ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

ナマケモノの Wall of Death

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 またしてもサラさんの話題なのですがね。みなさんご存知の。

 いや、何度か取り上げているので、ここではもうあえて、“ご存知の”といわせてもらいます。

 

 というわけでご存じサラさんは激しいヘビィメタル/ハードロック教でもありまして、サブブログとしてそのての音楽ブログを綴っております。

 つまりはそこのヘッダ画像を作成させていただきました。わたし。

abcdefghijklmnopqrstuvwxyz.hatenablog.jp

 けっこう激しめサウンドのバンドレビューですので、興味の無いないかたは取りつきにくいかもしれませんが、そういうひとこそあえて、入門書として、また、コアなファン層のかたにも、ぜひ見て欲しいとおもうほどに素晴らしいブログでもあります。サラさんのビビットな語り口調はこちらでも相変わらずくせになります。

 

 そして、サラさんは友だちであると同時に、わたしにとってはネット世界での直属の上司(?)でもありまして、ある日、「やいなまケモノ、駄目人間達のWall Of Deathのヘッダを描け!」と、マゾっけのあるわたしにとってはとてもうれしい命令を下されたわけでした。(ウソです本当はすごいやわらかいひとです)

 

 そんな話が持ち上がった時分には、わたしとしてもありがたくも忙しい時期でしたのですが(←マゾ)、実はサラさんやさしいひとなので、ある程度ゆとりのある時間を頂きました。

 おかげで、空いた時間を見つけてはちょくちょく進められることができ、飽き性のわたしがことのほかじっくりと込み入った描き込みで作成することができました。

 なにより楽しかった!

 

 サラさんのご所望はシンプルでした。

 ・ブルズ・アイペイントの入ったレスポール

 ・群像

  *(ブルズアイ〜、わからないひとはサラさんのブログをのぞいてみてください。)

 

  これだけでした。これだけですが、わたしとしては構図を考えるテーマとしては充分でした。ビビッときました。なんだかスペースオペラ的なものが描きたいなぁと、すぐにおもいついたのでした。

 ほんとうはいろいろなブログの常連さんやロック史のスターなどのシンボルなどを取り入れもしたいともおもったのですが、それにはサラさんとの連携が必要かなとおもい、あまり忙しい身をわずらわせるわけにもいきませんので、わたしだけの脳内で展開された完全オリジナルキャラクターを描こう、という運びとなりました。

 

 というわけで、とても楽しかったので、ここでもすこし細かく紹介させていただきます。プロ妄想家中二病2.0のわたしとしては、当然、脳内妄想物語も展開していますので、そこも併せて紹介させていただきます。妄想全開ですご迷惑をおかけいたします。

  

 

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 ♯01 クローン型レプリカント“SARA”No.13(ボーカル)

 銀河系に秩序とサウンドをもたらすという伝説の「DAMENINGENピック」を求めて、銀河連盟によって創られたサラさんの超遺伝子を受け継いだ13番目のクローン。

 果てない宇宙を彷徨う末、銀河ビルボードでトップに君臨するスーパーモンスターバンド「Wall Of Death」と合流。以降、バンドはSARAをディーバとして迎え、ツインボーカルとなり、さらなる進化を遂げる。

 SARAのグロウルが伝説のピックを引き寄せる鍵となることがわかり、メンバーたちは全銀河を股に掛けた巨大ツアーを敢行することになる。

 

 

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 左から、オレンジのレスポール号にとりついているのが、

♯02 オールドトラッドボルト“ぼっちゃん” 

 WODの母船レスポール号に取り付いた稀少な寄生宇宙生命体。4歳。用心棒兼ペット。出会った当初は数ミリに満たないほどの極小生物だったが、WODのサウンドに反応して急激に成長する。ぼっちゃんの愛称でメンバーからマスコット的存在として可愛がられている。頭のボルトはレスポール号の予備パーツ。

 

♯03 アンプドキャット トガリ 

  アンプ型宇宙猫。音を食べる。ジョニーの相棒。レスポール号に接続されたトガリを介して、そのサウンドは銀河全域に響き渡る。第三の眼は音を見ることができる。視認した音を食べて耳(アンテナ)からサウンドを調整することもできる。

 

 ♯04 サウンドサイボーグ−M・H・R2型−“七本指”ジョニー(ギター)

