ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

チヨちゃん。

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 ええと、このウェブログでは、一昨年の末くらいかなぁ、とにかくそのくらいの頃から、わたくし、アイキャッチとして何かイラストを載せようということを決めていて、それで主に4匹のキャラクターがいまして、そのなかで唯一の女の子でチヨちゃんという子がいます。みなさんご存知の。・・え?知らない?そうですかそうでしょうね。

 

 ともかくそのチヨちゃんが毎回なんか違うんですよ。自分的には。何が違うのかといえば、まあ端的にいえば顔。いや顔が、というか何から何まで、というか。

 とりあえずマイキャラなので正解というものは無く、なんならわたしがこのブログにおいて神であるので、良しとすればそこが正解なのですが、その神が、チヨちゃんのみならずこの“飛行訓練”のキャラクターたちを、描くたびに、毎回、「なんか違うんだよなぁ」とボヤいていることは、もはや周知のとおりですけれども。・・え、知ったこっちゃない?そうですか、そうでしょうね。

 

 とりあえず、どうやら知らないひともいるようだし、むしろ知っているひとなんてほとんど皆無なようなので、チヨちゃんを改めて紹介します。

 ↓この子がチヨちゃんです。

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 ほらもう違う。

 こんなテイストではなかったですよこの子は。要するに毎回ノープランで下書きも無しで作成するからこういうことになるんですね。

  

 ということで、今まで登場したチヨちゃんをダイジェストで載せていって、可憐に逃げ去りたいとおもいます。ここを訪れてくれたみなさんにはどうでもいいことなのですが(毎回)、わたしにとってチヨちゃんはとっても愛着を持っているキャラクターなのです。

 ・・まあ、ええ、有り体にいえばブログ更新の水増しです。過去のものを摘んでくるなんていう行為はもう末期なのかもしれません。すべてはこの寒さが悪いのです。そういうことにしておいてくださいな。

 

♯1

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  はじめての登場。はじめからノープランでの作成。とりあえず11歳くらいの女の子、という設定だけはあったのだけれど、二回目の登場ではそんな設定すら忘れて描いたので、・・

 

♯2 

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 ・・いきなりちょっと成長してる感じになってしまう。右手の位置もおかしいです。どうせ小さい画像になるからと、テキトーに描いているものだからズームされるとこういうことになるんです。 

 

♯3

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 当初この日記をはじめた頃はただ自分本位に文章を書いていれば楽しかったのだけれど、しばらくこなしていると欲も出てくるもので、すこしだけカスタマイズしたくもなってくる。そこではじめてほかのひとのブログなんかを読んでみて、どういう工夫をしているのかを少々研究なぞしてみる。そこでどうやら多くのひとたちがキャプションとしてなんらかの画像を貼ったりしていることがわかる。

 

♯4

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 わたしはデジタル仕事どっぷりなくせに、インターネットには脆弱なので、画像とかみなさんがどうしているのかはわからないし、フリー画像などで、文章とマッチしたようなものを探し出せる能力も無いので、必然と自分で作るしかないのかな、という運びになる。とりあえずマイキャラを作って、そいつらを遊ばせられれば続けられるかなぁ、というぼんやりとしたプランでチヨちゃんたちは誕生しました。

 

♯5

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 ↑これはちょっとカワイイかなぁ(←自画自賛)。それでも脳内イメージのチヨちゃんとはちょっと違うのだ。わたしのチヨちゃんのイメージはもっとずっと生意気そうな女の子なのです。

 

 ♯6

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バイク乗ってるし、11歳設定は完全に吹っ飛んでいます。

 

 ♯7

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 ともあれ、 なんども描くと愛着もでてくるもので、楽しく文章をタイプできたときなぞには、これからどうやってチヨちゃんたちを遊ばせようかなぁ、なんてワクワクしたりもします。

 

♯8

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 ♯9

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 誕生させてみて、マイキャラクターというのはことのほか便利だということに気づきました。どうしたって自由だし、困ったらチヨちゃん描いとけ、という甘えにも似た気持ちも芽生え、日記を更新させる度に毎回イラストを描くという自分なりの制約がここまで続いたのも、正直チヨちゃんたちのおかげだとは感じています。

 

 ♯10

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 ♯11

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 ♯12

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 ♯13

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 ♯14

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 チヨちゃんがいなかったら、ドット絵 という未知の領域に挑戦することもなかったと思います。

 

♯15

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 このチヨちゃんがわたし的には理想に近いかもしれません。すごい生意気そう。

 

