ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

残響

 わたしは文章を書いている。あるいは絵を描いている。

 わたしはわたし自身を信じない。わたしの全てを疑っている。

 たとえばあることについて語っているとき、そのほとんどが、自分の言葉ではないことを自覚している。わたしはわたしひとりの個性によって形成されてはいないことを、自覚している。

 わたしのことばは、いつも過去に誰かが語った言葉であり、歌であり、どこかで読んだ文字でもある。それすらも、はるか昔に誰かが語った言葉に違いない。そしてさらに遡れば、また違うどこかの誰かの言葉になる。名のあるひと、あるいは無名のひとたちの言葉。はじめに言葉ありきってやつだ。

 そうしてわたしは、連綿と紡がれていくそういうものの末端を捕まえて、わたしはわたしの言葉として、感受性として、知るや知らずや無意識にも持ち出し、時にしたり顔で語っているに過ぎない。

 

 だがわたしは決してそのことを恥じているわけではない。むしろそれを当然だとおもっている。

 なぜならそれはまるっきり種を紡ぐ行為そのものでもあり、いのちを途絶えさせない記憶でもあり、ひとを繋ぐくさびでもあるのだろうから。

 だからわたしはそうして先人たちが紡いだ言葉たちに憩い、時にしるべとして、臆面もなく、迷わずに話をすることができている。

 

 ところが時々そうして繫がれた螺旋から外れるものがある。そういうひとがいる。あるいはそういう瞬間を目の当たりにすることがある。彼らは独自に創り出すことができる。未知の領域、知らない感覚を創り出すことができる。

  

 そこではすべてが目新しくうつしく、未体験だ。何にも代え難く、何に置き換えることもできず、予測できない、誰も見たことのない景色だ。それはどんなに分厚い本にだって載ってやいない。

 

 それは恐ろしくもあり、懐かしくもある。見るものにひたすら何かを与え続け、何かを思いださせ、音楽を聴かせる。

 それは始めての経験なはずなのに、なぜだかみんなが知っている。掴み所のないもののようでいて、いつも側に寄り添っているようでもある。

 あるいはそれと向き合うものは、立ち所に現れるあらゆる感情の横溢に戸惑い、立ち尽くす。眩しくて目をこらしても実態は判然とせず、見つめ続けるにも勇気が要る。

 それはひとによってはなんの価値もないガラクタであり。ひとにとっては黄金よりも貴重なものになる。

 それを人類は初めから知っているにも関わらず、未だその全容を理解できずにいる。名前すらも、未だ与えられてはいないのかもしれない。

 それにひとたび触れたのなら 、燃える棘となり、心の奥底に刺さり、消えない炎はくすぶり、疼き、だが時に優しく包み込み、暖める。内なる何かを刺激し、羨望と焦燥を同時に掻きたて、血は体中をめぐり、静かに、無音のまま高速回転を続ける。

 

 ひとは“それ”を芸術と呼ぶかもしれない。あるいは愛かも。

 だがどちらでもいい。いずれにしろ同じことだ。なぜならそれらの名前すらも、その場しのぎの音と記号に過ぎないのだから。それすらも、名状しがたい複雑な感情を躍起するための、便宜的な、ただの呼称に過ぎないのだから。

 

 書くことと読むこと、見ることと描くこと、聴くことと奏でること、触れることと触れあうこと、それから感じることと、感じないことでさえ、すべてが円環になっていることがわかる。すべてのものが同じ顔をして、合わせ鏡のように似ていて、それでいて確実に違うこともわかる。

 

 そういう体験を時々する。そういうものが時々現れる。突然に。もしくは予感とともに。もちろんこのウェブ空間でも。

  そういうときには言葉はたいして必要ではない。ただ見つめていればいい。耳を澄ませればいい。心の声にしたがって、ただじっと事の成り行きに任せればいい。ただその瞬間を逃がさぬように噛みしめてさえいればいいのだ。

 賢いひとならばきっとそうしているだろう。ただ沈黙のまま、自分自身の心に問いかけているだろう。だからほんとうは、ここでこうして話している言葉なんてものは、結局は必要のないものなのだ。いくら言葉を尽くしても、結局は独りよがりの戯れごとにすぎないのだ。

 

fukaumimixschool.hatenablog.com

 

nagi1995.hatenadiary.com

 

 だがわたしはわたし自身を信じない。わたしの全てを疑っている。

 わたしのポンコツな言葉なんてものや、感受性なんてものは、いつでもあてになりはしないのだ。個性なんぞ、どうせ記憶の彼方でぼんやりとすすけてしまうのだ。

 

