約し、スポンサーサイドから、ネットに書き込むことをNGとされたのか。真相はわからない。彼女はとても優れた芸術家だから後者もあり得るだろうとは思えるが。

 

 ともかく真相はわからないし、知らなくてもいいが、彼女の作品は残り、今でも目に触れることができ、今はそれが全てだと思う。

 

 そして、それから、その不在から派生する“何か”に、わたしはとても興味がある。

 

 『攻殻機動隊』の話に戻るが、一度だけ世に現れた「笑い男」は、その不在性のもと、模倣され続け、模倣者は自らオリジナルを演じることにより、よりオリジナルの不在性を高めていくことになる。

 これはもちろん劇中のプロットとしての隠喩だけれど、同時に、サリンジャーの不在性に対する考察となっている。

 そしてその考察は、サリンジャー本人の引用によって、あべこべに彼が公の場から消えた説明づけともなる。

 

 結局「笑い男」の犯行動機というものは、とても拙く幼稚な正義感だけだった(それはまるで『ライ麦〜』のホールデン・コーンフィールドのジュブナイルな感受性とおなじように)のだけれど、だからこそ、ひとびとはそれに感化され、あたかもオリジナルを守るためだけに模倣し、時にコピーを生み出し、その不在性に輪郭を付けようと躍起になっていったのかもしれない。

 

「 僕は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えた」

 

 これは劇中「笑い男」のロゴマークにも書かれている言葉で、同時に、サリンジャー本人がホールデン・コーンフィールドの言葉を借りて言った言葉でもあり、彼の不在性を関連づけるミステリアスな鍵ともなっている。

 

 と、同時に、「ミチコオノ日記」の17話でさりげなく描き込まれている「ナイン・ストーリーズ」の文庫本に、わたしはその言葉を示唆されせざるを得ない。

 

 あるいは、わたしがこうして書いている行為自体が、その不在による強い輝きに感化され、自ら模倣者役を担い、ある意味ひとつの、彼女のインスタントレーションの一端を、無意識にも担わされているのかもしれない。

 

 だが何はともあれ、あとは、ミチコオノさんの気が向いて、再びこのネット上で、あるいはどこかのギャラリーで、あるいはメディアで、彼女の新作を観ることが出来る日を、待ち望むばかりだ。わたし個人としては。

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  ミチコオノさん、サラさん。勝手に引用してごめんなさい。

 

 

 

 

さらに加速、記憶は逆再生するルサンチマン

 

ー前回までのあらすじ

仕事の忙しさに妄想に逃げ込んだナマケモノ。カムパネルラに導かれて危うく銀河鉄道に乗せられそうになるも、そこで作業は中断。だが次の日もその次の日も続く単純作業の徒労からついに悟りを開いたつもりが「魔境落ち」寸前の状態に陥る。すんでの所で過去の幻影を振り払い、ふたたび妄想の世界に逃げ込み、黙々と作業を続けるのだった。

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 印刷所でのシュリンク作業は序の口だった。それから本格的に六千冊以上の本の束の封入および発送作業が待っていた。到底納期には間に合いそうもない。自営をやっている彼女のスケジュールも消してもらい、無限単純作業を手伝ってもらうことになる。

 

 社長が封筒に入れ、彼女がテープで留め、わたしが宛名を貼る。社長が封筒に入れ、彼女がテープで留め、わたしが宛名を貼る。社長が封筒に入れ、彼女がテープで留め、わたしが宛名を貼る。社長が封筒に入れ、彼女がテープで留め、わたしが宛名を貼る。×6000回。五百ページの本が重たい。しだいに握力もなくなってくる。

 

 さらにその合間に、止めていた本業をこなす。作業螺旋から外れるタイミングがなかなか難しい。いざパソコンに向かいマウスを握るも、頭の切り替えが巧くできない。肉体労働のあとの繊細な仕事。指がもつれる。コマンドを間違える。ベジェ曲線がキレイに引けない。ろくにアイデアも浮かばない。だがあまり考えているひまもない。早々にわたしは螺旋へ戻らなくてはならない。

 