♯16

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 ♯17

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 ♯18

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 でもこのチヨちゃんが一番気に入ってます。やっぱりモンスターとか描くのが楽しいので、モンスター登場させるとテンション上がります。わたくしとしてははキモいとカワイイが8:2くらいの比率が理想なので、本当はキモい絵ばっかり描いていたいのです。

 

♯19

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 こうして何度も登場させていると、やはりチヨちゃんらの物語というものを想像したりします。わたしは絵を描くという行為自体は、あんまりすきではないのです。時間はかかるし、目も腕も疲れるし、イメージの通りに出来上がったこともない。もし頭のイメージがスタンプみたいにポンっと白い画面に貼り付けられるとしたら、絵なんて描かないとおもいます。

 

♯20 

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 それでも、作業中にキャラクターたちの物語を想像したりするのは非常に楽しいです。むしろ時間がとられる作業のなかで、そうして想像することこそが絵を描く楽しみとなっているのではないかと思うわけです。

 

♯21

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 なぜナマケモノたちは変わらずに、チヨちゃんだけが大人になったり子どもになったりするのか?なぜチヨちゃんだけが人間の姿でいるのか?

 プロ脳内妄想家としては、そういう想像をすることで、彼らの物語が脳内でずいずい展開されていくのです。

 

 ♯22

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♯23

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 ここで少しだけ、脳内妄想としての「ナマケモノの飛行訓練」の冒頭を少し語らせてもらうとします。

 

 ♯24

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  ナマケモノたちは「ナナシの島」というところで暮らしています。

 そこはグラングランというライオンが創り出したといわれていますが、島に住む住人は誰一人としてそのライオンを見たいものはいません。

 それでも島は平和そのものです。法律もなければそれを取り締まる仕事もありません。島の住人たちはいつでも夏休み。時間はゆっくりと流れます。みんながみんな楽しく遊んで暮らし、疲れたら眠っています。

 

 ♯25

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 島が平和なのは、グラングランのおかげということもありますが、もうひとつの理由としては、「人間がいないから」という事実がありました。島の住人たちはみんな知っていました。人間がおろかでおそろしいものだということを。

 

 

♯26

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 人間のいない「ナナシの島」は、とても調和のとれた楽園です。住人たちはいつでも仲良く、楽しく暮らしているのでした。

 そんな島のなかでことのほか仲良しの4匹がいます。それがナマケモノ、チコ・マンキー、フロリック伯爵、それからチヨちゃんでした。

  彼らはいつでも一緒にいて、いろいろな遊びをして暮らしています。

 

♯27

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 ・・と、

 こんな感じの設定で、ナマケモノとチヨちゃんたちの物語を妄想したり、しなかったりしています。

 わたしの脳内では 彼ら4匹は様々な冒険をしたり、たまにけんかもしたり、それでも結局は仲良く暮らしています。あくまで脳内妄想の域を脱することはないのですが、わたしの日常生活において、ひとつの彩りを加えてくれていることに違いはありません。

 

♯28

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  それからチヨちゃんは千里眼を持っていて、その特殊な能力によって、たまにトラブルに見舞われたナマケモノたちを助けてくれます。

 チヨちゃんの千里眼を使ったチヨちゃんは二対の目玉から4つの瞳が現れます。瞳はそれぞれ「いま」「むかし」「こころ」「とおく」、を見つめる能力を持っていて、あらゆるものを見通します。 

 

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 ↑チヨちゃんの千里眼


 ナマケモノたち4匹は、このチヨちゃんの千里眼によって、捜しものを見付けたり、島の住人の手助けをしたりします。

 ですが、チヨちゃんは千里眼を使った後はしばらく目がみえなくなってしまいます。そう何度も使える能力ではないのです。

 

 ♯29

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 ♯30

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♯31 

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 ・・そんな感じで、わたしの脳内ではナマケモノとチヨちゃんたちの冒険は繰り広げられているわけです。

 そしてそれはこの日記が続く限り、きっと消滅することはないでしょう。

 

 ♯32

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 あ、そうそう、さっきから“4匹”といっていますが、チヨちゃんは人間ではないのか? なんて、お思いのかたもいらっしゃることかとおもいます。・・おもいませんか、そうですか、そうでしょうね。

 

 ♯33

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  そんなかたのために、最後にひとつだけ秘密を教えましょう。