  WODのギタリスト。宇宙一のギターテクをもつジョニーがサイボーグ化した姿。宇宙中の名だたるギタリストのプレイデータをダウンロードし同化させることによって、天性のアレンジ力とテクニックにさらなる磨きをかけた。7本指から繰り出されるそにテクニックは、レスポール号で出力され、聴力のない生物にさえそのサウンドを届けることができる。

 

 

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大きい方

 ♯05 モルマニュウム

 移動惑星ネムシに生息するネームシストラの王。WODのサウンドを聴くことにより星を食べて移動するネームシストラの生活を離れ、知古の友人モルダードライヴ とともに、銀河DMTVを(銀河ドラモルテレビジョン)を設立。以来カメラマンとして全銀河中にWODの演奏を届け続けている。

 

あたまに乗っているのが、

♯06 モルダードライヴ

 銀河DMTVの総合プロデューサー兼、DMレコーズエグゼクティブプロデューサー。ファンが高じてWOD専門の放送局とレコード会社を設立した元銀河長者番付ナンバーワンの大富豪。特にミストレス・Kを熱狂的に崇拝している。Kに首から上を捧げて以来、宇宙水牛の頭の骨を乗せているが、それは会社としての体裁を主とした、ただの飾りに過ぎない。プライベートではKに敬意を表すために頭は付けていない。

 

 

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 ♯07 ゴアデス “ランペイジ” プラーガ(ボーカル)

 泣く子も黙るWODのボーカル。腹部のコアから魂を吸収し歌に変える。その声量は銀河中どこに隠れていても響くほど。彼のグロウルを聴きたいがために魂を捧げるファンは後を絶たない。一度捧げた魂は永劫回帰時空間に捕らわれて繰り返し生まれ変わり永遠に彼の声となる。髪の毛は全ての機器に接続できる万能プラグに改造されている。

 

 

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左から  

♯08 スレンダーマン

 辺境の地球にも訪れたこともある宇宙人。人さらいという都市伝説もあるが実はそうではない。スレンダーマンは宇宙に平和をもたらす存在を探し求め、銀河ガーディアンズに加入させるためのスカウトマンなのだ。

 

♯09 キャシー

 類い希にみるテレキネシス能力をもった地球人の少女。その能力をもてあまし故郷では疎まれ施設に入れられていたため、スレンダーマンがつれだした。

 

 

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 ♯10 ミスターブレイン

 名前も身体も捨て、旧式の生命維持装置に脳だけを残した謎の男。WODのセキュリティリーダー。実は宇宙で三番めに喧嘩が強い。だが、現在はぼっちゃんに敗れて四番目となった。

 

 

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 ♯11 不死身のスペースザッパとファントムホース

 不死身のザッパは古の昔、竜の仔ラウに敗北した。その肉体の破片はいつしか宇宙に放出され、長い年月をかけて再生された。完全に記憶をなくし囚人惑星に収監されていたが、ヨーコと共に逃げ出し、やがて記憶を取り戻す。一度は故郷の星に帰るが相棒であるファントムホースを連れ出すとふたたび飛び立ち、スペースザッパとして銀河を飛び回る。

 

ネックの下側に取り付いている

♯12 スペースナマけもの

 ナナシ島の王グラグランからご褒美として宇宙旅行をプレゼントされ、WODのライブで夢のようなひとときを過ごす。あれは本当に夢だったのだろうか。

 

 

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♯13 ボー・ボー・ドゥー(パーカッション)

 惑星ボーの一族は鳥によく似ている。その六つの魂が終わるとき、ボーはボーボーと呼ばれる唯一無二の太鼓にメタモルフォーゼする。ガーは宇宙一のボーボー鼓奏者であった。その魂がボーボーになったとき、息子のドゥーは全てを受け継ぎ、ドゥーは宇宙一のボーボー奏者になったなった。

 

右下手前

♯14 銀河警察モトルー

  新米刑事モトルーはWODのライブにヨーコが来ることを嗅ぎつけた。若さと野心溢れるモトルーは観客に紛れこみ覆面捜査をはじめる。だがひとつだけ誤算があった。彼はWODのサウンドを知らずにいた。そしてはじめてそのサウンドを生で聴いてしまったのだった。

 

 

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 ♯15 ミストレス・K(ベース)