 とはいえ所詮、事務所での内職仕事。わたしたちにはiTunesがある。ラジオも聞ける。これがかなり励みになる。

 いってしまうと、わたしは音楽がそれほど詳しくはない。パソコンにはいっている曲目もそのほとんどが音楽好きの友人たちに借りたものだ。良いなと思ったアルバムが無差別に入っている。どれも古い曲ばかりが三千曲くらい。

 だから、シャッフルで聴いていると、たまに酷いことになる。クラシックの後に激しめのメタルがかかったりする。それはそれで神がかったセレクションだったりもするが、少し前に極端に騒がしい音楽ははずしてしまった。

 

 ロックパンクメタルジャズポップスレゲエソウルヒップホップファンクテクノクラシックハウスブルース。連日夜更けまでの作業で疲れた身体には何が効くだろう。まだまだ続く仕事には、なにを聴けば癒やされるだろう。お願いDJ.iTunes

 

 まずはじめにアイズレー・ブラザース、次にザ・バンド、それからマディ・ウォーターズ。まったく申し分ない選曲。ギターは秀逸。まるで泥と埃と風の鳴る音。出だしがいいと少しばかり心配になる。わたしの専属DJはそんなに優秀ではないはずだ。

  それからマルーン5TLCゴリラズエリカ・バドゥヴァネッサ・パラディブンブンサテライツHIFANA。どれも懐かしいひと昔まえのアルバム。ふだん仕事中はラジオばかりで、今はほとんど音楽を聴いてない。

 「洋楽ばっかだね」洋楽をほとんど聴かない彼女がぽつりともらす。ブンブンとHIFANAは日本人だよ、どっちもインストだけど。なんていってるそばから、ほらきたよ「globe」。ボソボソいうマークパンサーのつぶやきにつられてないで早く歌ってあげてよKeiko。

 

 いい加減疲れた、というポーズを三人で何度となく空中に投げても、それがどこにも戻ってこないことは、お互いわかりきっているので、おおむね黙々と作業を続ける。部屋は温かいし、音楽も鳴っている。贅沢はいえない。

  それじゃあ一曲お願いしようか、パティ・スミス。ちょうどくたびれてうんざりしているところだった。そのけだるさ、そのアンニュイな歌声がちょうど必要だ。ついでにボブ・ディランもお願いしたいところだ。

 

 アリシア・キーズは優等生。可も無く不可も無く、部屋中に広がる。マドンナはアメリカンパイ。いつ聴いても盛り上がるジャミロクワイ。ダイドのThank You。このタイミングで流れるとうれしくなる。ありがとう。camp。これはカーディガンズのニーナの別バンド。campってスーザン・ソンタグのキャンプから取ったのかな?反解釈。悪いけれどエミネムはスキップさせてもらう。すこしやかましい。今日はひとりで聴いているわけではないので、申し訳ない。

 あれ、こんな曲入ってたっけ?ブライアン・アダムスはイケメンアイドル的な感じが好かなかったはずだが、そうだった映画『ドンファン』を観てやられてしまったのだった。リアリー・エバー・ラブド・ア・ウーマン。思わず口ずさんでしまう。

 

 いつまでたっても作業は終わらない。めどもつかない。ボブ・マーリーのいたわるようなメロディが疲弊した身体に染みわたる。ひとつの愛に三羽の小鳥。優しい歌声を持つライオン。だいじょうぶなんにもしんぱいすることはないよ。ありがとうボブ。

  振り向くと彼女が淡々とテープを貼っている。その顔はまるで無。 いや、これはゾーンに入っている。彼女は無意識でテープを貼っている。まさに無我の境地。そう思えば背後に後光すらみえてくる。いや違うこれは魔境だ。わたしがたしなめようとすると、彼女の瞳に色が戻る。サザンオールスターズ、 UAサカナクションフリッパーズギターが彼女を魔境から救う、邦楽多めの時間がやってくる。はっぴいえんど。風を集めて。やっぱり細野晴臣が日本の音楽界の大ボスだね。勝手な批評。

 

 ヒップホップのラインナップは少ない。ア・トライブ・コールド・クエストにルーツ。ほかは入れていない。変わり種としてディズニーランドのエレクトリカルパレードまである。この曲はなんだかワクワクするし、ダフトパンクぐらいに乗れる。わたし的には。