 実を言えばチヨちゃん、本当はネコなのです。大昔に「良くない魔法」によって、チヨちゃんは人間の姿に変えられたのでした。

 もちろんそんなことは島のみんなは気にしません。なぜならチヨちゃんが本当はネコだということを、島のみんなは知っているからです。

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 ↑本当の姿のチヨちゃんとナマケモノJr.。

 こんな感じかなぁ。 

 

 わたしの脳内妄想が進めば、もしかしたらある日突然にチヨちゃんがネコの姿に戻っているかもしれません。

  

 ということで、わたしのくだらない脳内妄想につきあってくれてありがとうございました。

 

 それではまたー。

 

-追記-

文章で“チヨちゃん”が“チコちゃん”になっていた箇所がありました。自分妄想なのに自分で名前を間違えるというのはダメですね。ごめんなさい。

一般的には人気もしくは普通のことなのに苦手なこと。あるいはゲームは忙しいという話。

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  単純な生活の細かい好きずきや差異などを告白するのは、けっこう伝わらない、というか変な語弊を招くような気がする。あんまり主張しない方が、事は穏便に運ぶことが多いような気もする。

 たとえば嫌いなもの。カレーが嫌いだとか、猫が嫌いだとか、きのこの山は認めないだとか。・・いやいや、もちろんどれも嫌いじゃないです、むしろ大好物ですよわたくしは。

 あくまでも例えば、なのだけれど、みんながみんな一般的には「大好き!」とされているものを、否定、なんて気持ちはさらさらなくとも、あまり好みではないと表明するだけで、なんとなくその場の雰囲気が沈んだり、さもなければそうなってしまうだろう現場を恐れて口にできない、というような経験はないだろうか。

 

 そういう類いの話なので、けなしているだとかアンチだとかディスっているだとか、どうかそういうふうには取らないでほしいのだけれど、「わたしは海外旅行に行きたくない。」という、ちょっとした告白をこの場でさせてもらうことを、大目にみていただきたい。というか、行ったこともないのだけれども。

 

 くどいようだけれど、行きたいとおもわないからといって、旅行好きなひとに対して否定したい気持ちも、反対に、行ったことがないからといってわたしが自分自身を卑下する気持ちなんてものも、これっぽっちもない。むしろひとの旅の話を聞くのはとっても興味深いし、楽しいとおもっているし、率先して聞いていたいとさえおもっている。おもってはいる。されど行きたくはない。わたしは、ただ、行きたくないのだ。

 

 なぜこんな話をしたかというと、このほど聞いた話によれば、

 「日本人のパスポートの保有率が約30パーセントしかない。」

 ということを知ったからだ。

 都道府県によって多少の差はあれど、ざっくり考えると3、4人に1人くらいしかパスポートを保有していないということになる。

 これにはけっこう驚愕した。わたしの経験からくる人脈では、海外旅行に行ったことがない人間なんて皆無であるから、完全にわたしのほうがマイノリティだと思い込んでいたのだ。

 

 それでも確かに、「行ったことはない」と報告すると、びっくりされた経験が数え切れないほどにわたしにはある。確かにあるので、10割とはいかずとも、7、8割くらいは、パスポートくらいはゆうに所得しているものだと思い込んでいたのだ。

 そして、そういった無数の友人たちは決まってこう言ったものだ。「パスポートだけは取っておいたほうがいいよ、」こう言われるとわたしは素直に頷いたものだ。さらに友人たちは言う、「なにかあった時に困るよ。」わたしはひたすらに同意するのだった。「そうに違いないだろうね。」

 

 だが実は、現在日本人の約30パーセントしか取得していないのだった。約70パーセントの人間は、友人たちの想定する、“なにかあった時“、すなわち有事の際に、パスポートが無くて困窮したことはないということになるようだ。これは良いことなのだろうかどうなのだろう。 

 さりとて人気でないというわけではないのだろう。これほどに世界中の人々が往来している世の中だ。数値的には思いのほか低くとも、やはりみんな行けるものなら行きたいと考えているに違いない。 でなければ、これほどに世界も発展してはいまい。

 

 ということで海外旅行。とにかくわたしは行きたくない。自分なりには行きたくない理由も信念みたいなものもそれなりにあるのだけれど、そこはあまり表では言わないようにしている。なぜなら、それを言ったところで、楽しみにしていたり、それを目標にしているひとにとっては、どう言っても水を差す意見でしかないからだ。誰だって近しい人々を失望させたくはないしね。

 

