ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

面白い国の住人の、いなくなったらいなくなるタイプ

  f:id:flightsloth:20171121183959j:plain

 占いが好きなひとがいる。たとえば血液型にこだわるひとがいる。これは比較的女性が多い気がする。わたしはどちらでもない。そうだといわれればそうかもと答える。気分によっては、ひとを簡単に分類するなとも思う。だがたぶん、根っこの部分では信じていない。

 とはいえ、ひとをご都合主義的に分類してしまうのが人の常。誰かを少しでも理解したいと思うからこそ、何かに当てはめて安心したいものだ。

 

図鑑に載ってない虫 完全攻略版(2枚組) [DVD]

図鑑に載ってない虫 完全攻略版(2枚組) [DVD]

 

 

  『図鑑に載ってない虫』これは目茶苦茶な物語なので内容はあまり覚えていないが、主人公と破天荒な友人と、道すがら出会ったひとりの女の子と旅をするロードムービー的コメディだ。

 物語のなかで友人が仮死状態(?)になったときに、女の子が取り乱して、「あいつはいなくなると、いなくなるタイプだ」というようなことを言う。それから彼女は、主人公のことは「いなくなっても、いなくならないタイプ」と言う。

  

 

 もうひとつ、『クワイエットルームにようこそ』というコメディ映画では、主人公の女性は心を病んで精神病院に入院する。あれこれ複雑に絡み合う散々な出来事があり、心を病んでいくその一端に、二番目の旦那が父親の仏壇を銀色に塗るくだりがある。何で彼がそんなことをしたのかといえば、ただマリファナを吸って、おもしろ半分に塗っただけなのだった。

 旦那はテレビのバラエティ業界の仕事をしてる。テレビの企画で目隠しをされてそのまま見知らぬ外国へ飛ばされてしまっても、面白おかしく生きていられる。後先考えずに、楽しいことを素直に楽しむ、根っからの根明だ。

 結局主人公は旦那と別れることになる。「あなたは面白い国の住人でわたしは面白くない国の住人」主人公はそういう。

 彼女は自分が面白い国の住人だったのなら、自分も同じようにマリファナでも吸って、ただ楽しいことを旦那と一緒に追い続けていられたのだろうと、ぼんやり思う。

 

 わたしはこのふたつの映画のセリフが妙に残っていて、何年たっても頭から離れずにいる。そして、このふたつのセリフの合わせ技、つまり計四つの系統が、わたしにとって、誰か他人を見るご都合主義的指標ともなっている。星占い程度にだが。

 

 まずわたしは「面白い国の住人」ではない。だからわたしはノリで仏壇を銀色に塗られ、その理由を問えば「面白いとおもったから」とだけ言うひととは、たぶん一緒には暮らせないかもしれない。

 本当はそれをみて一緒に馬鹿笑いして、意味も無くただ面白いかもしれない可能性を求めて、いつでも笑って暮らしていけたら、それはそれで素敵なことだろうとは思う。

 だが「面白い国の住人」も難儀なものだ。サーファーズ・ハイという言葉もある。一度大きな波に乗ったら、次にはさらに大きな波を求めてしまう。楽しいということも突き詰めればそうだ。次々と大きな波を求めるということは、エネルギーがいる。キリは無いし体力も使う。若いうちはそれもいいが、歳を重ねればそれさえもくたびれてくるものだ。

 

 それからわたしは、「いなくなっても、いなくならないタイプ」だ。これは感覚的なことなのだろうけれど、自分自身がなんとなくそう感じるのだからあながち間違ってはいないと思う。

 自分を「いなくなってもいなくならないタイプ」だと自覚しているから、わたしは誰とも頻繁には連絡を取らない。本当に取らない。FacebookTwitterもやらない。LINEだってやらない。兄貴でさえだいたい二年に一度のペースで電話で話す程度だ。それも用件を簡潔に伝える程度に。
 友人を自分から遊びに誘ったこともあまりない。だから友だちも少ない。少ないとおもっていても、別に寂しくはない。なぜならわたしは「いなくても、いなくならない」と自負しているから、それでいいと思っている。いなくならないなら、それでいい。