 ファンの間ではこういう言葉がある「ミストレス・Kのファンなら、なんでその首の上にはまだ頭が付いてるんだ?」 彼女はWODの中でもある意味特別なカルト的なカリスマ性があり、彼女のファンは“信者”と呼ばれている。彼女は頭以外に興味がなく、ファンはその精神を示すために彼女に首から上を捧げる。捧げられた頭は決して眠ることもなく彼女のベース音を永遠聴き続けるだろう。

 

 Kのうしろの首だけ

 ♯16 チコ・マンキー

 ナマけものと一緒にライブに出かけたチコ・マンキーはミストレスKのベース音を聴くやいなや、2秒で首を捧げたという。

 

手前、 

♯17 こばやしひろと

 普通の地球人だが宇宙一のHR/HMオタク。そのオタクぶりをモルダードライヴが番組で紹介すると一躍人気者となり、ついに念願のWODのライブに招待されたのであった。

 

 

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♯18 ウォール・オブ・パンテオン & かい・めんたろうくん(ドラム)

 めんたろうくんはもともと意志を持たない宇宙海綿体だった。暗黒物質のオリからできたそれは、あらゆるものを吸収し宇宙をさまよっていた。ある日、WODのライブ会場にそいつは襲いかかった。客の大半を吸収し尽くしてもWODのメンバーは演奏を止めなかった(虐殺と爆音のギグ.,宇宙歴10212088790)。やがてウォール・オブ・パンテオンをも吸収しようと近づいたそいつは、逆にパンテオンに吸収されたのだ。パンテオンの怒濤のドラムテクニックによりなぜか意志が目覚めたそれは、パンテオンの身体を宿主として共生することになる。いっぽうパンテオン暗黒物質を吸収し、さらなるウルトラテクニックを手に入れたのだった。

 

その下、みどりいろの肌

♯19 シドヴィーヴィ “ファニー” プラーガ 

 ゴアデス “ランペイジ” プラーガの実弟。もちろんWODの大ファン。このライブでこばやしひろとくんと知り合い、以後、無二の親友となる。二人がWODを凌駕するほどのパンクバンドを組むことになるのは、また別の話。

 

 

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 左から

♯20 スペーススーツHAKUTOに搭乗したフロリック伯爵  

 宇宙旅行に出かけたナマけものらに置いてけぼりをくい、落ち込んでいる姿を見かねたグラグラン王が、かつてのフロリック伯爵専用機“白兎”を一時的に時空間移動可能な仕様に作り替えた。かくして伯爵はWODのライブになんとか間に合うことができたのだった。

 

♯21 スペースちよちゃん

 「あたし音楽のことよくわからないけど、このバンドはけっこうすきよ。」(本人談) 

 

 

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♯22 宇宙盗賊 “バンデッド” ヨーコ

 ヨーコは80000の強盗罪、300の脱獄の罪で六つの銀河で追われている。ヨーコがいるところには砂金の一粒も残らないといわれている。「ヨーコのお眼鏡にかなわなければ真のリッチマンとは呼べねえ」これがモルダードライヴのかつての口癖だ。

 だが彼女はWODのライブでだけは一切の犯罪行為を犯さないという。チケットさえも自腹で買っていると、本人の口から聞いてもメンバーは誰ひとりとして信じなかった。スペースザッパがチケットセンターの行列におとなしく並び、チケットを2枚購入するのをミスターブレインが目撃するまでは。

 だがようやく伝説のピックを手にしたSARAの姿をみると、ヨーコの目の色が変わった。そこでメンバー達はヨーコの早業をはじめて目の当たりにしたのだ。メンバーの誰ひとりとして身じろぐことさえできなかった。

 こうして伝説のピックは奪われ、メンバーたちはヨーコからピックを取り戻すための、果てしない大冒険の第二幕は始まったのだった。今日も大銀河宇宙のどこかでWall Of Deathのサウンドは鳴り響き、そして鳴り止まない。

 

 

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妄想全開ご迷惑をおかけしました。

たまには短く呟きたくもあります。

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 困ってます。クマってます。こんなくだらないダジャレをいってしまうくらいヤキもまわってます。実はそこまでは困ってないです。(なんなんだ。)

 

