ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

真実の口に賭けて、すべて貧乏が悪いのか。

 (今回も完全にぼやきをとおりこしてなんならただの文句なので、スルーお願いします。)

 

 夕べはかのじょが仕事で遅くなったので、予定ではなかったのだがどこか近所のお店で食事をしようということになった。

 

 けっこうひどい雨模様だったので、ほんとうに近所がいいねおいしいパスタとか食べたいなワインが飲めるところがいいね、なんていいながら、目当ての店に向かったけれど、あいにくの祝日休み。

 それでそこから近くの何度か通ったことのあるコスパ安定のバルに向かうと、そちらもお休み。で、その界隈に二軒展開する店舗だったので、念のためもう一軒を覗いてみるがやはり閉まっている。

 

 さてどうするか。飲み屋街からは少し外れた場所だったので、この天気で飲み屋難民はつらいから適当な店に入ってみよう、新規開拓してみようそうしようという作戦になり、目の前にカジュアルフレンチという看板が目に入ったので、前から知ってはいたけれど、なんとなく店構えに魅力を感じなかったのでいつもスルーしていたその店に入ることになった。

 

 店に入ると二階へどうぞといわれ、カウンター脇の階段をのぼる。客はひとりもいない。やや不安な気持ちがよぎる。

 二階は壁が真っ赤に塗られていて、いちばん面積のひろい壁側は、天井からなぜかキラキラ光るビーズみたい飾りが一面にかけられている。

 だだ広い赤すぎる部屋の違和感に店側が気づいたのか、もともとそういうコンセプトでレイアウトしたのかはわからないけれど、一面に光るビーズはなんだか昭和の温泉宿の宴会場、もしくはバブル期のナイトクラブのようだ。

 壁には装飾もなにもなくて、ものすごい低い位置になぜだかとても小さな「真実の口」が掛けられていた。うむ、フレンチなのにローマ。なるほど。

 

 ↓こんなの。もう今回は絵も適当でいかせてもらいます。

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 とはいえ、店の内装がわたしたちのセンスと合致していなくとも、大目にみることもやぶさかではない。料理やお酒さえよければぶっちゃけどうでもいいことではある。

 

 かくして女性の店員さんがやってきて、ニコニコしながらこういう。

 「当店はドリンクメニューがございません。」

 開口一番そんなことをいう。

 

 ん?メニューない?わたしたちは戸惑う。

 え、そういう店?高級店ってこと?大丈夫?あの小さな真実の口に賭けて?

 わたしはそんな心の声をすべてを飲み込んで絞り出すように訊ねる。

 

 「ええと、ワインが飲みたいのですけど。」

 それでしたら。店員さんは満面の笑みを浮かべている。

 「お好みを言っていただければ、ちょうどいいものをお持ちいたします。」

  「ワインリストはないのですか」

 「ございません」

 それもないのかぁ。

 

 ええと、どうしようか。

 「・・こだわりないんで、なんかハウスワインみたいのでいいんですけど」

 「・・ハウスワインもございません」

 わたしたちがむむむという顔を察して、店員さんは言葉をつづける。

 「けれど、お好みを言っていただければちょうど良いものをお出しいたします。」

 お好みねぇ。

 わたしたちは顔を見合わせて戸惑いながら、「じゃあ白の辛口の・・」と、口ごもる。いや、ほんとうにこだわりないんでいちばん安いやつをお願いします。

 

 かしこまりました。

 

 こえーよ、値段いくらよ、本当にお好みの出してくれるの?あのちっこい真実の口に誓って?わたしたちのお好みのワイン、それおいくら?あの店員さんどれだけワインに詳しいの?ソムリエですかね?あのブドウのエンブレムのバッヂは見当たりませんけど、大丈夫ですか?数々の疑問が頭をよぎる。

 

 しばらくすると店員さんが嬉々としてボトルを二本持ってくる。辛口ですと本日はイタリアのうんちゃらかんちゃらとアルゼンチンのなんちゃらをご用意しております。もともと銘柄にさほど興味はないのでなにも頭に入ってこない。

 立派なグラスに注いでくれたイタリアのうんちゃらを、わたしたちはおもむろにテイスティングする。 

 

 !!!!

