ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

しばらくお休みいたします。

 多忙につき、しばらくお休みいたします。

 本当は仕事をお休みしてこちらの飛行訓練を永続していきたいところですが、そうはいかないようです。

 今年いっぱいは執行猶予なしの無期懲役のスケジュールです。とはいえ時間をみつけて少しは更新していきたいとはおもいます。おもっているだけになるかもしれませんが。

 わたしの業界は本来、年度末が繁忙期なので、そこに食い込むとさらに忙しくなるのかもしれません。

 向かい風に立ち向かう片足の野良犬です。

 丸腰のスターリングラードです。

 穴を掘り、そこを埋めるだけの作業です。

 落ちてくる水滴を数えるような仕事です。

 ラテン語で書かれた指示書を解読してからの実作業でございます。

 ポニーで挑むG1レースです。

 軽トラでエントリーするダカールラリーです。

 救急車両は目の前で事故にあいました。

 ビーチサンダルで砂漠を渡っております。

 ゾンビの集団へと単騎で飛び込みます。

 ヒマラヤ山脈の頂上でカバティの試合をいたします。

 ナタで杉の巨木を切り倒す木こりでございます。

 海水パンツと水中メガネだけを装備した潜水夫でございます。

 タンクトップでスズメバチの巣に飛び込みます。

 夜空の星を裸眼のままで、指で数えております。

 

 けど、わたくしは元気です。常に瀕死ですけどなんとか元気です。自己犠牲の精神なんてありません。うまくない事柄からは逃げ出す気持ちは満々です。逃げ出すその日まで精一杯できる限りのことをするつもりでございます。

 

 それではみなさま、また今度。

今年もハッピィハロウィン。なのでしょうかね。

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 今年もやってきますね、ハロウィン。ええ、もちろんわたしは一切参加いたしませんけども、去年もイラスト載せたので、今年もネットだけでは祝っておきますね。

 

 わたしは百鬼夜行派なのですが、そういったイベントは開催されていないようですね。

flightsloth.hatenablog.com

 来年は神無月に出雲めがけてひとり百鬼夜行でも、やってみようかな。

 

 ハロウィンでもなんでもお祭り騒ぎで盛り上がるのはわるくないけれど、いまのように一部の若者だけのコスプレ大会みたいなものではない、しっかりとした様式も取り入れて文化として根付いてもらいたくはありますね。“しっかりとした様式”、というのがどういうものなのかすら、想像もつかないけれど。ヴァルプルギスの夜あたりから勉強すればいいのかな。ルーツがまるでわからないな。

 

 週末の渋谷では痴漢やら暴行やらの犯罪行為もおこってしまったようで、自治会や青年団などが管理したイベント、もしくは神事みたいな行事にならないと、一部の悪のり集団のせいで、取り締まりだけはどんどんきつくせざるを得ないようになるのしょうね。

 

 一切参加しない、なんていいましたが、今年は川崎のハロウィンパレードを観てきました。ちょうどよくこの街に用事があったもので。ものすごく良いタイミングでした。

lacittadella.co.jp

 ↑事後報告でなんですけど。

 

 こちらは若者たちだけのコスプレ飲み会みたいなものとは完全に一線を画すような、しっかりとしたイベントです。おそらくこの国のハロウィンイベントとしては最も歴史が長いのではないでしょうか。仮装もかなり凝っているひとが多く。お子さんも楽しんでいたり、または、ものすごく本格的なモンスターを目の当たりにしてぎょんぎょん泣いている子もいました。

 

 わたしとしてはこれでハロウィンは堪能できたし、なんならお腹いっぱいなのですけど、本番は今月末なので、機会あらば楽しんでくださいね。

 

 それではみなさん良いハロウィンを〜。(←言い方あってるのかな?)