 

 少ない友人たちに、わたしは密かにそれを当てはめている。「面白い国の、いなくならないタイプ」の友人もいるし、「面白くない国の、いなくなるタイプ」もいる。

 それから、ひとりだけ、「面白い国の、いなくなるタイプ」の友人がいる。このタイプは特殊だ。

 彼はユーモアがあり頭もキレる。楽しむことに貪欲で、常に楽しい話題をふってくれる。けれどどこか刹那的で、如何せん感情がみえないところがある。最強でもあり最弱でもあるような、そんな混在した雰囲気が彼を包み込んでいる。
 こういうタイプには流石にわたしも連絡を取ってしまう。そうしないと、いつかいなくなってしまう気がするからだ。人垂らしかといえばそうでもない。むしろ人見知りが激しいタイプ。人付き合いが巧いということと、面白いひとということは、必ずしも比例しない。長いこと付き合うと、どうも放っておけない気持ちにさせる。

 

 わたしは「面白くない国の、いなくならないタイプ」だ。このタイプの人間は、地味で細やかだが、それなりの旨みはある。ひとに何か特別なことを求められないし、自分が求めることもない。こうして、気ままに文章を書いていれさえすれば、心は穏やかになる。どこにもいかず、どこにもいけないから、どこにでもいることができる。

 

 

悲しい顔のニコラス

f:id:flightsloth:20171119043226j:plain

 もうおじさんなので、テレビをみていて見知らぬ若いひとがいると、すぐに「これ誰かの子どもだっけ?」とつい聞いてしまう。

  わたしはあまり芸能界に詳しくないので、すぐに「これ誰?なんていう名前?なにか映画に出たひと?」と訊いてしまう癖がある。訊いたところでだいたい知らないひとだったり、どうせ覚えられなかったりして、煩わしい思いさせてしまう。

 芸能界はどうやら世襲制のようなところがあるようなので、子どもよりも親の顔で覚えていることが多々ある。もはや若い子の顔はまったく覚えられなくなっているので、必然、前述のような質問を頻繁にしてしまう。

 

 若い人の顔がわからなくなるのは、歳が離れると、どんどん自分に関わりのない年代になっていくので、同じ顔にみえるらしい。

 そうかもしれないな、とおもう反面、わたしの顔認証システムは、はじめから女のひとを覚えられず、なんなら白人よりもなぜだか黒人の顔のほうが覚えやすいという不可解な特性があるので、この法則はわたしに限っては当て嵌まらないのかもしれない。でないと、わたしが一番親しみを抱いている顔つきは、黒人のおっさんということになってしまう。薄くて平らな顔をしたこのわたしがだ。

 

 それはそうと、つい先日も、テレビにでている若い女の子が好感をもてたので、「これだれかの娘さん?」と彼女に聞くと、「ああ、この子、あれ、なんだっけ、イケメンの俳優の」とどうやら思い出せない様子。

 イケメン・・・誰だ?吉田栄作?ちがうちがう、えーと、橋爪功、じゃなくて。え?橋爪功?いやだからイケメンのおじさんの。イケメンの橋爪功橋爪功をイケメンにした感じの人。違う違う、橋爪功よりもぜんぜんイケメン。いや、橋爪功もイケメンっちゃあイケメンだけど。と、橋爪功さんがバンバン飛び交い、なんなら生涯でいちばん橋爪功さんの名前を口にした日になった。

  結局、その女の子は草刈正雄さんの娘さんだったのだけれど、ああそれなら確かに橋爪功よりもぜんぜんイケメンだ、というわたしの感想もひどいが、正解を知ると、「イケメンのおじさん」というだけのヒントでも、なるほど合点がいくところもある。草刈正雄なら確かに。

 

 有名人の顔と名前が一致しない時には、それぞれ特徴をいうわけで、そうなるとかなり失礼な印象になることが多い。「イケメンのおじさん」などという特徴はものすごく良質なほうで、大概は、「名脇役のおじいさん」だとか「アホそうで実はお医者さん」だとかいうことになる。