 まったくもって完ぺきな五月病にかかってしまったようだ。なにもかもやる気がおきない*1。その証拠に上文の一行を綴るのにもなんどもタイプにしくじってしまう始末。

*1(まったこもて巻べきなぎょがつにゅごがうびょこが五月病・・・)

 

 あるいは燃え尽き症候群。今年は三月あたりからことのほか忙しく、遊びの予定が詰まっているGWまでになんとか間に合わそうと苦心し、身の丈に合わないブーストをかけてしまったからかもしれない。

 

 それから、多忙な日々から反転して、ぴたりと暇になったことにも起因するのかもしれない*2。そしてその反面、酷使した体と頭の揺り返しダメージは消えることなく残ったまま、躯の何処かで吸収し、くすぶりせしめている。

*2(それかたのの多忙な秘技かあラ反転して、どこ於福風とばかりにぴかたり・・・)

 

 慢性的な肩コリはもはやどこが凝っているのかさえもわからなくなっている。肩甲骨あたりがいつもなんとなく痺れているし、首から肩周りはつねに筋肉痛のようなハリと痛みがある。無意識に右腕を揉むクセは果たして何年前からなのだろうか。

 

 つまりこうしていまげんgざあいくりかえす望外なああたしふあたいぷみうもびゆびさkがひえへいした・・・*3

*3(つまりこうして現在進行形でくり返す膨大なタイプミスも指先が疲弊してこわばっているからかもしれない。)

 

 指先までくたびれているから、なんとなく文字を打つことも絵を描くことも億劫に感じる。書きたい気持ちは十二分にあるのだが、いよいよ躯がついてこれないようだ。

 

 併せて届いた、関連業者のひとのリストラの知らせ。いくら忙しかろうと年間でなめしたら大した利益も望めない先細りの業界に身を置くわたしたち。いくら理不尽を謂われようともはいそうですかと平服するしか術もなく、他の手段も思い浮かばず、明日は我が身と震えるばかり。

 

 はたらけど はたらけどなお わがくらし楽にならざり ぢっと手を見る

 

 ここへきてじわじわ効いてくる石川啄木。“ぢっと手を見る”のくだりがわたしのもっともやわらかい箇所に突き刺さる。たぶん啄木先生がいう“楽に”は、「楽して暮らしたい」という意味ではない。これはきっと、やりたいことが仕事に邪魔されてままならないことを詠った句なのだ。
 

 それはそうと、うちの会社のおじさんはしょっちゅう咳払いをする。ひどいときには一分間に四、五回、いや六回はしている(ようにおもえる)。そんなにも痰が絡むのだろうかと単純な疑問。

 くさめだって、されこうべごと口から飛び出すのではないかと思わせしめるほどに盛大で、なにやらブツブツと独り言も多い。あくびだってやかましい。典型的、教科どおりの“存在がやかましいおじさん”だ。

 もちろん年齢によるものだろうけれど、わたしよりも数倍は広く大きく、“加齢”の厄災がふんだんに降りかかっているようにみえる。

 ひとりのときでもやはりうるさいのだろうか。もしかしたらわたしに何らかのサインを送っているのではなかろうか。時々そうおもう。おもうだけで当然、訊ねはしない。

 だが間違いなく、おじさんはひとりでも忙しなく咳払いをしていることだろう。

 咳をしても一人。

 なんだか物悲しいですね。尾崎なにがし。

 

 文句みたいに聞こえるだろうけれど、そうでもない。同じく加齢を重ねていくわたしとしては大いに参考にはなる。たしかに主に反面教師としての教えにはなってしまうけれど、その果てしないまでの鈍感力にはむしろ感服するところもあるし、些細なことを気にしない、というか天然で気づかない性格にはもはやわたしには決定的に欠けているシンプルさと、併せ持ったダイナミックさみたいなものに、なんとなく強い生命力すらも感じ取れる。まあ女性ウケは格段に落ちるのでやはり参考にはならないのだけれど。

 

 とりたててこんなことをいいたかったわけでもないので、がらりと話題を変えるが、わたしは数ヶ月前からなんとなくこのブログの在り方に、迷子になっている。ブログというものは多くのひとが三ヶ月あまりで止めてしまうとどこかで聞いた。わたしの場合は半年あまり過ぎているので、はじめの難所はいつの間にやらクリアできていたのだとおもう。文字を書くのも読むのもすきなのでたぶんこれからもこういうペースであれば続けられるともおもう。おもうことはおもうが、いろいろと気になるアラというかジレンマというか、とにかくそのような箇所がぽつぽつ出てきてはいる。