 それでも、これまでの人生のなかで何度も誘われたりして、みんなでワクワクしているところで自分だけが断ってしまうことが何度かある。

 このケースだけでもなく、誘いを断ってばかりで心苦しくなったりしてしまう場面を重ねていくうちに、そういったシチュエーションに遭遇した場合のイメージトレーニングや訓練を脳内で展開させることは、誰にでもあるとおもう。

 わたしもそういう経験を何度か積み重ね、場をしらけさせないための言い回しなんてものも頭の中でいくつかストックしているので、いまはあまり困ったりしないのだけれど、若い頃はけっこう悩んだりもした。

 

 それでもたまに飲み会の席なんかで、「行こう行こう」みたいに盛り上がったりする。極力オーラを消しているにもかかわらず、やはり自分に振られてきたりする。それでわたしは、誘ってくれるのはありがたいけど参加はしませんよ、という意思みたいなものをやんわり伝えたりして、少しでも場のテンションを下げてしまったような時は、いつまでも反省したり自戒したりして、再び脳内シミュレーションを繰り広げたりする。いまでもする。

 

 最近でもそういうことがあって、けっこう強く勧められたので、酔いも後押しして、「じゃあ・・一回だけなら行ってみようかな、」みたいな含みのある言葉を発してしまい、図らずも盛り上がってしまったので、「やっぱり行きたくないなぁ、」とぼやいていると、

 「デザインの仕事しているのだから海外に行ったほうがいいよ、」みたいな説得なぞされ、「クリエイティブな発想生まれるかもよ、」なんて言われたので、

 「それ言うのだったら、本読まなかったり音楽聴かなかったり映画とか美術館行かないひととかゲームとかやらないひとってどうなの?おれからしてみたら、そういうひとのほうがよっぽどクリエイティブではないとおもってるよ」

 なんて反論してしまった。やはり後ですごい後悔した。

 

 ところがその旅行計画には、結局わたしも参加することになっていて、皆が都合の良い日程を調整しだしていたので、わたしはものすごく悩んだ。結構ひさしぶりにものすごく悩んで、なんなら数日のあいだ、お腹も痛くなった。

  最終的にはかのじょづてに断ってもらい、あっさり断れたようなのだが、わたしを海外旅行に連れて行く、という趣旨で盛り上がった企画だったのでその旅行自体がご破綻になってしまった。わたし抜きで楽しんできてよ!と、強く主張したかったが後の祭りだった。数日間かなり落ち込んで、事あるごとに二度とこういうことが起こらないよう脳内シュミレーションをした。

 

 オンラインゲームの友だちに同じく海外旅行が好きではないヤツがいて、一度だけ外国に行ったことがあるというので、様子を訊くと、「いや、最悪でしたよ」とさらりといい、「行かない方がいいですよ」とキッパリいわれたのですこし慰められた。そうだよねそういう人種もいるよね。

 とはいえ、おそらく仕事でなら行くのだろうな、ともおもった。仕事はどうせプライベートよりも楽しくないし、楽しいことを期待せずにいられるし、何処へ行っても仕事は仕事だし。と、改めておもった。

 

 ところで、こういうことがあると少し考えるのは、世の中にはどうして歓迎される行動とあまり歓迎されない行動があるのだろうということだ。趣味でも実益を伴う行動だったとしても、いづれにしてもだ。

 

 例えば子どもの頃にドッジボールが上手だというだけでモテモテだった単純な時代に育ったわたしとしては、スポーツなんて結構素晴らしいとされる一方、ゲームなんてものはあまり歓迎されることでもないような気がする。いまでは違うのかな。 

 

 思い返せばわたしだって、思春期にはゲームがすきだとは公言しなかったし、なんなら絵を描いているなんてことは絶対に他言しなかった。代わりにスケボーをしたりクラブで遊んだりして、いかにもそういうカルチャーの人間ですよこういう自分が自然体ですよ、ということをモテたいがため姑息にも必要以上にアピールしていたし、そしてその多少偽物の自分を演じたわたしの態度は、少なくともゲームがすきで絵を描くことが趣味だという青年時代を選択したパラレルワールドにいる自分よりも、はるかにモテていたことだけは、ものすごい確信があったりもする。

 

 くだんのゲーム友だちは拘束時間が長い代わりにけっこう収入が良い仕事をしていて、その反動からかどうかは知らぬが連休なんてできると同僚も先輩方もこぞって旅行なんかに出向いたりするらしく、休日明けには決まって「どこ行ってきたの?」なんて訊かれたりして、その友だちは毎回言葉に窮するらしい。

 