 ほう。ほうほう。これはこれは。わかるぞ、貧乏人のばか舌でもわかる。これはわかるぞ。

 うん。

 これは明らかに酸化している。

 辛口というか渋いよ。すっぱいよ。

 

 わたしたちは舌で転がして味を確かめるような演技をする。なんとなく。余計にうんうん頷いちゃったりする。なんとなく。次に注がれたアルゼンチンのなんちゃらに一縷の望みを掛け、恐るおそる口を付ける。

 うむ、やはりこちらもやや酸化している。

 

 「どうですか?」店員さんは被せてくる。

 しいていうなら、しいていうならといってもこれはもはや好みではない。しいていうならアルゼンチンのほうが酸化していないかなぁ。そんな顔つきでかのじょがボトルを指さす。まあそうね。しかたないよね。

 じゃ、こっちでとわたしも指さし、その瞬間、スキを見つけたわたしは、

 「ちなみにボトルのいちばん安いやつはいくらくらいですか?」と訊いてみる。これで大体の店の相場もわかろう。

 「ボトルは・・」店員さんは思案している様子。

 ボトルは?

 わたしはみのもんたばりの憂を帯びた瞳で店員さんを見つめる。

 ボトルは?

 かのじょもみのもんたの目つきで食い入るように見つめる。二人の視線が店員さんにフォーカスされる。

 「ボトルは安いやつで5500円からですね」さらりという。

 ファイナルアンサー?

 

 ファイナルアンサー。

 ・・・

 ・・・

 ・・・残念。

 

 

 わたしは天井を見上げる。天井には一面にロココ調の宗教絵のようなものが描かれている。天使やらムキムキの神々やら賢人やらがざわざわしているようなあれだ。

 店内に入ったときは、その絵はマティス的、あるいはMOMA的なものを模したものが描かれているとおもっていたのだが、勘違いだったようだ。絵柄がお世辞にも上手とはいえなかったので、マティス的なMOMA的な現代アートだと勘違いしたようだ。

 

  ↓こんなやつ。さすがにこんなにヒドくはなかった。あ、いや、なんならこの程度だったかも。いや、考えれば考えるほどあの店の絵を驚くほど模写できている気がしてきたぞ。ものの5分で描いたけど。

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  えー、高いよね?値段。ボトル5500円からって、高いよね。やっぱり高級店だよねここ。わたしなんてビーサンで来ちゃってるよ。いいの?ダメならいまからでも退場しますよ。

 えー先に言ってよー。それともこのくらいの値段設定はまだカジュアルの範疇なの?フレンチなの?真実の口に誓って?それともわたしたちが貧乏なだけですか神様。わたしは何度も天井を見上げる。

 

 それから辛うじて選んだアルゼンチンワインを待つことになる。因みにグラスは1杯850円とのこと。幸い、テイスティングで飲んだボトルがわずかだったので、新しいボトルを封空けしてもらえた。あぶないあぶない。

 

 さて、かるい軽食で済ませて一杯くらい飲んで帰ることにしますか、明らかに場違いですよねわたしたちは、ということになり、黒板に書かれたメニューを眺める。

 食事は値段が書かれている。とりあえずよかった。どれも割高だけれど乱暴な価格ではない。

 ただ、ここでもわたしたちにとって魅力的な料理は見つからない。如何せんメニューにサラダがひとつもないというのはいただけない。

 

 しかたがないのでなんとなく「牡蠣のアヒージョ」とパルマ産の「生ハム」を頼む。え、アヒージョ?生ハム?フレンチ?スペイン?パルマ?ナカタ?真実の口?イタリア?ここどこ?横浜?まあいいや。

 

 生ハムならば素早く出てくるとおもっていたけれど、なかなかやって来ない。危うく1杯目を飲み干しそうになるが、そうはいきますか。店の魂胆は見えている。この1杯で世界が終わるまで粘ってみせる。

 

 だが店員さんはものすごいオフェンシブに攻めてくる。「なにか飲み物お持ちしましょうか」二度の可憐なディフェンスで防いだところで、うっかり空にしてしまったグラスをみて反射的に、「じゃあビールを」といってしまう。まてよ、ビールっておいくら?