 クラシックはラヴェルソナチネそれからボレロドヴォルザークはアメリカ。マイケル・ナイマンはピアノレッスン。スティーヴ・ライヒはまるでテクノ。アンダーワールドと合わせて聴きたい。

 

 それからミレンコリン、Nofxにビースティボーイズ。ビースティはガレージよりのパンクよりだったころのアルバム。どれもわたしたちが『kids』だった頃に流行ったバンド。これにグリーン・デイオフスプリングが加わればわたしのほぼ青年期は完成する。

 改めて聴くと、今では聴けたものでもないひどい曲目もあるが、やはり名曲もある。ここで「アートは最低10年以上寝かせないと本物が見極められない説」がわたしの頭の中で持ち上がり討論をはじめる。

 

  ザ・ホワイト・ストライプスフィオナ・アップルサブライムNujabes。誰が死んでしまって、だれがまだ生きている?これ以上聴いていると、思い出の密度が濃くて押しつぶされそうだ。

 懐かしい痛みだわ、ずっと前に忘れていた。すごいタイミングで松田聖子も歌い出す。わたしは変わった。感慨に耽る。ずいぶん変わってしまった。音楽なんて長いことじっくり聴いていなかった。

 ベック。初期のアルバム。彼の骨格にはブルースが流れている。ベックもプリンスも変化し続けたが、流れるものはいつも変わらない。時の流れを止めて、変わらない夢を見たがるものたちと戦うため。中島みゆきも歌う。変わることは悪くない。

 

 そして、そこへきてNirvana。満を持してやってくるニルヴァーナ。どうしよう。書くかここで。ニルヴァーナ。あるいはダイナソーjr。J・マスシス。語るか小一時間。

 いや、やっぱり止めとこう。好きすぎるとよろしくない。想いだけが走ってしまう。

 音楽は記憶の扉。音楽は大きなキャンバスだ。日々の単純さにうるおいを与え、つらい思い出さえも置き換えてくれる。古き良き思い出に置き換えてくれる。まるまるごっそりと、過去の自分ごと。何度だって塗り重ねて、好きな色に塗ればいい。

  

 さらに夜も更ける。腹も減り、腕のスジをやられる。彼女はとっくにさとりを開き、テープを握ると後光が差し眉間にポチッと出てくる仕様に変化し、わたしも言葉そのものが空也となって口から出てくるようになる。それから彼女の頭が大仏のようにチリチリになるまえに、なんとか仕事を終えることができる。指の切り傷。無数の軍手。ゴミ袋の束。シュプレヒコール。世情。十代の頃の匂い。涅槃。おわり。

 

魔境落ち

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 てっきり眼鏡をかけていると勘違いしたまま、裸眼でモノを見ているような視力で、既視感的に語らせてもらうと、禅の考え方でいう「さとり」には、なんでも「小悟」と「大悟」のふたつに別れているらしい。そして、そこに至る状態の狭間には「魔境」があるらしい。

 

 「さとり」は日常的に無数にあり、たとえば通常の生活での些細な気づきや心遣いを通じて、深く理解したように感じる体験、なにか一段落上がったような体験、そういうことも踏まえたものを「小悟」という。

 で、もういっぽうの「大悟」は、まあこれも無数にあるらしいのだが、そこはややこしいので省いて話すと、最終的には、あのお釈迦様が菩提樹のもとで悟ったような、そんな全人類がびっくりするような体験を指す。らしい。

 

 とりあえず、『十牛図』というものがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3ja.wikipedia.org

  どうやらこれは、いなくなった牛を牛飼いが探す経緯を通じて、「さとり」に至る10の過程を、図と詩で表したものらしい。

 世俗にまみれたわたしは、単純にそれを10コマ漫画だと受け手止めて、眺めてみる。牛を見失い、牛を探す。牛を見付け、連れて帰る。ところが8コマ目が突如として空白(あるいは〇とだけ書かれている)になる。なんという斬新な手法。それから風景。で、だれだろう突然現れる恰幅のよいひと。非常にシュールな、オチどころのまったくわからないストーリー。だがなぜだか頭の片隅にこびりつく。

 

 それはともかく、小悟がその名の通り「小さな悟」だとするならば、なんとなく解る気もする。それはおそらく、座禅を組んで森羅万象を識るような小難しいことではなく、『十牛図』でいう牛のしっぽを見つけた状態なのだろう。

