ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

ヒエラルキーの呪縛

 雨だったので電車通勤。なんとなく聞こえてくる学生さんの会話、自分たちは「中の中」だとか「中の下」だとか言い合っていたので、なんだろうと耳を傾けると、彼らが話していたのは要するにヒエラルキーの話題で、それを聞いていたらなんだか懐かしい気分になった。

 今はほとんどひとりで仕事をしているので、ヒエラルキーもくそもないが、言われてみれば確かに自分のポジションというものは気になるものだ。

 学生の頃、というか若い頃はそういうことがとても重要な関心事だったし、今でも、何かしらの過去を語る際、状況説明のために、下の上だの中の下だのその共同体でのヒエラルキーを説明することもある。

 たまには見栄を張って「中の上だった」と、自分の評価をかさ増しさせることもある。ところで「上の下」から上は、誰も言わないのではないだろうか。それが本当だとしても、決してひとに良い印象は与えられないだろうから。

 

 ヒエラルキーについては詳しくもないし大して考えたことも無いが、自分の中では社会、金銭、精神の、三つの分類に分けてみている場合が多い。

 要は、『社会』が地位や名誉、『金銭』は収入的ヒエラルキー。このふたつはわかりやすく、会社の役職だったり、単純に金持ち同士が物理的に誇示したするものだから、考察の余地もない。たいした興味も沸きはしない。

 問題は『精神』的ヒエラルキーだ。こいつはなかなかわかりにくい。けれど、実はひとはみんな、こいつの順位を最も重要視しているのではないだろうかと、わたしは思っている。

 

 精神的、というのは厄介だ。見分けにくい。だがいつでもひとは、精神的に優位に立ちたいと無意識下で思っているに違いない。なぜならこれは生命にも関わることで、いじめやDVの主な原因ともなるからだ。

 

 学生の頃はみんな年齢も同じで、もちろん役職もなく、裕福かどうかでひとを判断するほど社会を知らないから、必然とヒ精神的な部分に偏るものだ。

 わたしの世代はいまのようにスクールカーストなんてわかりやすい用語はなかったけれど、そういうピラミッド型のヒエラルキーは確かに存在した。たぶんいつの時代もそれはある。

 だが若い頃の基準は単純で、たとえばサッカー部だったり野球部のエースだったり、お洒落だったり、しゃべりが上手だったり、もしくは背が高かったりと、判りやすい優劣で簡単に上位になる。

 それと、わたしの世代は比較的、学力とヒエラルキーの上位は反比例していて、賢い子はだいたいクラスで目立たないグループにいて、上位の子のように、お洒落だったりヤンキーだったりすることは、とても稀なケースだったと記憶している。それに、金銭的に裕福なことも上位に立てる要因とはならなかった。いまは違ってくるのかもしれないが。

 

 改めて思い返してみると、若い頃のヒエラルキーを計る基準はつくづくいい加減だった。単純な挙動で簡単に覆ったり、ほんの少し勇気をみせることや、気付かれない部分でのギャップで一気に反転したものだ。

 だからたとえば些細なことにキレてみたり、時には喧嘩をしたり、休み明けに髪を茶色く染めたりピアスをあけたりするだけでもある程度の効果が望めたし、また、いつも物静かだったやつが、実はライブハウスでものすごい演奏をしていたりすると、精神的ヒエラルキーは上がったりもした。

 

 そうして社会にでると、金銭、社会的ヒエラルキーが加わって、精神的なものは一見身を潜める。ひとは時として着飾り、権力を振りかざし、おのおのの欲求を満たす。欲求を満たされない者は劣等感に苛まれ、いつまでたっても不幸だと思い込むか、あるいはその位置からの脱却を活力や希望や夢に変える。

  だがそういったことを体験して、ひとは単純に表面的なことだけでは計れないと思い知る。または、一見して精神的に優位に立ったかにみえる人間が、実は虚勢を張っているだけだということを見抜き、大人になってゆくにつれ、徐々にヒエラルキーの呪縛から解放されてゆくものだ。

 

 ところがそんな呪縛からいつまでも脱却できないひともいる。そういうひとは、いつでも隣の芝生は蒼く、心は満たされず、常に勝ちにこだわり、自分にとって有益かどうかでひとを判断し、見栄を張り、満たされない部分を子どもに託し、過剰なほどの期待プレッシャーをかけたりもする。

 それでも金銭、社会的ヒエラルキーに縛り付けられている程度ならば、たいした問題ではない。すこしだけ嘘つきだったり見栄っ張りだったりもするだろうし、それで他人に迷惑をかけることもあるだろうが、だからといって危険が伴うケースはそれほど無い。

 