 

 そもそも他の客がだれもいない二階席、すぐ背後に常に店員さんがマンマークでひとり控えている。気まずいし、居ずらい。つい声も潜めてしまう。

 まるで防空壕に隠れているみたいにしてヒソヒソとふたり顔を寄せあうも、作戦会議はろくに練れず。今にも油断すると「お飲み物は〜」のキラーパスが飛んできそうだ。

 

 しばらくして 料理が運ばれてくる。いい値段なのでフワフワの綿あめみたいな口溶けの薄切り生ハムを想像していたけれど、シャケとばみたいに赤くてぶ厚い。注文を受けてから切りますと書いていたが、あの大仰な生ハム切りマシーンみたいなのやつで切ってはいないのだろうか。

 それに、分厚いのでずいぶん塩辛い。たぶんわりと良い品物の生ハムなので、本来、向こう側が透けるほどに薄切りにしてちょうど良い塩気になるのだろうけれど、いかんせんシャケとばなので塩辛い。

 

 いっぽうアヒージョはといえば、うん、ちょっと臭いよね。わかるし。海沿いと島育ちなめんなよ。青海苔の風味がかなり効いているのはいいが、これじゃあ牡蠣の臭みを消すための役割だけだとおもっちゃうよ。しかもやっぱり塩辛いし。バケット10個くらい欲しいよ。たった二つじゃ相殺できないよ。この濃厚凝縮オリーブ煮。これでお値段1,700円也。

 飲み物は意地でも頼むかとおもっているから、ビールもちびちび舐めるように飲む。だから余計に辛い。そもそもビールはおいくらなの?怖くて追加が頼めぬのだ。

 

 そんなこんなで、ひと息ついたわたしたちは、コソコソと作戦会議を再開する。ビール、900円はするんじゃないかな。だいたい全部で7千円くらいだろうね。テーブルチャージもつきそうだよね。覚悟を決める。

 再び「お飲み物は?」とアグレッシブに正面突破してきた店員さんに、わたしは「あ、お会計お願いします」と軽やかにいなすナイスプレー。

 伝票が運ばれてくるとわたしは素早くカードで支払う。かのじょが好奇の目を向けている。お値段はあとのお楽しみということで店をでる。

 

 店先まで送ってくれて、気さくに話しかけてくれた終始笑顔の店員さんにはもうしわけないけれど、かなり素っ気ない態度を取ってしまったとおもう。雨や止みましたねだとかなんだとか世間話をしていたけれど、こちとらそれどころでもない。早く二人きりにさせなさいよ、まったく野暮だねぇ。

 

 店を出ると、ただちに値段を知りたくてやや喰い気味のかのじょ。驚愕だよ。え、いくらいくら。わたしは少々もったいぶり、黄色い小さなレシートを手渡す。

 

 なんと、5千円。

 

 ん?かのじょもわたしもこの事態に処理し切れていない。レシートにはもちろん内約は書かれていない。

 え?5千円ぽっきりって、なにその場末のキャバクラみたいなキリの良い値段。しかも予想よりかなり安いって。これ計算するとビール450円くらいになっちゃうよ。いいのそれで。

 え、ビールだけは安かったってこと?だったらあの鮭とば生ハムで何杯でもいけちゃうじゃんね。だったらコスパ、安くね?ワインだけいいお値段って話?いやいやむしろなんでプチぼったくりじゃないの。いっそのことぼったくって欲しかったよ。何なんだこの気落ち。

 

 え、つまり高級店だとおもってたら、そうでもなかったでござるの巻?だったらなんでメニュー表つくらないの?ぜったいドリンク言い値じゃん。

 料理が塩辛いのも、結局は好みの問題だし、ひとによっては美味しいと評価するひともきっといるよね。なに?内装が絶望的に好みに合わないから先入観で構えてしまったってこと?こちとらプチぼったくりされる気、満々だったのに。なんでぼったくらないのよ。

 

 整理しきれない気持ちが走り出す。当然、もう一軒行こうという話になる。今度は信用できるバーに向かう。ちゃんとしたお酒を注がれて、この話題を肴に余計に盛り上がる。なんとなく行き場のない気持ちがあり、さらに中華料理屋にも行ってしまう。餃子なぞをばか食いしてしまう。

 

 すべては貧乏が悪いのか。あの店はさほどわるい店ではなかったのか。ひとの好みは十人十色なのか。

 