 だから、思い立ったがいま、まさにこうして綴ろう。臆面もなく、物怖じもせず、描くとしよう。勝手知ったるおしゃべりだ。時間さえあればいくらでも話もできるし、いくらでも描いていられる。そもそもコメント欄に書き込めないのが悪いのだ。

 わたしはインスタントレーションの一端だ。わたしは血だ肉だ、二本のにょきっと飛び出た手と足だ。眼だ、耳だ、声なき声だ。存在だ。現存だ。無尽蔵の白熱灯だ。ブリキの鎧で着飾って歩こう。襟のほつれた服を着てパレードに出かけよう。わたしはいたってシンプルだ。ものごとはいつでもシンプルだ。「待て。」と「行け!」しかないレバーを操作するようなものだ。たとえ誰も知らずだれも聞いていなくとも、自作自演で星をつけよう。思えばずいぶん長い間、こうして話し続けていた気もする。こうして話しかけていた気がする。そしていまは「行け!」だ。

 

 あるいはこれは独り言、単純な手紙、ただのファンレター、あるいは熱烈なラブレターだ。言葉はいたって簡単だ。なにをいっても大差はないのだ。素晴らしいとか、感動しただとか、すごいだとか、ありがとうだとか。いくらいっても言い足りないし、いくらいっても、少しも伝わる気がしやしないのだ。

 でもそういうことしか言えないのだ。そういう単純なことしか、本音じゃないんだ。ネットワークで受信したものは、ネットワークに返すことしかできやしないんだ。

 いまでも鳴り響いて止まないこの感情、この残響を、電波に乗せて放つしかないのだ。オウトウセヨ。オウトウセヨ。微弱な電波で送り続けるしかないのだ。いいたいことはひとことだけ。

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 世界はとってもうつくしいですね。

 

 

 

(画像がどうしても荒れてしまう。ので、いちおうフォトライフってやつに上げておきました。よかったら見てみてください。 flightsloth's fotolife )

 

 

 

スポーツ

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 残念なことにわたしは冬季オリンピックにあまり興味がない。話題のフィギアスケートに関しても、輪をかけてなんの知識も持たない。だから人気者のハニュウくんの話は到底できそうにない。

 強いていうならばスノーボード、というかショーン・ホワイトのライドが観れたので、やはりこういう大会はわたしにとっても貴重だといえる。

 

 スポーツ観戦はすきなほうだ。ただ、取りたてて順位やメダルの色などにあまり関心はない。国の代表として、選手たちに優劣をつけたり、一番になれないことに残念がる気持ちはない。

 だがそれはそれとして、その瞬間のために心も体も備えて鍛えて、挑みゆく姿が見られるのは、とてもありがたくもあるし、その姿は美しく、やはり感動もする。そのためには順位をつける行為は重要だとわかるし、出場選手たちだってきっとそうおもっているに違いない。それはわかる。 

 

 だからハーフパイプでいえば、平野選手はよくやったとおもう。本人は悔しいのかもしれないけれど。判定に異議を唱えるひともいるようだが、そういう野暮ったいことは無視をして、やはりわたしにしてみれば、ホワイト選手のほうが格上だったと感じる。もちろんふたりとも技術や高さに差はないだろうが、なんていうか、彼のほうが明らかに場を湧かせていた。

 

 エクストリームスポーツは、技術はもちろん、選手のスター性もかなり重要視される。むしろそこが醍醐味でもある。オリジナリティやスタイルが評価され、スター選手ともなると、本人そのものがひとつのブランドともなる。会場では音楽がガンガンかかり、カルチャーとしてはスポーツ観戦というよりも、観客とのライブ感は音楽フェスにも近い。

 オリンピックがどういう雰囲気なのかは知らないけれど、やはりわたしにしてみれば、勝ち負けというよりも、そのライドがどれだけ印象に残ったかという方向で観てしまう。演奏や技術はともかくフェスでは強烈な印象を残す特殊なバンドのイメージ。そこに勝ち負けなどたいした問題ではない。

 Xスポーツというのはそもそもそういうものだとおもう。どれだけギャラリーを惹きつけられるか。どれだけひとを魅了するかという話。そういう意味ではフィギュアスケートも近いのかもしれない。人気な話題を差し込むつもりもないが、つまり、どれだけ客を魅了できるか、という意味では。

 

 オリンピックは、普段あまり中継されていないスポーツ種目をライブで観られるところがありがたい。オリンピックに限らず、もっと様々なスポーツを観られる機会が増えればいいなとおもう。知らないマイナースポーツでも、しっかり観てみると、大概は面白い。