 「ゲームとは答えにくいよね」「ですね」なんとなくね。なんとなく。趣味が合わないだとか嫌われるとか充実していないとか、そういうイメージを持たれることを恐れるというわけでもないけれど、なんとなく丸一日ゲームやってたとは言い難いよね。

 「だって絶対理解されないものね」充実した休日を過ごせてないとおもわれてもね。そんなこと言われると反発したくなっちゃうもんね。ところがどうして日がな一日ゲームに興じていられることが、如何に充実してた休日かってことなんて、「伝わらないもんねー」ですよねー。

 そんなことを言い合ったりしている。

 

 これが旅行だとかフットサルだとかボルダリングだとか、あるいは読書だとか映画鑑賞だとかなんならショッピングだとか、そういった行動は端から聞いていても、なんとなく充実しているように感じるのは何故だろうか。アニメだって現在は散々歓迎されているような世の中だとしても、他人の羨望を集めるような趣味ではないだろう。

 

 そうなのだ、羨望なのだ。結局、趣味でも仕事でも他人の行動というものは、羨望を集められるか否かなのだろう。

 そう考えれば海外旅行というのは、確かにひとのうらやましがられる行動ではありそうだ。たとえゲームのユーザーが世界中に五千万人いようと、どんなにモテモテのイケメンがアニメを推奨しようが、休日にヴェネチアやドバイやラスベガスへと身軽に飛んでいけるひとのほうが、間違いなくうらやましがられるに違いはあるまい。

 個人的には趣味でも仕事でも、己が“楽しい!”と思ってしまった時点で、そんなものは広く考えればただの煩悩に違いないのだから、読書は高尚、旅は経験、ゲームは無駄。なんていう印象なんて幻想に過ぎないとおもってはいるのだが、それでも行動に優劣をつけてしまう人間の性みたいなものも、それはそれで仕方ないのではないかなんてこともおもったりはする。

 

 ともかく友人の話は止まらない。「たとえば面倒なんで嘘ついて、『何にもしてない、』って答えれば答えるで、なんかモヤつきませんか?『よく、休みの日に何してるの?』みたいな話になるけど、こっちのほうが不思議だよって、感じるんですよね。」

 ふむふむ、というと?

 「いや、逆にね、」友人は話を続ける。

 「逆にゲームしてないひとって、休みの日何してるの?って訊きたくなるんです。」

 「まあ、確かにね、ゲーム、忙しいもんね。平気で5時間とか過ぎ去っていくものね。」

 「ですよね、そりゃ、映画とかも観ますよ、本だって読みますよと、いろんなことしてますよ。運動とかもしますし筋トレとかもしてますよ。けど、5時間ぶっ続けってわけにはいかないじゃないですか。」

 友人は言う。「いくらそれに熱中できたとしても、楽しい趣味だったとしても、朝から晩まで同じ行動をしているわけにはいかないじゃないですか。」

 なるほど、ゲームだったらそれができるというわけか。しかもログイン特典やらで毎日起動だけはしておきたい。一日たりとも空けられない。戦いが終われば次の戦いが待っている。スケジュールはパンパンだ。そうそう、忙しいよね、ものすごく。

 「そうです!」友人の物言いが熱を帯びる。

 「忙しいんですよ、ゲームは。こんなに忙しい毎日を過ごしているのに、休みの日にゲームやってる、っていったら、すごい暇人みたいに思われる風潮ありませんかね?」

 「うーん、どうだろうね、イメージ的にはそうかもしれないね。」わたしは相づちを打つ。「だから逆に、ぼくは思うんですよね、いつも。」

 

  ゲームやらない人って、普段よっぽど暇を持て余してるのではないか。

  と、こう言うわけだ。

 確かに、わたしだって映画や読書に興じたり、絵を描いたり音楽を聴いたりするが、トータルで考えても、ゲームをやっている時間のほうが圧倒的に多い。もし仮にゲームを止めたとしたらどうだろう。というか止められたとしても他にやりたいことは山ほどある気もするが、それらの細々とした欲求を矢継ぎ早に満たしていったとしても、ゲームに興じた今までの膨大な時間に追いつくには、ざらっと考えても数十年はかかりそうだ。

 

 「じゃあ、だとしたらゲームをやらないひとって、暇な日には何しているのだろうね?」

 今度はわたしが友人に問いかける。すると友人はすこし考えてからこう答える。

 「・・・やっぱり、旅行とかじゃないですかね。」

 なるほどね。

 「じゃあさ、おれたちも試しにしばらくゲーム止めてみるか。」

 「止めてどうするんですか?」

 「んー。どうすっかな。いや例えばゲーム止めて、旅行・・・とか?」

 二人の間に沈黙が訪れる。

 