 最も気をつけなくてはいけないのが精神的ヒエラルキーの呪縛だ。こいつからうまく逃れられないと最悪のケースに陥る可能性すらもあり得る。

 特に、いちどでも上位にいたことのあり、実はその経験はまったくのはったりで形成された、見せかけだけの張り子のピラミッドだとしたら、そういう連中はたちが悪い。

 なぜならそういう連中の多くは、ヒエラルキー的成功体験にいつまでもこだわり、無意味にチヤホヤしてくれる仲間と群れ、いつまでも成長せず、成長を望みもしないからだ。いつも精神的に優位に立つことを望み、たとえ自分がちっぽけでくだらない人間だとしてもそれを認めず、自分が正しいと信じ込み、暴力的なほどの認証欲求を持ち、実際に暴力に走るからだ。

 願わくば、こういう輩には、何も与えられないこと祈る。権力でもお金でも、何もかもだ。ろくに使いこなせないばかりか、ひとに迷惑をかけるからだ。誰かと付き合うことも、子どもを持つことさえも、非常に危険だということを自覚させなければならない。本人がではなく、まわりが危険だという意味でだ。

 それに、車も与えてはならない。力のある閉鎖空間はヒエラルキー欲求を満たすのにうってつけだ。マナーを守れず、自分本位に乱暴な運転をして、たとえ事故を起こしてもなお、間違いに気づかないだろう。

 

 呪縛からは完璧に逃れることはできない。誰にでも認証欲求はあるし、劣等感は常に付きまとう。

 だがなんとか折り合いを付けて、うまく付き合っては行ける。たとえ自分がヒエラルキーの底辺にいて、満たされない青春時代を過ごしていても、そんなものは忘れてしまえばいい。

 世界は広く、頭の中はもっと広い。夏目漱石もいっている。決して他人と比べるものではない。みんながみんな脇目も振らず、興味のあることを真っ直ぐ見つめていれば、ヒエラルキーのピラミッドなど、簡単に崩れ去ってゆくはずだ。隣なんて気にしなければいい。

長雨には蕎麦。

  雨続きの週末。静かでひまな週末。

 午後に髪を切ってもらって、それからいつもの蕎麦屋。いつものように板わさと日本酒を二合、十月でこの寒さ。もちろん燗で。サービスで漬け物も付けてくれる。特製のぬか漬け。それでもう二合。天蕎麦と、本日ははじめて頼むカレー蕎麦。天ぷらでもう二合。合計六号。それで蕎麦をすする。

 お顔の絶えないおばさんと、気むずかしいそう見えて実はお喋りで気さくなご主人が切り盛りしている。

 おばさんの接客はピカイチだ。どんな高級店でも真似できないほどに。それはもはや接客なんてものでもない。天性の気遣いでわたしたちを迎えてくれる。ほんの少しの素振りでこちらの望むものを出してくれる。ティッシュ、そば湯、お茶。いつも絶妙のタイミング。まるでエスパー。いわば最強の「おかあさんスキル」。おかあさんは接客を凌駕する。

 同じくご主人の蕎麦も最高だ。十割だの水だのこだわらくても、店に合った気取らない味が出せる。天ぷらは季節のもの。今日はかぼちゃが美味しい。鴨せいろがわたしの定番。つゆはほんのりゆずの香り。薬味もたっぷりつけてくれる。

 顔は知らないが客はだいたい常連客。それぞれが楽しそうにおばさんと話している。今日は忙しいそうにしているおばさんがかまってくれないようで、ちょっとばかりスネているお客さんもいた。

 思えば週末のこの午後がいちばん安らぐ。お酒はだいたい六、七合。あまり頼むと心配してくれる。お客さんがまばらな日はご主人も出てきて世間話をする。楽しくなるとつい店じまいを忘れて話し込んでくれる。いつでもみんな笑いあい、店をでる。

 もうかなり高齢のふたり。健康が心配。以前にも行きつけの洋食屋の主人がなくなった。街に根付いた「普通の店」がどんどん無くなってゆく。街に必要なのは本当はそういう店なのに。次々に変わってしまう。チェーン店か、駐車場。でなければ小洒落た店に変わる。それも良いが、ひとりで気軽にというわけにもいかなくなる。

 夫婦で切り盛りしているような、そんな「普通の店」。なんとか続けてもらいたいが、わたしのようなただの客にはどうしようもない。できることならNPOでも立ち上げて保護したい。それほどの気持ちはある。だができることといえば、たまに顔を出し、いつものメニューを頼み、僅かなお金を落としてゆくのみ。

 

浅はかな政治と浅はかなわたし

 いまの人は選挙の投票基準に、「どうせなら勝てるところに投票したい」という意識があるらしい。自分の入れた票が少しでも政治を動かしているという証が欲しいらしい。本当かなぁ、と思っていると、つい先日もラジオであるていど若手の芸人さんも同じようなことをいっていたので、あながち間違いではないのだろう。