 

月旅行とお化けの絵

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 ゾゾタウンの社長、知ってますか?。ゾゾ社長。

 わたしはあんまり知らないのですけど。

 なんでも社長、こんど行くってよ、月。ムーンですって。

 

 わたしとしては、このひとの経営するネットの洋服屋さんのことも、もちろんご本人のこともほとんど知りはしないが、ワイドショーなんかで話題にされている程度にはなんとなく小耳に挟んではいた。なんでも世界でも有数の資産を持つお金持ちなのだとか。

 そんな、かの社長さんがこの度、月に行くといっているようで、それも数人のアーティストをご招待する、とのことらしい。

 

 わたしがその話を聞いた第一印象としては、なんでまた。という感想に尽きるのだった。おがね持ちのひとの考えることはわがんね。とな。

 いや、月旅行が、というわけではなくて、アーティストに奢るというところが特に。   

 海外旅行でさえ苦手なわたしとしては、たとえば先輩が月旅行を奢ってくれるといわれたとしても、それはものすごい面倒で非常に断りずらいお誘いでしかないのだけれど、行きたいひとにとっては、ものすごくうらやましいことでもあるのだろう。それくらいは理解できる。要するにパチンコで勝った先輩にピンクなお店を奢られるようなものなのだろう。わたしにも若い時分にそういった経験も、なくはない。

 

 なぜアーティストを連れていうかというのを少々調べてみると、なにやら、“月”にインスパイアされた何らかの作品を作る、(いや、作るではなくて、作ってもらうだなこの場合は)ためのプロジェクトだというのだ。つまりは、金は出すから何か作品を作れ、というわけですね。なるほど実にシンプル。わかりました。飯奢るから女の子紹介しろ。わたしにも若い時分にそういわれた経験、なくはない。

 

 とはいえ、アーティストにとってはそういった巨大なパトロンの存在は欠かせないものだろうし、名声を売るためにもうってつけの企画だとはおもう。古来から、画家たちは貴族たちの肖像画を描かされてきたし、そこに才能と需要さえあれば、時を超え付加価値もついてくるというものだ。なんにしても活躍の場を提供されるということは、彼らにとっては願ってもないことなのだろう。

 

 ・・・あれ?

 あれ?

 

 この話題、あんまり興味ないぞ、わたし。

 お金持ちのひとが友だちと旅行がてらドバイに行こうと月に行こうと、どうでもいいなぁ。興味ないことを興味ないままで、あまり角が立たないように話すのも難しそうだしな。どうしたものか。

 

 わたしはお金持ちが少し怖い。お金持ちのひとがお金ですべてが買えると思い込んでいたとしたら、なお怖い。わたしとはまるで考え方が違うから。それは確かに、物質的なものはすべて買い占められるのだろうから、そう思い込んだとしても無理は無いのだけれど、その混同がむしろ怖い。

 では、お金で買えないものが何か?なんて疑問におもうひとがいるのなら、そんなことは各自で考えてほしいところなのだけれども。

 

 ここで少々汚い話をしますけど、昔、水木しげる先生がなにかのコラムで、太宰治について、「書けといわれたが自分は太宰治のことをあまりすきじゃないから、代わりに大好きな糞のことを書く。」みたいなことをいって、本当に糞の話をしはじめたコラムを読んだことがある。

 これは先生なりの皮肉というわけでもなく、まあ太宰治にあまり興味がないことも事実なのだろうが、 本当に先生はシモの話題が純粋に大好物なのだった。

 

 水木しげる先生はとても奔放でユーモアのあるひとなので、文学みたいな一見して高尚な話題と、文字通り鼻をつままれがちな下ネタなんかを、同じ舞台でフラットに話すことができるひとで、そういうところがわたしにとっては尊敬できるところでもある。

 そもそも比べること自体おこがましいのだけれど、わたしにはそういう技術、というかこれはもはや生来の性分なのだろうが、とにかくそういうことができなくて、興味ないことやあまり好みではない話題になると、どうしても険が立ってしまうのでいけない。

 

 水木しげる先生のすごいところは、出版社から原稿料を取っておいて、自分のしたい話をするところだとおもう。わたしなんてあべこべに、お金すらもらってもいないのに、興味のない話題を語ることさえも、ここまで布石を置かなくては、ようように話し始められやしない。

   

 大富豪が莫大なお金を払って慣行する月旅行には興味はないだけれど、わたしは水木先生と違って太宰治もわりとすきなので、月旅行の話題の代わりに、ここはひとつ太宰治の話でもしたいとおもう。

 