 

 まずひとつめには、文章が長くなってしまうところ。だがこれはもうあきらめている。そういうひとなのだ、わたし。もう開き直るしかない。 

 それからふたつめとして、その長くなった文章と同じテーマなりで絵を描くことを、なんとなく窮屈に感じるときがある。書きたい文章であっても描きたい絵ではなかったりする。もっと動物とか描きたかったりするのだが如何せんそういう話題ばかりにはならない。だから今回もくだらないダジャレで強引にねじ込んでシロクマを話題に取り入れてしまう始末(単純にシロクマが描きたかった)。

 なんなら本当はクリーチャーとか化け物みたいなやつらをいつでも描いていたいが、当然、頭のなかで書きたいことは、そんな話題にはならない。

 

 やりたいのならただやればいいのだろうけれど、生来ずぼらなわたしはある程度の制約というかテーマに沿っていないと、どんどんあらぬ方向に流れていってしまうので、なにかしらの自分ルールが必要なんだとおもう。今回みたいな、もうすこし脱力した短めの文章もたまにはリリースしようかともおもうが、結局は現状維持かなと。

 

 そんなことを考えていながら、前回書いた自然だの生命だののことを考えていたら、調度こんなやりとりがネット上でなされていたことを知った。

 

togetter.com

 

 このtogetterがなんなのかもわからないし、なんとなくみんなして攻撃的な言葉でやりとりされているのが少し恐ろしいのだけれど、こうして話し合えるのは羨ましいとおもった。結局ブログというのは一方通行に近いものなので、不毛でもなんでもダイレクトに会話を楽しめるツールも良いものだなとおもった。

 

 いざなにかを話し出すと止まらなくなってしまうほどにおしゃべりな性格なので、無限の繰り言を数千文字書けるこのブログは、わたしのスタイルには合ってるとはおもう。けれどたまにはウチの会社のおじさんのようにとりとめのないことを呟いてもみたくもなる。

 

 というわけでとりあえずTwitterをアカウントだけ、取得してみました。

 相変わらずスマホをもっていないのであまり意味はないのだろうけれど。 

 フォローだけは片っ端からしていこうとおもう。

 なにをどうするかまったくわからないけれど。

 こわくてひとことも呟けないけれど。

 とりあえず、暇なときにでも、なにかひとつ呟いてみようか。

 咳をしてもひとり。なんて。

クジラの問答

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 ひとむかし前まで、自然界や野生動物を扱ったドキュメンタリーなどが苦手だった。子どもの頃はむしろ嫌いだった。嫌いというより怖かった。

 

 たとえば海亀。産卵からはじまり、孵化した子ガメたちの海岸から海までの険しい道のり。カニに食べられたり海鳥についばまれたり。波打ち際までたどり着いてもなお、荒波はいとも簡単に子ガメを押し返し、濡れた砂浜で力尽きる。

 それからナレーション。「海へとたどり着いたわずかな子ガメたちにはこれからも様々なキビシイし自然の試練が待っていることでしょう。」とかなんとか。

 哺乳類の子は産まれてすぐに立ち上がる、プルプル足を震わせて必死に立ち上がる。今すぐに天敵から逃げ出す準備をしなくてなならないのだ。とかなんとか。そこで差し込まれる感動的なBGM。

 

 幼いわたしはそんな自然界にひたすら戦慄するばかり。非情で無慈悲。映像から感じるイメージはひたすら過酷な世界でしかない。

 ヒエラルキーの頂点に立つ肉食動物や猛禽類でさえ、つねに飢えていて、子育てに苦労していた。それこそ命を賭けていた。そんな世界にはとてもじゃないが枯れ木のような細腕のわたしが入り込めるものでもない。そう感じていた。まあそこはいまでも事実、変わりはしないのだけれど。

 

 そういったドキュメンタリーのそら恐ろしいイメージをわたしのなかで明らかに変えたのが「プラネットアース」。はじめて見たときには、やってくれたなNHKBBCとの共同制作)とおもった。

 

 このほどゴールデンウィークの最終日にその海編ともいえる「ブループラネット」が放送されていた。(16日には再放送もあるようなので、興味があるかたはみてほしい。)

www.nhk.or.jp

 