 だが、こちらとしても自戒の念は数あれど、あのテイスティングの酸化したワインの渋い後味と、そろそろ血糖値なんかも気にしなければならなくなった年齢のわたしや、次の日に塩分で顔がむくんでパンパンになってしまったわたしたちや、未だ口の中に残る塩気の気持ち悪さで昼食さえも食べられず、次の日までおもだるい気分を引きずらせてしまったわたしたちが、たとえウェブにリリースするとはいえ、こんな僻地のただの日記ブログ風情で、たしかに長文ではあるがそれでもささやかな文句のひとつやふたつくらい、店名も伏せたままなのだから、少しくらいぼやかせてもらったとしても、たぶん真実の口は噛みつきやしませんでしょう?ねえ神様。

最近おもったこと。【報告】

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 いよいよ秋めいてきましたね。陽が落ちるのはたいぶ早くなりましたし。これからどんどん食べ物が美味しくなるので、栄養を摂り過ぎないようにしたいものです。

 

 ということで。

 

 まえのまえの日記で1万文字くらいタイプして、すっきりしたのだけれど、なんだか近頃さらに冗長で堅い話題ばかりを書いている気がした。

 それでも、読んでくれているひともいるようなので、それは飛び上がるくらい嬉しい。その反面、なんだか近頃、こうして軽い、というか意味もないしょうもない思考のメモみたいなものを、書きづらくなってきているような気持ちにもなった。

 当初は自身の日記のために立ち上げたようなブログだったので、そのぶん気負うこともなかったのだけれど、いまは本当に読んでくれるひとがいるという僥倖から、話したいことがもりもり湧いてきてしまい、近頃はずいずい長文になっていってしまっている。どんだけ寂しがり屋なんだわたしはと。

 

  それから、自分ルールで、アイキャッチ的なイラストを文章に添えるという体裁でおおむねのこの日記を更新してきたのだが、やっぱりすこしだけルールにぐぬぬと縛られているきらいがある。今回のイラストの即席感のまあヒドイこと。

 最低限当たり障りのない画像とそれに即した文章のバランスみたいなことを考えてしまい、刹那的な思考の移ろいやストレス解消のための単純なお絵かきなんてものをここにリリースするような気持ちが、なんとなくはばかれるようになった。ましてやわたしのよこしまな性分などを書き連ねるとなると、嫌われはしまいかと気を揉んだりもして、かなり勇気もいる。

 

  とはいえ、今までだってこういうことを定期的にぼやいてはいたのだし、そのままで構わないといえば、そうなのだろう。自分のブログなのだからどうしたって良いのだよと実際にいってくれる優しいひともいるし、別にスタイルを大きく変えたいということでもなかったりもする。結局だらだらとぼやきつづけるのがわたしの本性なのだともおもう。

 

  それでも、最近、タイトルが分かりやすかったり、話の流れとはいえ情報提供をしようという意気込みのある文章などが、明らかにアクセスされていたという事実を知り、そういうことも少しは考慮せねば、なんてことはおもったり、おもわなかったりもした。ひとが読んでくれている文章なのならば、せっかくだしと。

 そうかとおもえば反対に、もっと適当でお気楽でライトな気持ちでこれからは公開ボタンをポチろうかともおもったりもする。読んでくれているからといって、そこまで気負うことなんてないんだよ、趣味なんだしと。

 

 最近では読者登録してくれるひとも頭打ちみたいだし、このままなにもしなければ増えてはいかないともおもう。それに登録してくれるといっても、なんだか営利目的のような感じのひとも増えてきた、というか多くがそういうひとで占めてきている気もするし。

 それでもなかには興味深い情報を書いてくれているひともいるので、もちろん楽しく読ませてもらったりもしているので別に構わないのだけれど、あまりにも貧弱な内容に広告だけを貼り付けていて、そのひとの体温みたいなものを感じられないようなブログは、超絶に興味をひかない。

 

 利害が一致しているのならば別に構わないという気持ちもある反面、こちらは完全に趣味なぶん、あちらさんの得にはならないだろうし、あまり意味もなかろうかとおもうから、わたしとしても別にそういうコンタクトはいらない。一応登録してくれるひとは登録しかえしてはいるけれど。ここに限らずTwitterやらInstagramやらでも、登録の数字だけ稼ぐことになにか意味があるのかな。あるのだろうな、きっと。 