 うちの会社のおじさんがいっていたのだけれど、綱引きを公式種目にすれば盛り上がるのになといっていた。それはわたしも同意する。

 綱引きならば、あらゆる選手がエントリーできるだろうし、お相撲さんやプロレスラー、もしかすると、普段スポーツをやらない、職人さんなども参加できるかもしれない。国中の力自慢が単純に綱を引っ張り合うことをおもうとワクワクする。スポーツの祭典にはふさわしい競技だとおもう。

 

 それと、この間、朝のテレビでeスポーツもオリンピック競技になるかもしれないといっていた。個人的にはテレビゲームは大すきなのでこれも大いに賛成したい。
 けれど、世間ではゲームをマイナスなイメージとして捉えているひとたちがまだまだいるようだ。個人的に楽しむものだからスポーツとはいえない、という意見もでていた。いやいやそんなことはない。ゲーム観戦もなかなか楽しいものだ。

 

 テレビゲームは任天堂の功績もあり、この国が流行らせたようなものなのに、世間的にはなぜだかそれを誇る様子がみられない。だから、いまでは、ゲームにかける予算も規模も競技としての人口も、ほかの国にずいぶん水をあけられてしまった。ジャンルによっては国産タイトルにも優れたものはあるにはあるけれど、明らかに海外のタイトルのほうが面白いものが多いと感じる。

 

 この国のひとはどうにも自分たちで創りあげたものを矮小化させる気質があるらしい。文化や芸術に疎い、というか敬意を払わない。漫画や浮世絵などにもみられるが、いちど海外で評価されてから、逆輸入的に戻ってこなければ、どうにも評価されないところがある。

 

 こういう気質はとても愚かだと感じる。だからお上はこの国の職人気質のひとびとがひたすら邁進して創りあげた、素晴らしい文化や芸術をいつでも発見できないし、後押ししてもくれない。いつも後追いで、誰かが評価してから、あらためて、ほらすごいでしょクールジャパンとドヤ顔をしているようにみえる。

 

 ところで、スポーツ競技というのはどこで線引きをすればいいのだろうか。瞬発力や頭脳をつかって、指だけを動かしているものでもスポーツといえるのならば、囲碁や将棋やチェスなどもスポーツといえるのだろう。

 eスポーツの競技人口はものすごい数らしい。1億人を超す規模だとか。個人的に楽しんでいるひとやスマホのゲームも入れればもっといそうな気もするが。わたしもアメリカで大会もプロリーグもあるゲームをプレイしているので、その頭数に入っているともいえる。

 

 ほとんど身体を動かさずに、まして球技なんてものはからきしのわたしが、アマチュアといえど、“スポーツ選手”、もしくは“アスリート”を名乗れる日は、案外近いのかも知れない。

悠久のいま

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 仕事をして、家に帰る。二月は寒いのでほとんど出かけない。食事をして、お酒を呑み、テレビなんぞ見ながら笑い合あう。皿を洗い、風呂に入り、ベッドに潜り込み、すこしだけ本を読み、眠る。

 連休が終わりの憂鬱なはずの週明けだが、なぜかそれすらも感じない。いつからか、仕事さえもそうは感じなくなっている。なぜだろう。仕事が好きになったのか。否。答えは簡単。時間がすぐに過ぎるからだ。

 

 子どもの頃に感じた、あの無限に続くように長く感じる時間はどこにいったのだろうか。

 歳を重ねると時間が早く感じるのは、分母が大きくなるからどんどん分子は小さくなるという考えかたがあるらしい。つまり一歳の頃の分母は1で、たとえば“10”という概念での時間は、1ぶんの“10”と分母よりも十倍も大きいが、10歳だと10ぶんの“10”となり、数値は同等となる。だから、30、40、50、60歳と分母が大きくなれば、言わずもがな“10”という時間の概念はものすごく早く感じる。らしい。

 

 なるほど数字を持ち出されると、なんだか説得力があるようにも思える。けれどわたしのような“さんすう”止まりの知能では、なんだか狐につままれた感はやはりぬぐえない。

 それよりも、もっと単純に理論もくそもなく、ただ時間が盗まれていると誰かにいわれたほうが、ずっと合点がいく気がしてならない。ミヒャエル・エンデの『モモ』でもないが、ほんとうに時間は盗まれているのではないか。そう思う。それほどまでに近頃の時の経過は高速に感じる。

 