 映像技術はいわずもがなの圧巻。深い海の蒼と遠い空の蒼。お互いを別つみごとな同色の対比。ある時はそのあいだに点在し、ある時はおびただしい数を成す生命の横溢。あまりの美しさと迫力に、「これCG!まるっきりCG!」という情緒ゼロの感想を繰り返すゲーム脳のわたし。

 

 なによりこのシリーズの素晴らしいところは、あるがままの美しい自然を、努めてフラットに撮影している(ようにみえる)ところだ。その撮影技術は、生命の循環を決して偏った目線では語らず、まるで生命と自然が一体となった、ひとつの塊のようにみせてくれる。

 なんだわたしは大自然が苦手なわけではなかったのだ。わたしが苦手だったのは、自然は小さく矮小な生き物にとっては脅威でしかなく、死の嵐をなんとかかいくぐって生きていくことが自然生物の宿命、みたいなアプローチで語る、あくまで人間側に立った感傷的な演出だったのだ。

 

 特に興味深かったのは、クジラの死骸に集まる生き物たちの様子だ。

 臭いを嗅ぎつけたサメや大型魚類が肉や脂肪を食いちぎる。脂肪を食べ尽くされた死骸は浮力を失い海底へ落ちていく。だがそこでも様々な生物が待ち構えている。栄養の少ない海底において巨大な死骸は最大の僥倖といえる。そこでもまずは大型の生物が恩恵にあずかり、その食い散らかした肉片を小魚やカニがきれいに片づける。

 そうして数ヶ月もすればすべてがきれいさっぱり食べ尽くされて骨になる。だが骨すらも食べる小さな小さな生物がいる。結果的にはすべてが分解されて、リンや炭素になるらしい。

 

 後で知ったのだけれどそういう営みを“鯨骨生物群集”といい、海底の生態系の一端はクジラの死骸で成されているらしい。リンや炭素(と、たぶんいっていた)という元素レベルの話はまるでわからないけれど、朽ちた巨大な生き物がさらに小さきものの苗床となる自然界の営みには、恐ろしいというよりもむしろ感動をおぼえる。

 

 人間以外の生き物はたぶんこうした持ちつ持たれつのパーフェクトなサイクルで助け合っている。そうしてキレイさっぱり分解されて海になり砂になり大気になり、つまりは自然と一体化する。

  たぶん命の行く先はみんな同じだ。なのに人間だけは少し違うように感じる。人間だけは人間以外とは助け合わない。喰い散らかすばかり毒を垂れ流すばかりだ。明らかに命のサイクルから外れてしまっているようにおもえる。そもそもが、守るとか保護するだとか管理するだとか、自然に対しておこがましいことなのではないのかと自問自答。

 

 ずいぶん前になにかの映像で外国の仏教徒かなにかの女のひとが、「わたしは魚を食べない」といっていたのだけれど、その理由が、命は平等なので牛や豚などの大きな生き物は食べたとしてもみんなで分け合えるし、ひとりで食べたとしても何日もかかる。そう考えると魚は小さいし日持ちもしないので、幾つもの命を短時間で奪ってしまう。食べるのはしかたないとしても、奪うことは最小限にしたい。とのこと。

 

 この考えはとても合理的だとおもった。わたしはビーガンみたいな考え方を批判するつもりはないが、命を食べるという行為をまるっと否定することが、なんだか全ての生き物の営みすらも否定しているようで、なんとなくうっすら違和感を感じていて、その反面、無駄に命を奪うことは極力避けたいなとはおもってもいたので、その女の人の、“できる限りのことはする”という考え方にはとても共感できた。

 

 ところが共感できることと実際に出来ることとのかなりの隔たりを、窮屈に感じてしまうことも否定できない。

 なぜならわたしは魚料理が非常にすきで、なんなら魚卵もすきでシラスなんて大好物だったからだ。

  以来、わたしは魚卵はシラスを大量虐殺をする気持ちで厳かに食し、僅かにへばりついて残ってしまった皿や茶碗の食べ残しを尻目に、祈るような気持ちで皿洗いに殉じる生活を続けている。

 

 そんな巡業の苦悩を和らげてくれたのは他でもないクジラだった。ある日、皿洗いをしている時に突然に閃いたのだった。そうだクジラは小魚やプランクトンを何千何万匹といっぺんにひと呑みで食べてしまうではないか、と。