 わたしは小栗旬さんの名前がいつも出てこなくて、なぜだか「アゴイケメン」という特徴を連想させてしまう。さらにそうなるとややこしいことに、要潤さんが頭に浮かんできて、たしかに要潤アゴイケメンであるから、いよいよ小栗旬の名前を思い出せなくなる。

 ずいぶん前に、友人とハリウッド映画の話をしていて、どうしてもニコラス・ケイジの名前が出ない時があった。なんだっけなんだっけと言い合ううちに、「ほら、あの、悲しい顔のハゲね」とだれかが言い出した。「そうそう悲しい顔のハゲ」もう思い出したようなものだ、とみんなでいうが、一向に名前がでてこない。ずいぶん考えこんでも思い出せないので、結局誰かが「もう悲しい顔のハゲって名前でよくね?伝わるし」といったのでそこで落ち着いたことがあった。以来、未だにわたしはニコラス・ケイジの名前は急には出てこず、「悲しい顔のハゲ」といってしまう。

 

 思い出すという行為は案外楽しい。だから極力インターネットの力には頼らないようにしている。特に有名人を思い出すことがわたしは好きだ。知らないくせに、結構楽しい。

 だから前に、彼女がなにかの番組の企画でみた『「顔と名前が一致する有名人100人アンケート」の「第十位まで当ててみて」』という問題にも、わたしは異常に食いついて、それを酒の肴に、飲み屋で二時間以上も考えこんでいたことがある。

 結果として、忘れないように書いておくと、

  1. タモリ
  2. 和田アキ子
  3. 安倍晋三
  4. ビートたけし
  5. 明石家さんま
  6. 黒柳徹子
  7. マツコデラックス
  8. 笑福亭鶴瓶
  9. デヴィ夫人
  10. 所ジョージ

 との結果。芸能人に疎いという、わたしの特性を鑑みて、だからこそ上位10人を当てるというのはうってつけだと思い、息巻いて望んだが、結局、ビートたけし明石家さんま安倍総理の三人しか答えられなかった。それも順位は問わずに。

 安部さんはともかく、ビートたけしが4位だった時点で、固定観念に囚われてしまった。ひょうきん族を崇拝して育ったわたしは、当然ビートたけしに対する芸人としての位置づけも崇拝に近かった。だから、彼よりも上位の芸能人がいることがどうしても認められなかった。

 だから、それと同等に功績を残した芸能人を考えると、わたしのなかでは、大橋巨泉上岡龍太郎永六輔坂本九などの、さらに上の世代でしか、思いつかなかった。彼らの名前は100位以内に連ねてすら、いなかったとおもう。それはそうだ。わたしの情報はつねに古い。その古さは、なぜだかわたし自身を追い越して、いつも古い。

お相撲さんに怒られたら、間違いなく縮みあがる。

 

        f:id:flightsloth:20171116030311j:plain

 日馬富士は残念なことになった。他の横綱が不在のなか、孤軍奮闘で横綱の意地をみせてくれたばかりなので、余計に残念に思う。

 わたしのようなニワカで関心を寄せる輩さえも、ようやく相撲人気が復活してきて、いよいよおもしろくなってきたと感じていた矢先なので、本当に相撲を愛するひとたちにとっては、かなりの大打撃なのだろう。

 もちろん相撲に限らず、どの格闘選手においても、いやむしろどんな人間でもプライベートで暴力を振るうことなんてあってはならないことだ。

 そもそも格闘技の本懐は正々堂々と戦うことにあるのではないか。そのためには己を磨いて、無駄な暴力的衝動を抑えることは基本中の基本なのだろうと思う。

 

www.sanspo.com

  この記事を見る限り、日馬富士がものすごく激昂していたのは明らかだ。なにせ照ノ富士にも白鵬にも止められなかったのだから。どうやら鶴竜もその場にいたらしい。想像するとすごい絵柄だ。ちょぴりワクワクするわたしの野次馬根性ごめんなさい。

  不謹慎ついでに話をするが、暴力はいけないことだとしても、動機としてはうなずける。わたしだって嫌われるの覚悟で後輩に注意している最中、スマホをいじりだされたらぶん殴りたくもなる。たぶん悲しさと屈辱感でいっぱいだったのだろう。悲しさと屈辱感は、両方合わさると怒りに転嫁するものだ。まあ暴力沙汰に弁解の余地がないことには変わりはないけれど。  