 こういうことを書くと、そういうひとたちの反感を買うかも知れないが、たぶんそういうひとたちはこういう無駄な文章は読まないとおもうし、たとえ読んで登録解除されたとしても、わたしは別に構わないし恐れたりもしない。ただひたすら嫌な気持ちにさせてしまったのなら申し訳ないけれど。

 

 まあ他にも諸々ある。いなくなったひととか、ブログを止めてしまったひとのこととか。いろいろ考えたりもする。始めた当初からを考えると、自分が楽しいとおもっているひとたちは結構いなくなった。結局、営利目的でもなんでも続ける理由みたいなものがないと、続かないものなのかなとおもういっぽうで、面白いひとが続けてなくて、お付き合いみたいに登録したひとばかりが購読覧を埋め尽くしているような時には、わたしだってこのブログを止めたくもなる。だってつまんないんだもの、と。

 だがむしろあべこべに、反骨精神みたいなものも湧いてきたりもする。わたしは一生亡霊のようにここに巣くってやる。そんな気分にもなったりする。そういう気概だけでは続かないのかもしれないけれど。

 

 兎にも角にも、こんな愚痴みたいなことをつらつらいっていても、これからもどうせ打ち出したらだしたで、こうしてタイプする指は止まらなくなるので、結局はあんまり変わりばえなどしないのだろうなという諦念の気持ちもあれど、気概だけは少しでも他人にとって有用な情報みたいなものを書いていきたいとは、いよいよおもう次第ではある。できないけれど。

 

 とはいえ、そういうことは結局、建て前というか自分を得心させる言い訳みたいなもので、本心はなんにも意味のないぼやきみたいなことを、こうして無作為にただタイプしていきたい気持ちが近頃は強くて、それをこの場所でリリースするとなると、折角アクセスしてくれたひとに駄文、・・といえば毎度のこと駄文なのだろうけれど、さらにフィルタに残った雑味のような文章を定期的にこうして晒してしまうことがなんだか忍びなく、前々から感じていた、「文章は他人に目に触れた時点で一方的な独白となる」ということと、書き手としての「最低限の配慮」みたいなことに挟まれた、他愛のない日々の移ろいみたいなものを、いわば“成仏させる場”、として、この場所はなんとなく相応しくないようなきがしてきたので、サブブログをつくることにした。というかつくった。なんならけっこう前に。

 

 そういうわけで、ようするにサブブログをつくったというだけの話なので、ここをどうするとかいう話でもない。それでももしかしたら、サブのほうが楽しくなって、こっちをおろそかにするようなこともあり得るし、あるいは違うコンテンツをみつけて新しく違うアバターで転生することだってあるかもしれないので、一応ここで断っておこうとおもった次第ではあります。

 

 だから、もし、なまケモノは最近みないなぁ、とか心配してくれる酔狂なひとがいたとしたら、わたしは元気ですと、いつでもいいたいわけです。それではみなさま、これからもよろしくおねがいします、とも改めていっておきますね。それからついでに、このあいだわたしはおつきあいしていたかのじょと籍をいれました。ようするにケコーンしました。ケコーン。

 一応、ご報告までに。

 

 ということでそれではまた今度。

 どこにも飛び立つことのない、飛行訓練でした。

続、不思議の国のアリス症候群

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 前にも書いたのだけれど、不思議の国のアリス症候群ってご存知だろうか。

 あまり解明されていない奇病(病気なのか?)らしいですね。

flightsloth.hatenablog.com

  最近このはてなブログで「アクセス解析」という項目をみつけて、というか見てみて、というか見かたをようやく把握したので、なんとなく眺めていたら、どうやらかなり前に書いたにもかかわらず、この症状を検索しているひとが未だにいるようなので、すこしだけ調べてみた。

 

 調べてみたといってもネットで検索をしてざらりと読んだだけだし、解明されていないものをわたしなぞがどうにかできるという話でもない。

 けれど少なくとも経験者として経験談を語るくらいはできるとおもう。それで本当にこの症状で困っているひとの助けになるかといえば、それはまた別の話ではあるだろうが。

 