 今回の衆院選、勝てる、というのは、若者のいうところではどの政党を指すのだろうか。 

  勝てそうなところに投票する、というとなんだか競馬や競輪のようなギャンブル感覚だが、とにかくどこでもいいから投票の意志を持つというのが重要なのだろう。

 いつの頃からだか知らないが、「政治、宗教、野球」の話題をタブーとする昭和的習わしというか、もはや因習と言っても過言ではない事なかれ主義によって、我々世代は永いこと飲み屋はおろか、どんな場面でもそういった話題を避けるようにすり込まれてしまっている。

 この因習によって、政治に無関心になってしまった我々は、さらに上の世代のように「選挙に行きなさい」と安直に説教じみた意見をいうのは、どうにもはばかれてしまう。

 それどころか、今では、「保険に入りなさい」だとか「年金は払いなさい」といった、以前は国民の最低限の義務だと考えられていたことでさえも、到底、浅慮にはいえない世の中になった。

 だからこそ、ギャンブル感覚でもなんでも、まずはとにかく政治に関心を持つことがこれからは必要なのではないだろうか。彼らには少なくとも意思がある。みんなが楽しそうに騒いでいるからとりあえず集まるハロウィンの渋谷のように。なんでもいいから自分の意思で投票所に向かえばいい。飲み屋でも何でも、政治でも宗教でも、気軽に誰でもなんでも話し合える世の中のほうが、良いに決まっている。

 

 政治に関心を持ちはじめるのは、誰もがみんな年をとってからだ。年を取ると、世の中に対するあらゆる不満や不安が押し寄せてくるものだ。それで、それらを政治のせいにするか、あるいは本当に政治によって変われるものなのだと、ようやくそこで気がつくものだ。

 いずれにしろ、社会の不満の大半は、 矛先をそこに向けることができるし、怒りの大半も政治のせいに出来る。遅かれ早かれ年齢を重ねると、不平や不満のはけ口に、政治はずいぶん便利な方便だということに、気がつくものだ。

 だが肝に銘じていなければならない。それを一番よく分かっているのが政治家だということを。

 つまりは、“本当は世の中を良くしようなんて大真面目に考えてなどいない、自分の不平や不満が解消されることばかりをいつでも望み、世間や世界を常に気にかけているフリをして、結局宝くじでも当てて辛く厳しい人生から一抜けすることばかり夢見ている、他力本願の人間が大半を占めている” ことを、いちばんよく分かっているのは政治家であり、要するに、そんなことばかり気をとられる世間を常に軽んじ、うぬぼれ、足の引っ張り合いをしている彼ら政治家たちと同等に、我々も合わせ鏡のように、実の所、いつだって世の中に関心なんてありはしないのだ。ということを、肝に銘じていなければならない。政治家に利用されない程度には。

 

 勝てそうな、という考え方はある意味、理にかなった意見ではある。いささか浅はかではあるが。

 民主主義において最も票を取る政党というのは、いわずもがな政権を取る政党というわけで、政党を取るということは最も多くの人間が支持しているということになる。最も多くの人間が支持している考え方に反発してなんになる、というわけだ。みんながそう思うのなら、自分もそう思う、というわけだ。

 これが浅はかでなくて、なんだというのだろう。

 けれど、選挙に勝ち、大多数が投票というかたちで支持を表明をする、その考えかたが間違っているのならそれは国民の大多数の間違いだということになる。

 だから民主主義は浅はかだ。多数決という浅はかな決め方でないと先に進めない限り、どこまでいっても浅はかだ。

 

 確かに今回の選挙はエンターテインメント的には面白いショーかもしれない。三役が全員怪我で欠場した大相撲、程度にはだが。

 だが所詮は、老人たちの椅子取りゲーム。本当にくだらない。尻馬に乗ろうとする側も、現実的な政策も無しに体制側の座席につくことだけを夢見る連中にも、わたしは本当に興味ない。まったく意味のない解散と、大義のない派閥争い。かってにすればいい。これでどうして政治に関心を持てばいいのか。

 勝てる側につく。そりゃあ結構。今では少数派の意見をひとによっては左翼と呼び、リベラルとも呼ぶようだ。

 だったら排除するのか?少数派の意見、自分とは考え方の違う人間、そんな人間を直ちに排除し、勝てそうな場所に集まる連中を揃え、それを勝利とするのか?

 そいつはいい。ずいぶん古い考えだ。だがいいさ、自分と違う者は村八分にしてゆけばいい。そうしてこの国は古来から進んできたのだろうから。

  政治家は今までの理念を無視し、勝てそうな政党に鞍替えして、国民は勝てそうな正当に投票する。まったく合致しているじゃないか。