 日常生活のなかで物事が突如として理解に至る、ぼやけていた頭の中が急にクリアになる。なぜなのかは説明つかないが、たしかにそれは藪の中で探していた牛のしっぽを突然見つけたようなこと。または、見つけたのはごく当たり前のこと。自然の摂理に沿った出来事のように感じること。そんな気持ちに至った経験は、確かにある。気もする。  まったくないような気もするが。

 

 それから、幾度も「大悟」を繰り返し、光明だとか涅槃だと解脱だとか、明確にはよくはわからないが、まあともかく最終的な「さとり」を開いたひとは、まさにあの、「theお釈迦様」とおなじように、眉間あたりにポチっと出来(そのポチっとはビャクゴウ“白毫”という白い毛の塊らしいのだが)、背後に後光が差し込み、なんなら髪型も、仏像などでおなじみのあのチリチリ頭にもなるらしく、だから(か、どうかは知らないが)みんなにもそのひとが悟ったということすらも、直ちに悟れるらしい。

 つまりは、「さとり」の最終段階に付加される最強スキルともいうのは、そのひとがさとりを開いたことを、他人も悟れるわけであり、さらにはそれを目撃したひとすらもつぶさに悟れる、というわけだ。

 

 流石に現人類で背後から後光がさしているひとをみたことも聞いたこともないので、ここ三千年あまりは、いまだ、最終的なさとりを開いたしたひとは誰もいないのだろう。たぶん。

 けれど、わたしはまったくもってそれを信じていないわけでもない。

 もし人類のもとに巨大隕石が落ちてきても、きっとNASAとどこかの掘削屋さんが世界を救ってくれるに違いないし、だったら額にぽっちりとイボのようなモノが付いたチリチリ頭で背後が光っているひとが突如現れても、おかしくはないはずだ。

 

 本当にかなりいろいろな情報の継ぎ合わせでいい加減に語っているので、少々不安になってきた。そもそも宗教的な知識も見識もなくこういうことを語っていいのだろうか。

 だが、どうも書かずにはいられない。そもそも酔っているし、仕事は終わらないし。そんなことでは禅の本懐は揺るぎはしないだろうし。寝る前に数分瞑想でもして、瞼の裏に現れる鈴木大拙先生あたりに謝れば、きっと許してくれるだろう。そこは仏教の懐の広さ。大目にみていただき、浅知恵で語る見解を見逃していただきたい。

 

  それはともかくとして、「さとり」は大小あれど、そこに至るにおいて、少しだけ道を間違える。無我の境地に至った気持ちになる。つまり「悟った気になる」ことを、「魔境」と呼ぶらしい。

 

 そう魔境。この心境がどういうものかを禅宗的な見解で理解することはできないが、この「魔境」に至る、という言葉自体が、日常において便宜的に使いやすいので、時々わたしは口に出すことがある。

 

 魔境は日常生活を営むうえで常にそこにあるもの。気をつけなくてはならないこと。特になにかしら成功を収めた時や、自分が優位な立場にある時には、そこにぽっかりと魔境の穴は開く。

 たとえばすごく楽しい瞬間や、自分が輝いていると感じるとき。使命感に燃えているとき。高い目標に向かっている最中。自分にしかできないことを見つけたとき。みんなの心がひとつになっていると感じているときでさえ、それは常に側にあり、暗い縁をじわじわと広げていることを、心していなければならない。

 

 魔境は常に判り難いところにあり。始末に悪い。問題はどの分野においてでも、ある程度その境地を極めたところで、突如と現れる落とし穴であり、さらにたちが悪いのは、落ちた本人ですら、いやむしろ本人こそが、より魔境に落ちたことに気づきにくいという特性をもっている。

 

 たとえばものすごく感じの良いひとがしばらく会わないうちに、どこか印象が変わることがある。あるいは環境の変化で急に人格まで違ってみえてしまうひとがいる。

 たとえば、穏やかで厳しい人生をおくびにも出さずに他人を思いやるひとたち、歯に衣着せず本音を語るひとたち、辛口といわれるが言動に妙に説得力のあるひとたち、あるいはものすごい面白い芸人や芸能人、識者、覚者、芸術家のかたがた。