 いや、そもそもこの症状で困っているひとというのは、果たしてどれくらいいるのだろうか。というのも、わたし的にはそれほど困るような現象でもなかったように記憶しているからだ。

 幼少期にはそれほど珍しい感覚でもないということにネットをみていて知ったのだけれど、わたしの見解と一致していたところをみるのは、少しうれしくもあった。

 

 前に書いたことの重複になるのだけれど、この症状を説明するのはとても難しい。とにかく、巨大、最小、高速、緩慢、極太、極細、(あるいは時間も)これらの観念が頭の中に同時にやってくるとしかいえないのだ。

 そうとしかいえないのだけれど、逆にいえば、「大きい、小さい、早い、遅い、太い、細い」この感覚がいっぺんにやってくる、といえば、わかるひとにはわかるというものすごく単純なことだし、ともすれば、やはりわからないひとには他に説明のしようもないという、厄介な感覚ではある。

 

 さらに厄介なのは、この症状、幼少期に多くみられるというところだ。哀しいかな大人というのは、ひとたび大人になってしまうと、子どものいうことを完全に理解することは難しいものだ。

 それに、もうすでに快復(?)してしまったわたしにしてみても、幼少期にこの体験をしているとはいえ、今では、記憶をたぐることでしか説明する術はなく、そうなると問題は、記憶というものは、往々にして取り違えるということだ。

 

 もうひとついえば、わたしの症状と異なっているような証言も、けっこうあるということが、ネットを巡ってみて感じた印象でもある。

 たとえば、あるひとの場合では、遠くのものが大きく見えて、近くのものが小さくみえた、といっているのだけれど、わたしにしてみれば、そういうニュアンスとはちょっと違うかなと感じた。

  決定的に違うのは、“見える”という表現だった。具体的に“見える”では視覚に依存しすぎているようにおもう。わたし的にいえばこの症状は、あくまで“感覚”であり、そして、もっと重要なのは奇妙なことに“同時におこる全ての感覚”というところなのだ。

 

 ますます説明しづらいのだけれど、わたしとしては、「巨大、最小・・etcの感情が同時にやってくる」ということが最大の特徴なので、たとえば本当に見えたり、聞こえるとなると、少々食い違いがあるように感じるのだ。

 本当に見えたり聞こえたりするのなら、言語として説明する術もあるようにおもえる。けれど、全ての感覚が一度に来るというニュアンスは、まるで四次元の世界を言葉で説明するようなもので、たぶん誰にも説明のしようもない。この違いは大きいのではないか。

 

 もちろん、親御さんが子どもに状態を訊いてみて、お子さんが「ものが大きく(小さく)みえる」と証言した場合、たぶんそれは言葉足らずになるだろうから、大人たちはきっと、わが子が本当にそう“見えている”と考えるだろうし、そういう症状とした認識で事例報告されることは、考えられるだろう。

 

 だとしても解せないのは、しっかりと言葉として伝えられる年齢に達しているひとでも、同じように、“見える”などと報告しているパターンがあるということだ。

 だとしたら、わたしが考えている「不思議の国のアリス症候群」とはかなり異なっているのではないか。何度も重複するけれど、“見える”“聞こえる”などの単一の感覚ではなくて、すべてが同時にやってくるのだ。

 まあ別に違ってもかまわないのだけれど、そうなるとわたしの症状はなんだったのかという話にもなってくる。とりあえず、カッコ仮、でもつけておくかな。(仮)。

 

 とはいえ、似たような記憶もないこともない。たとえば、幼少期に父親の身長を100メートルくらいの巨人だと感じていた時期があって、あるとき、ふと親父を見てみるともちろんそんなことはなく、たかだか自分よりも数倍大きな大人だということに気がついて、ひとり驚愕した記憶もあったりする。また、母親に対してはその逆の小さな小さな縮尺だと認識していたことも興味深い。

 あるいは、自分が口にしているクッキーが、もの凄い早さで回転しているへんてこな物体だと急に思い込み、しばらくクッキーを食せなくなった時期もあったりする。

 

 しかし、こういうことは、幼少期の、自我の認識の形成において、よくあることのようにおもえるし、そういう時期に感じたような、“空想と現実の干渉”みたいなことを羅列していけば、誰にだって思い当たる節も、あるのではないだろうかとおもう。

 