 わたしは大きな口を開けて垂直に浮上し、小魚の群れを丸呑みして、勢いよく海面にしぶきを上げる様を想像する。あるいはゆっくりと巨大な渦のように海水もまるごと吸い込み、真っ直ぐ進む青黒い塊を。

 魂は平等にひとつとはいえ、あの女のひともクジラには文句はいえまい。クジラが大量虐殺者として罪深いのなら、誰がどうしてあのばかでかい存在を創りたもうたと。

 

 かくしてわたしは向こう数年間、以前ほどの背徳を感じることなくシラスを食せる身になったのだったのだが、そんな心の平安も今回の「ブループラネット」をみたことによって、ふたたび明滅しはじめたのだった。

 あの巨体が朽ちる時に与える役割。あらゆる生物たちへの恩恵や栄養や営み。とてもじゃないがわたしとは比べものにならないほどに、自然へと還元しているぞなもしとな。

 

 映画「もののけ姫」で乙事主がモロに向かって、森が減って一族はみんな小さくばかになっていく、みたいなことをいっていたけれど。クジラをみているとその意味がわかるような気がする。クジラの巨体は自然そのものだ。自然も大きければ後に還元するものもまた大きい。

 やはり人間は自然の摂理から大きくズレているのではないか。われわれの生きているだけの業というものは、どこでどう還元できよう。なんてことをふたたび自問自答。

 

 だが思考はめまぐるしく移ろいくるくる変わる。わたしは脳内の書庫を物色する。一冊の本を手に取る。「生物と無生物のあいだ」という書籍だ。そこには生き物はすべてが調和の取れた存在であることが示されていた。その本のことを考えると、なんとなく救われた気持ちにもなる。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 

 

 科学的なことはまるで理解できないけれど、この福岡先生の文章はなんていうかとても文学的で読みやすく、世界の営みのようなものの輪郭がなんとなく理解できた(ようなきがした)
 

 生き物の代謝する細胞はなにかしらの栄養などに役立たれていて、朽ちたものからは必ず新しい何かが生成される。生き物はすべからく元素単位に分解されて果てしないサイクルを経て雲や海となる。

 空にたゆたう雲も千切れたり文字通り雲散霧消したりしているようにみえるが、実は同じ雲が地球全体を回っていて、去年の今頃には形は違うが“同じ”雲が浮かんでいたりする。

 同じように海や川や石ころも、打ち寄せたりすり減ったり干上がったりして、無くなったりしているようにみえるがそうでもない。

 そうしてさらに大局的にみると、地球全体がそういう循環をしていて、星全体の質量というものはほとんど変わらない。らしい。

 

 つまりは生きとし生けるものは、無生物の一部であり、無生物は生物の礎だという話。だがやはり、だとしても、自然の摂理から外れて独自のルールや理念を美徳としている人間は、死に方すらもずいぶん間違った方法をチョイスしているのではないだろうか。

  火葬が常識のこの国は、なんというか他の生物にあまり優しくはないのではないか。たとえ最終的に元素になる結末は変わらないのだとしても、燃やして灰にしてしまうというのは生物のサイクルとしてはいささか一足飛びなように感じる。

  そういう面では土葬のほうがほかの生き物のためになるし、もっといえば鳥葬や風葬のような土着的な習慣のほうがやはりよっぽどこの星と共生できているようにおもえる。

 

 ともすれば荒野かどこかで行き倒れることこそが死に方としては正しいのかもしれないとさえおもえてくる。だからひとは旅をするという考え方はどうだ。遺伝子が行き倒れを推奨しているとしたらずいぶんロマンのあることのようにもおもえる。

 

 生命の循環とか役割とか、考えだしたらキリがない。たぶん生命の神秘に答えはない。自然はあるがままにそこにあるだけで、命はきっと全うするまで生きるのみだ。

 だが答えがなくとも案ずることなかれ。自然は決して問いかけたりはしないものだ。問いがないのだから、答えなんてあるはずもないのだ。

 もし、わたしが道すがら、荒野で行き倒れることがあるのなら、うつ伏せの姿勢で果てていることを願う。少なくともそれは、前のめりに倒れた証明にはなるのだから。

 今日も考えるに留まろう。