 わたしは印刷系のデザインの仕事をしているのだけれど、昔の印刷業界といえばそれはそれは乱暴なほどに時間と労力を食う仕事だった(ようだ)。わたしはぎりぎりデジタルの世代だけれど、それでもかなりアナログのやり方で版下入稿をしている業者もけっこう残っていた。

 そうでなくても、データ入稿にフロッピーディスクを何枚も持ち込んでくるひともいたりすると、それだけで、データをまとめるのにかなり時間がかかったし、データ伝送も、isdnだかadslだか詳しくはないから忘れたが、ププ・・プ・・・プロプロ・・ピロピロピロピロ、なんていいながら、印刷所に最終データを送るのでさえ、酷いときには5時間くらいかかった。

 

 もっとまえの活版印刷なんてものは、活字の版をひとつひとつ探し集めていたのだから、少し話を聞くだけで、震えが止まらない。途方もない作業をしていたものだとつくづく感じる。もはやいにしえの技術。「銀河鉄道の夜」でジョバンニが冒頭でアルバイトをしている描写があるが、まさに人海戦術でしか成り立たない仕事だったのだろう。

 

 たしかにデジタルはあらゆる仕事に革命をもたらした。ネットワークの光の網は張り巡らされ、あらゆる業務上の手間を省き、あらゆる時間を短縮化させた。だが、ほんとうにそうか?そうなのか?

 たしかに連絡事項はメールで済ませ、無意味な打ち合わせも昔よりも少なくなった。データ転送もおそろしく早いし、校正はpdfデータで送られてくる。いまではほとんどの時間をパソコンの前で作業できる。どこでもできる。スタバでだってできる。定規も鉛筆もトレース紙もカッターもいらない。その気になれば赤ペンもいらない。けれど、ほんとうか?

 ほんとですかぁ。

 

 ほんとうに時間は短縮されているのだろうか?長く社会人として仕事をしていると、たぶんどの業界にもいえるのだろうけれど、いまでもじゅうぶん忙しく感じているのではないだろうか?だとしたら、あの馬鹿みたいに膨大な量の仕事と時間はどこへいったのだろうか。

 

 もちろん感覚の問題なのでそれを推し量ることはできない。年齢、性別、国、文化。それぞれの立場によって違うかも知れない。けれど、どうしてもこの世界はむかしよりも速度を増して回転している気がしてならない。

 

 わたしは悠久の過去を想う。野に山に川に海に、駆け巡る原始人を想う。そこではすべてに手間がかかる。火を熾すにも狩りをするにも果物を摘むのにも、すべてにどえらい手間と経験と体力が必要とされる。

 だがいっぽうでは、そこには常に牧歌的な日常がある。柔らかい土を踏んで寝転がり、歌をうたい夕げを囲み、陽が落ちれば眠る。自然と生き物はつねにフェア。厳しくもあり悠長でもあるその日暮らし。心はいつも皆と共にある。そこには忙しさのかけらもないだろう。

 

 これからはAIの時代だという。多くの業務が人工知能に取って代わるという。それからわたしたちはどうなるのだろう。果たして、あの頃の原始人のような、心のゆとりを取り戻せるだろうか。

 わたしは数字を信じない。時間の概念が均一なことを信じない。効率化に平穏を見出せない。頭のなかの悠久の時間と、デジタル数値での時間には間違いなくみえない隔たりがある。だからアキレスは亀に追いつけない。永遠に。

 

 わたしたちは現代人。時間の最先端を行く。最先端の技術で時代をスムーズに滑る。今という時間を生き、流れ、せかされ、逼迫している。

 意味を成さない情報の羅列が頭に詰め込まれていて、大切なひとと交わしたゆうべの会話も思い出せない。目の前の問題は山積みで、目を背けているつもりはなくても、視界は常にかすんでいる。眼鏡はいつも曇っている。

 ほら今朝すれ違った男はだれだっけ?昨日社長と話していたあの男。同僚と歩いていたあの男。あの灰色の男は、いったい誰だっけ?

 

 ところでモモはなぜ時間を盗まれなかったのかしら。なにかの能力者?いやいやそんなものではない。彼女は普通の女の子。少し変わっているけれどとてもカワイイ女の子。

 ただ彼女は、ひとの話にじっと耳を傾ける。それだけだ。それだけで人々に自信を取り戻させるのだ。

 

 わたしはベッドに入り、目を閉じる。今が流れては消え、今がじんわりと消滅していくのがわかる。みなさん今日もご苦労様。明日はたくさん話をしよう。それからたくさん話を聞こう。

 眼の裏で巨大な亀がゆっくりと横切ります。ゆっくり、ゆっくりと。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))