 ということで「人間失格」の物語。

 あれはどういった物語なのだろう。どういった解釈で読み解くものだろう。感想はひとそれぞれに違うかもしれない。物語の中での主人公は、なるほどたしかに卑屈な性格ではある。けれど、読んでみればその思考はわりと真っ当な印象を持ち、共感できる箇所もあるのではないか。

 

「恥の多い生涯を送って来ました」

 冒頭近くからこうはじまる。それから粘着質かつ非常に読みやすい文体でねちねちと、「他人の考えていることがわからない」なんていうような一人語りが続く。みんな何を考えているのだろう。常々そうおもって生きているという。

道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……

 と、こう続く。自問自答が続くなかで、この疑問はわりとサラリと流す。

 

 主人公のマインドはまあなんていうかかなり軟弱ではあるが、人として当然な悩みや劣等感を抱え、人間臭くもあり無邪気でもあり、実に正直な性格なのではないか。

  わたしも彼のようにおもっていた。お金のことをしょっちゅう考えているひとなどいやしないとおもっていた。しかし大人になるにつれ、どうやらそういうわけでもないことに気がついた。いるのだ、お金のことだけしか考えていないひとというのは。

 お金のことばかり考えている人間がいることなんて、夢にもおもわない主人公になぞらえれば、わたしも表題のとおり「人間失格」なのだろうかどうなのでしょう。

 

 ひとの考えていることがわからず、自分自身にも嘘をつき、近しい人に嫌われることを恐れて猫を被り、そのペルソナのしたで内面は他人をどこかで嘲笑し、見下してみたりもするが、いかんせん気が弱く臆病なので、そんな自分の本性を見破られてはいないかと、いつも怯えている。そんな主人公。

 誰しもがそんな経験はないだろうか。若い頃なんかには特に。ピュアで繊細で世間となりたい自分との整合性が取れずに、なんだかねじ曲がったような気持ちで鬱々としている。そんな経験はないだろうか。

 

 お金にも名声にもたいした興味も無く、表層にみえる他人の仕草に常に疑いを持ち、自らも上澄みだけで世間をやり過ごす。そんな主人公にも、やがて友だちらしい人間ができる。名は竹一という。

 あるとき竹一は主人公に一枚の口絵を見せてきて、こういう、

 「お化けの絵だよ」。

 ところがそこに描かれていたのはゴッホの自画像である。主人公は疑問におもうが、その瞬間に自分の落ち行く道が決定づけられたようにも感じる。試しに主人公は竹一にモジリアニの画集を見せてみる。

  そのくだりがこちら↓

「すげえなあ」
 竹一は眼を丸くして感嘆しました。
「地獄の馬みたい」
「やっぱり、お化けかね」
「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」
 あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪を確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、
「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」
 と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。

 

 この後の「人間失格」という物語の主人公が向かえる結末は差し置いたとしても、わたしにとっても、この文脈との出会い、気付きは僥倖だった。

 そうなのだ。人は、・・画家に限らず、物づくりをしているひとだけでもない、人は、すべからくして人は、この「お化けの絵」を描くことこそが本懐なのではないだろうか。わたしは、はっとなったのだった。

 自分の中の葛藤や怒りや喜びや祈りのようなもの、そこに内包された化け物。それをなにかしらそれぞれ自分なりの形に代え、逃げずに表現していくことが、人生の醍醐味なのではないだろうか。

 

 太宰治という作家は、特に作品に込められたメタファや生き様を実生活に色濃く引きずっているようにも感じる。

 水木しげる先生は剛気な精神と肉体を持っていたので、物語としてのカタストロフィをそのまま実生活に持ち込んでしまった太宰の弱さが気にくわなかったのだとおもう。

  先生はある日、太宰が入水した玉川上水を眺めて、よくもこんな穏やかな小川で死ねたものだなぁ、と感じたという。戦時中、ジャングルの濁流を丸一日泳いで逃げ、現地で片手を失ってなお生還した先生にとっては、死にたくても死ねないような水流だったのだろう。

 

 実際に、無邪気に自然体のままで化け物を描き続け、自ら妖怪のように生きながらえた水木先生にしてみれば、お化けの絵を描けば良いというところまで発見した太宰が、化け物を描き続けずに、軟弱で退廃的な生活を営んだことに憤っていたのかもしれない。