 「旅行。」

 「いかないなぁー。」

 「ゲームやめても、旅行は行かないんだろうな。」

 「というかゲーム止めたら仕事とかすごいしそうですね。」

 「おれなんてゲームのエネルギーを仕事に向けたら金持ちだよ。」

 「そりゃぼくのセリフですね。」

 「ゲームもしないで旅行も行かないひとは、何してるんだろうね。」

 「両方興味ない人はものすごい大金持ちなんだろうね。」

 「ですね。」

 「でも金持ちこそ旅行いくよね。」

 「ですね。なんでですかね。」

 「じゃあゲームして旅行いってもお金持ちになれるってことかもね。」

 「ですね、なんか希望が湧いてきました。」

 「でも結局は煩悩だよ。欲望だよ。」

 「ですねー。」

 なんて話しながら、わたしは聞き上手の年下の友人の乾いた頷きなどには気にも留めずに、ぼんやりと話し続け、ひと息つけば次の戦いへ赴くためにコントローラーを握りしめ、今日もマッチング検索をかけるのだった。

 

いらなくなっていくものへ

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 いよいよ、というかついにというか、ともかくほとんどのコンビニエンスストア成人雑誌の取り扱いを止めるとのこと。当面の名目でいうのなら2020年トーキョーオリンピックに向けてグローバルスタンダードに合わせたという。

 名目はともかくとして、あんまり売れなくなったから取り扱う必要もない、というのが企業側の本音ではないかとわたしは踏んでいる。今時その気になればネットでいくらでも無料で閲覧できるものを、わざわざ購入してまで成人雑誌、要するにエロ本なんてものを読みたがるひとの需要がどれくらいあるのだろうか、とも感じている。

 

 これについて世間様もそれぞれ意見があるようで、相変わらず極端なものも電子連絡網では飛び交っていた。 

 性表現への規制を危ぶむ声もあれば、大賛成の声も聞こえてくる。コンビニでいかがわしい雑誌を売り続けていることで女性の権利が蹂躙され続けていた、なんていう意見もどこかで聞いた。そんなにも傷ついていたひとがいるのなら、けしからんことなのだろう。無くなるという事実は必然でもあろう。

 

 個人的な意見をいわせてもらえば、いつだか前にも書いたけれど、わたしは児童ポルノや差別的な表現などは、社会全体が大いに取り締まるべきだとはおもう。

flightsloth.hatenablog.com

 

 それでも毎度この手のニュースが飛び込んでくるとそこはかとなくモヤつくのは、結局こういう議題は、差別だとか表現の自由だとかフェミニズムみたいな、ずいぶん重くてセンシティブな問題に終始されていくことになるのだなぁ、なんてを向こう岸からなんとなく眺めているような気持ちになることだ。

 

 いやいやエロはエロでしょ。単純に考えようよ。そりゃ怒られたら控えようよ。そもそもエロ本というものは後ろめたい気持ちでごく個人的にいそしむもので、なんならそれが文化でしょ。大手を振って権利を振りかざすのはどうなのだろうでしょう。そもそも権利ってなに?ムラムラする権利?まあそれも自由だけれど、怒られたらシュンとして引き下がるのが自然な反応ではないの。表現の自由が脅かされる、みたいな隠れ蓑は止めにしましょうよ。なんておもったりする。

 

 いっぽうで、されどエロはエロだぜ。という気持ちもある。

 不快に思っている側だとしても、同じく権利なんて言葉を持ち出したらキリがないのではないか。たしかにその気持ちはわかる。ネットをみていてもすぐに卑猥なイラストのバナーが目に飛び込んでくる。気分によってはうんざりすることもある。

 けれど、そこに権利だとかを持ち出すのはどうなのだろう。“不快に感じないため”という項目に権利を行使しだしたらキリがない気もする。いち、一般男性としては世界中から性的なコンテンツを排除できたとしても、人類からエロい気持ちが消えることはないよ。とは言いたい。それとこれとは別の話だよと。

 

 それを容認したら、あれもこれも容認しなくては道理が通らなくなってしまう。そうならないためにはすべてを容認してはならない。何かを主張したければ極論を突き通さなければならない。それもわかる。それもわかるがわたしは強く辛辣な言葉でしか“声”にならないネットワークというものを信用できないし、未発達だとも感じている。

 