 

 相撲は、というか日本の競技は古来から特殊なものだ。たとえば弓道も、単に的に矢を当てるだけではなく、それまでの所作のすべてが評価される。むしろ的に当てることはさほど重要でもない。

 そういった競技のほとんどが神事だ。神事では様式を重んじる。所作や行動のすべてに意味がある。単純に勝ちを評価するわけではなく、勝ち方あるいは負け方を評価する。

 所作や様式はスポーツとしての勝利にはまったく関係だ。スポーツとしての勝利にこだわるのなら、神事はあまり必要はない。むしろ邪魔にもなる。近年どんどんテクニカルに効率化されていくスポーツの世界において、所作や様式にこだわることが、勝利につながるとは考えにくい。邪魔なことを重んじ、勝利に固執しない。これはもはや単なるスポーツとは言いがたい気もする。それほどまでに日本の競技は特殊だ。

 そして、不思議なことに、この国のひとは神事でありスポーツであることを、なんの抵抗もなく素直に受け入れていて、そればかりではなく、時として、勝利や栄光よりも、様式美のほうが重要視される場面が多々ある。

 

 だからわたしも、日本の競技は特に、そういう部分に重きを置いているということを加味して、選手たちは所作や素行にはよっぽど精進しなくてはならないものなのだろうと他人事に思い、大変だなあと感じる反面、尊敬に値する部分だということもわかっているつもりで、いちファンとして楽しんでいる。

 わかっているつもりでこの際だから言わせてもらうが、逆にいえば、スポーツはそこまで品行方正でなくてはならいけないのだろうか、と少しばかり思う場面もある。少なくとも相撲のような神事的なこだわりを、ほかのスポーツにあまり持ち込まないでほしいと思っている。

  確かに品良く笑顔を絶やさず、どんなにばかばかしい質問にも快く答えてくる選手は、好感も持てる。応援もしたくなる。

 けれど、そうでないひとにそれを望むのは違うとも思う。良いじゃないか、ふてくされていても、ピアスにドレッドヘアでも、ギャンブル狂いでも。誰かを肉体的に傷つけたわけでもないのだから。そこで神事的様式美を持ち出すなよと思うときがある。好感度と選手の実力は関係ないだろうと。

 

 それはともかく、やはり不謹慎ついでの想像力は広がってしまう。本当に当時の現場はものすごい修羅場だっただろう。なにせ相撲取りだ。

 

 学生の頃、地元の駅でそれはそれは有名なヤンキーに一度だけ絡まれたことがある。「おめぇ、みたことあんなぁ」ろれつの回らない口ぶりで彼は話しかけてきた。それだけでわたしと友人たちは縮みあがったものだ。変な話、実際にみるみるうちにわたしの股間が縮みあがっていくのがわかったほどにだ。

 無事に事なきをえた後で、友人たちと話したら、みんな口を揃えておなじことをいっていた。あれは本当に怖かった。怖いと本当に男は縮み上がることを知った。

 因みにそのヤンキーは「シンナー吸うからティッシュ買ってこいよ、キヨスクのばばあもうおれには売ってくれねえんだよ」といっていた。すかさず友人のひとりがキヨスクに走った。ヤンキーは喜々として帰っていった。今思えばかなり滑稽な話だ。彼も寂しいだけだったのかもしれない。

 

  ところで、わたしがその事件の起こった酒の席にいたらどうだろう。同じモンゴル人同士、日本の相撲という競技の所作や様式や素行について、飲みの席で先輩たちに説教されていたらどうだろう。宴もたけなわ、ひとり先輩の説教は熱を帯び、酒も入り場の雰囲気もピリピリしてきたらどうだろう。そこにいるのはなにせ大関横綱。そうそうたるメンバーだ。地元で有名なヤンキーなんて生やさしいものでもない。二メートル近くの巨漢たちだ。わたしだったら間違いなくその場にいるだけでも、縮みあがるだろう。少なくとも、スマホをいじる余裕なんてないだろう。