 わたしはそうおもうのだ。美しい自死なんてないのだから、お化けの絵を描き続ければよかったのだ。やり方はわかっていたはずなのに、なぜそれをしなかったのだろう。

 

 少しだけゾゾ社長の月旅行の話に戻るけれど、社長さんは自分のなかの「お化け」を描けているのだろうか。ちょっとだけそうおもう。

 

  数億円もするバイオリンを買うのもいい。そんな高額な品物はどうせ富豪にしか手が出せないのだから。弾けもしないのに見せびらかすのもいい。オモチャであそぶのはいくつになっても楽しいものだし。もちろん彼も、“適材適所”という言葉くらいは知っているだろう。わたしにとっては数億円もするバイオリンというものは、音楽家の財産であってオモチャではないのだけれど、彼のとってはオモチャなのだろう。なにせ大富豪なのだ。わたしとは考え方がまるで違う。

 

 だが、そんなものを買ったって、いわば「お化け」の足しにはならないことはご本人も承知のこととはおもう。アーティストを宇宙に連れて行ったとしても、自分のなかの化け物は表現できないことも、じゅうぶんわかっているのだろう。

  だからこそ、自らお金を出して、芸術家たちを懐柔したいのかもしれない。あるいは本当に心からの支援をしたいのかもしれない。

 

 それでもお金持ちにとってのアーティスト支援というのは、結局はビジネスに過ぎない。高級時計や高級車と同じように、たとえば絵画も価値が下がることはほとんど無い。お金持ちたちが資産として買い上げて、持ち回りで値をつり上げていくからだ。 

 この度に連れて行く芸術家たちの価値が宇宙旅行という話題性によって、どれくらい価値がつり上がるのかは想像もつかない。

 きっとそれぞれに才能溢れるひとたちばかりだろうから、なにかしらのインスピレーションが湧いてくることだろう。なかには素晴らしい作品をつくるひともいることだろう。その完成度は、“金持ちに奢られた程度”かもしれないし、それ以上かもしれない。どの世界にもギャランティ以上の働きをみせるひとはいるものだ。

 

 だがそれももちろん。芸術家たちのそれぞれ表現であって、化け物であろう。決してゾゾさんの表現ではない。そんなことは本人もわかっているだろうから、やはりわたしにはまるでわからなくなる。なぜそんなことをするのだろう。自分の芸術を志せばいい。自分なりの化け物へと邁進すればいいのに。もしかしてこの人は、ものすごく寂しいのではないだろうか。

 

 ゾゾさんは世界平和を本気で願っているとどこかで聞いた。それはたいへん素晴らしいことだ。だが、だったら何故とさらに感じる。月に行くことはかまわない。高級リゾート地に飽きたのだろう。けれどなんでまたアーティストを連れていきたいのだろう。何故しか残らない。

 彼の本懐はビジネスだろう。そこが彼の表現しうる“化け物”であり、得意分野であろう。ビジネスで、お金で世界平和を目指せばいいとおもう。どんな方法でも構わないけれど、宇宙に連れて行ってまで作らせる芸術に、どれほどの進展があるというのか。

 

 ああ、そうか。

 そもそもゾゾ社長は自分自身の“お化けの絵”なんて必要でないだ。そうだ。そうだった。そうに違いない。そんなこともわからないわたしはやっぱり人間失格なのだろうかどうなのだろう。

 だったとしてもやはり“何故”は残る。

 なぜだろう。金?金か?まさかそれだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、・・・

 

 

 ・・・いまだ、恥の多い生涯をおくっております。 

 

 

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 余談として、

toyokeizai.net

  バンクシー連れて行ったらどうなるのでしょうか。月のインスピレーションで描かれた絵画を切り刻まれたらどう感じるのでしょうか。もしくは、月旅行ドタキャン、なんつって。その後で、「ドタキャンするところまでがアートだ。」なんてバンクシーが表明したりしたら、ゾゾ社長さんは喜ぶのかしら。それともおこるのかしら。ゾゾさんはどこまでも表現をアートとして捉えているのかしら。少し気になる。いや、うそうそ。別に気にならないや。やっぱりこの話題。あんまり興味ないや、ごめんなさい。それではまた〜。