 ともあれ、この話題、結局は企業側の儲けが少ないからという理由が強いのではなかろうか。コンビニの一画に「18才未満お断り」の暖簾なりを設置してアダルトブースを設けるよりも、いっそのこと撤去したほうが利益としても世間体としてもトレンドとしてもモラルとしても有益だという判断なのだろう。少なくともイカガワシイものを排除したい、という理念を100パーセント鑑みての判断ではないだろう。お金儲けはそこまで潔癖である必要もあるまい。

 

 つまりは「エロ本」というコンテンツが文化として淘汰されていくというだけの話。それだけ。それだけにかなり寄り道をする相変わらずのわたしですが話を続けます。

 どんなにエロ反対派が弾劾しようと、たとえそれが教育上(なのか?)よろしいことであろうと、ひとからスケベ心が消え去るということはなかろう。コンテンツは変われど、ひとのスケベ心は生き続ける、いや、燃え続ける、か?いやいや萌え続けるか。フツフツと、いや、悶々とかね。

 ともかくそういうこと。だっていくら想像したくないと拒絶したって、たいがいの人類はお父ちゃんとお母ちゃんのスケベ心があったからこそ、今まで進んでいるんだぜ。それは男も女も一緒だぜ。敵同士じゃないんだぜ、寄り添ってかなくっちゃね。なんてことをおもう。

 

 ということで連綿と続く人のリビドーから置き去りにされ、文化としては衰退の一途を辿っているエロ本。まだまだネットなんてそう普及していない時代に青春謳歌したおじさんからしてみたら、寂しいといえばさみしい気もする。・・が、どうでもいいといえばどうでもいい。正直エッチな動画はみたとしても雑誌をみたいとは一ミリも思わない。

 ただ、懐古的な感慨みたいなものはある。今の若い子は、・・あぁ、“イマノワカイコハ”・・みたいな話にどうしてもなってしまうのだけれど、おそらく空き地や裏山なんかでエロ本を大量に見つけるという想い出は、幼少期の記憶の手帖のどこにも記入する欄すらないのだろう。

 あのえもしれぬ、降って湧いたかのような期待と背徳感。遊びを中断して仲間を集める高揚感。野ざらしでガシガシに固まったページをパリパリと剥がしていく慎重な作業。はじめて見る金髪の白人女性の裸体。それから決まって誰かしらのいう「うへぇキモチワルイ」というセリフ。そんな昭和の男の子ならば大半がもっている記憶の共有を、いまの若者は持っていないということなのだろう。まあ、持ってなくてもいいのだけれど。

 

 なくなってしまう物、事。自然に、あるいは必然的に淘汰されていく文化。そういった出来事に直面すると、普段は考えもしなかったことにしても案外さみしいものだ。これからもわれわれは何かを無くして、何かを更新して進み続けるのだろう。

・・・と、あぶないあぶない、ついもっともらしい言葉をならべて強引に〆に入るところだった。もう少しだけ話を続けさせてくださいな。いやまあ、まるっと話は変わるのだけれども、関連していないこともない話題として。

 

 ところで我が家ではHuluに加入していて、けっこう頻繁に利用しているのだけれど、そのせいか、近頃めっきりDVDやブルーレイを借りなくなった。

 もちろんHuluは店舗型のレンタル店よりも品揃いも少ないし、新作もそれほどカバーされているわけでもない。それでも旧作や懐かしい名作などをついつい観て満足してしまう。それはそれでいいのだろうけれど、新しい物を取り入れようとする欲求が利便性という魔物にやられてしまっている感覚がなんとなくある。

 さらにはこのほど、見逃していたアニメの“どろろ”がとっても観たくて、アマゾンプライムにも加入してしまった。最近はあまり時間も取れないというのもあるが、時間が少しでも空けばその両コンテンツを行ったり来たりして、動画のラインナップをチェックするのが当面の心のオアシスともなっている。

 

 気がついてみると動画を扱うコンテンツというものは、もはや把握しきれないほどにものすごい数があり、それぞれ差別化をはかったりオリジナル番組を扱ったりして、しのぎを削っている模様。それでも一般的な家庭で契約されるのは、二、三、多くて四つくらいのコンテンツなのではないか。そして、そういうひとたちはわたしと同じくして、店舗型のレンタル店に足を運ぶことはかなり少なくなっているに違いない。そう考えるとレンタルビデオ店、なんていうものが街から姿を消すという事態は、そう遠い未来でもないように感じる。

 