 さらにいえば、まさに記憶の取り違いかもしれないし、ただ単に、自我の確立という説明しがたい感覚の一部にみられる、成長の一環としての、ごく一般的な現象なのではないかともおもったりもする。

 

 わたしがはじめに、困っているひとがどれほどいるのだろうかと、疑問を感じている理由もそこにある。つまり、幼児期においては、何らかのタイミングでこの手の症状は誰もが発生している感覚なのではないかと。そういうわけだ。

 

 『すべての感覚が同時にやってくる』なんていうと、非常にミステリアスな感覚だと思いがちだけれど、もしかしたら幼児の感覚や世界の捉え方というものは、当人からしてみれば、それが当たり前の事柄だったりもするのではないだろうか。

  わたしの場合は、ボンヤリしているので人より成長が遅かったし、自我の確立も遅かったようなので、そんな兼ね合いで、ただ単にその感覚を“覚えている”だけに過ぎないという話なのかもしれない。

 

 また、風邪や偏頭痛など、様々な症状を伴うともいわれているのだが、くだんの徴候に先んじて、それらの諸症状を誘発するというわけでは、ないようにおもえる。これには少しだけ自信がある。根拠はないけれど。  

 

 わたしも喘息だし身体も弱いので、多くの場合、体調が悪化した際に、「不思議の国〜(仮)」によく陥っていたことは、はっきりと記憶に残っている。

  けれど、「不思議の国〜(仮)」のせいでわたしの身体が弱くなったとはどうしてもおもえないし、その症状を治療することで、体調が良好になるなんてことも、やはり考えられない。

 つまり困るのは風邪や偏頭痛であって、そこから誘発されがちな「不思議の国〜(仮)」には、たいした弊害はないように感じるのだ。根拠はないけれど。

 

 もちろんこれはわたしだけのケースかもしれないし、それぞれのケースをすり合わせてみれば、感覚的にかなり差異があることなのかもしれない。

 ひとによっては、恐怖やストレスみたいなものを感じるということも、たしかに頷けたりもする。

 それでも記憶の限りでは、そのときは、ものすごい集中できたし、お馴染みの感覚ともなれば、なんなら楽しんでもいたことも確かな記憶ではある。わたしの場合。

 

 いずれにしろ、専門家の方々も一過性といっているようだし、 そこまでナイーブにならなくても良いような病気(?)ではあるかとはおもう。もちろん病気と名がついているのだから、少しでも不安を感じたのなら、ただちに病院で診てもらうに越したこともないのだろうけれど。

 

 余談にはなるけれど、わたしとしての見解では、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を元にこの病名がついたことは、症状と物語の類似性からもうなずけはすれど、もし、本書を読めば、くだんの症状を理解できるのかと訊かれたのならば、それは全力で否定したい気持ちはある。

  それから、ルイス・キャロル本人にも同じ徴候があったかどうか、という話題は、わたしにとってはどうでもいい話でもある。ただ、わたしはこの症候群が病気だということすらも疑ってはいるが、世間的に病気と名のつくことで、あの世界的に有名な物語を説明づけられたとしたのなら、ご本人はたぶん、不本意なのではないかなぁ、とはボンヤリおもう。

 

 ちなみに、わたし的には「不思議の国のアリス」の物語がすきなかたは、ボリス・ヴィアンもお勧めしたい。彼の物語は違う種類の不思議の国へと、連れて行ってくれるますよ。

 

日々の泡 (新潮文庫)

日々の泡 (新潮文庫)

 

 

  それからもうひとつ。わたしは大人になった今でこそ、『不思議の国のアリス症候群(仮)』とみられる感覚が突発的にはおとずれることはないが、その感覚を追体験する方法を実は知っている。

 知ってはいるが、ここで教えることは控えさせてもらう。もっとも、教えたとしても間違いなく個人差はあるし、もともとその感覚を理解しないひとにはまるで意味のないことだし、必要もないともおもう。さらにいえばわたしが定期的にそれを試しているかといえば、その答えは否でもある。

  なんだかミステリアスな締めくくりかたをしてしまったようだけれど、そういうことがいいたかったわけでもなくて、要するに個人的な意見としては、なんてこともない現象だと、わたしはおもったりもする。

 

 専門家ではないので、くれぐれも参考にはしないでくださいな。