 そういう飛ぶ鳥を落とす勢いのかたがたが、さらに一段階登りつめ、有名になったり、人気者になったり、セミナーを開いたり、スピーチを頼まれたり、なにかしら権威のある賞/称号を手したり、番組で司会者を任されたりする。

 

 そういうひとたちは、はじめは同じ好印象、同じ説得力と、力のこもった瞳をしている。ところがある日突然、それはなんの境もなく兆候もみせずに、一変する。急にいい加減なことを言い出したり、配慮に欠ける意見を述べたりする。輝き放っていた燃える瞳はどんよりと鈍色にみえる。媚びへつらうことのないその芯のとおった振るまいも、なぜだか急に、横柄なだけにみえてくる時がある。

 なぜなのかはわからない。ただ仕事が忙しいからかもしれない。わたしのほうがかれらのメタ的表現を含めた言動についていけなくなっただけなのかもしれない。あるいは、ただそのひとに飽きただけなのかもしれない。

 

 それははじめはただの痘痕かもしれない。吹き出物かもしれない。しっかりケアすれば簡単に元に戻り、きっともとの魅力を取り戻すのだろう。

 けれど、彼らはそれに大抵気づかない。なぜならその痘痕や吹き出物を本人は悟りの象徴であるビャクゴウだと思い込んでいて、さらにたちの悪いことに、そこに集まったひとたちもそれを大変ありがたいものだと、勘違いしているからだ。

 遠巻きな冷静な眼をしているひとたちはそれに気づくだろう。なにをそんなに有り難がっているのだろうと不思議に思うだろう。だが渦中で盛り上がっているひとたちはそれに気づかない。魔境はつねにそばにあり、いつもそれに気がつかない。

 

 わたしも明らかに魔境落ちしたことが二回ほどある。程度は違えど。悟った気になっていたのには違いない。

 

 ひとつは、後輩がわたしのいる業界に興味を持ち、飲みに行きたいといったので、焼き鳥屋につれていった際のこと。

 わたしはつらつらと仕事の醍醐味、意気込み、時には社会に対する説教じみた考え方をいい気になって話した。ずいぶん呑んで気持ちよくなって勘定を済ませて店を立つとき、その彼が喜々として、「いやぁ、すごいためになりました。きょうはありがとうございました!」と力強くいって、店の扉を閉めた瞬間に、グエェェ、とやにわに嘔吐したのだった。

  もうひとつは、また違う後輩に飲みに誘われたので、その、まだ若くて貧乏で腹ぺこな後輩に、良かれと思い、焼き肉をおごることにしたときのこと。

 宴もたけなわ、彼がトイレに立つ間際、「すごい楽しいっス」と言い残し、わたしは、よせやいみたいな顔して、ハイボールでもあおっていたら、背後でバッターンと音がしたので、振り向いてみると、その彼が倒れていた。さいわい、すぐに起き上がり、転んだだけだとおどけていたが、きっとわたしのつまらない話に悪酔いしたのだろう。

 

 わたしは猛反省した。どちらもはいはいと小気味よく相づちを打つ後輩の素振りに、すっかりいい気になっていた。わたしは、彼らがどれくらい酒を飲めるのかを確認していなかったし、どれくらい酔っているのかさえ気遣えず、様子をうかがう配慮すらなかった。

 ふたりとも、ただ酒が弱かったのかもしれないし、たまたま体調がよろしくなかったかもしれない。けれど、わたしが後輩の前でイイカッコをしたくて、その結果、結局他人への配慮を欠いてしまった事実は拭いきれない。わたしはいい気になっていた。

 魔境はつねにそばにあり、いつもそれに気がつかない。

 

 なぜそんなことを思い出したり考えたりしているのかというと、それほどまでに仕事が忙しいからだ。近頃。忙しいからこそ、思考だけが遙か遠くに飛び出していく。

 あるいは、あの時に魔境に落ちたわたしの業(カルマ)のツケが、この意味のない忙しさに繋がっているのかもしれない。

 いやむしろ今現時点こそまさに魔境の真っ只中にいるのかもしれない。

 そんなことをじんわりぼんやり考えてしまうほどに、忙しい。

 貧乏暇なし金無し土地も無し、だが頭の中には、ものすごい広い庭を持つ。