 ネットの動画コンテンツというものは、どれも綺麗に整理されていて、とても見やすい。ジャンル別に探すことも簡単だし、検索も容易にできる。ひとつの作品を楽しむと関連作品として次々に別の作品を紹介してくれる。

 ご存知のように店舗型のレンタル店ではそうはいかない。コーナーごとに棚に並べてられている作品群のなかで、自分好みの作品をいつでも自力で探さなくてはならない。棚を何度も往復したり、パッケージの表裏をなんども確認したり制作陣にチェックを入れたりする。めぼしい作品が見つからない場合なぞには、けっこうへとへとになるまで長い時間店舗に留まり、ウロウロと吟味を続けてしまうような経験は誰にでもあるのではないか。

 

 そうしてレンタルした映画なぞを部屋で観る。わたしの経験からいわせてもらえば、秀作に出逢える確率は5本に1本あれば上出来。残りの4本は自分の好みに合わないか、でなければ満場一致の駄作だ。それでも大概は最後まで観る。我慢して。それは実際に小銭を払って借りたという貧乏根性がそうさせているのかどうかは知らないが、とにかく我慢してみる。

 

 ところが動画コンテンツではこういうこともない。つまらない作品はボタンひとつで止めることができるし、次の作品を映し出すことも簡単。提供されているものは無制限に観賞できる。何も我慢することもない。コスパも優れている。寒空の中、出掛ける手間もない。

 

  こんなふうに考えると、レンタル店なんてものはすでに社会には必要とされないことこそが必然なのではないかとさえ思えてくる。それがみんなの総意なのかもしれない。それこそコンビニのエロ本なんかのように。

 必要ない。そうかもしれない。手間がかかる。 徒労に終わる。時間を無駄にする。そうなのだろう。そんなことは排除していけばいい。娯楽なんだから苦労してまで探し出したりするものではない。これからはより手軽に素早く、楽しめるだけ楽しめば良い。どんどんそういう時代になっていくのだろう。それはいいことなのかもしれない。

 

 だかこうもおもう。苦労して時間を消費して我慢して観たもの、聞いたもの。たとえそれが退屈な体験だったとしても、果たしてそれは本当に無駄なことなのだろうか。考え方をかえれば、退屈という豊かさもある。月額使用料という便利さに奪われているものはお金だけでもないのかもしれないぞ。胸ときめく冒険は決して用意されるものではない。5本に一本見つけた名作は、まるで裏山でみつけたエロ本だ。

 

 有史以来、人が捨てていったもの、無くしたもの、あるいは更新されていったものははどれくらいあるのだろうか? わたしはわたしの歴史できしか語れやしない。完全に、でもないが次第に減りつつものは沢山ある。街はいつでも様変わりしてアップデートされていく。本当にくだらないものから、なぜ消えていったのか理解しがたいものもある。それらをふるいにかけてより分けることはとても難しい。更新し続ける街はそんなことお構いなしに消していく。効率化の名の下に。

 

 もちろんそれを判断していくのはわたしたちだ。街の住人、一般消費者。意思なき意思。わたしたちは、わたしたちの都合や事情で次第に遠のいていき、忘れ去る。

 おそらく何かしらの文化が消える時は、パチリとスイッチを切るようなことではなく、シュプレヒコールの中ゆっくりと緞帳が降りてくるようなことでもなく、真昼に薄くなっていく影のようなものなのだろう。

 駄菓子屋、八百屋、魚屋、レンタルビデオ店、いやいや商店街そのものがどんどん無くなっていく。それらの全てがモニターのなかに収まっていく。

 

 なぜか?そう、必要ないから。答えは簡単だ。だがわたしは時々振り返る。振り替えて少しだけ思い出す。

 それはなんの意味もないのかもしれない。ただの懐古主義なのかもしれない。あるいは、負け戦に肩入れしたがるわたしの悪いくせのせいなのかもしれない。ダメなものはダメだし、いけないことはいけない。みんながそういうのなら、きっとその通りなのだ。

 

 それでもわたしは振り替える。負けたもの、必要とされないもの、消えていったもの。つまらないもの。少しだけ弁護したくもなる。どう転んでも勝ち目はないし、流れに抗うこともできないのだけれど、それでもなんとなく抵抗したくなる時がある。

 そういうときにこそ思い出したいとおもう。いらなくなったものへ、せめてもの敬意を払いたくもなる。ネットの風紀委員なんて構うものか。

 そうして、これからもそんな気分になった時には、なんならわたしはエロ本でも読みたくなったりするのかもしれない。

 それこそ真夜中のコンビニエンスストアの片隅なんかでね。